練馬桜台聖書フォーラム

33の事項:位置的真理 レジュメ (12)2024年 8/31

2024.09.10

カテゴリー:33の位置的真理, お知らせ, 学び

33の事項:位置的真理についての学びレジュメ(12)2024年8/31

 

十戒が今は無効である根拠とは?
今はキリストの律法が与えられている

 

 2011年フルクテンバウム博士セミナー
聖書が教える救いとは』の後半
33の事項:位置的真理についての学び
THIRTY-THREE THINGS:
A STUDY OF POSITIONAL TRUTH

(テキスト) (チャート)を学んでいます。


ご購入はこちらから(MP3版)

 

レジュメもくじ

前回のレジュメ

 

 

フルクテンバウム博士のメッセージを中川健一牧師がわかり易く通訳してくださったセミナーの内容を基に作成しています。

以下
青色の聖句はセミナーでとりあげられた聖句です(セミナーでは新改訳3を使用しています)。
(ここでは原則、口語訳聖書 旧約聖書1955年改訳 新約聖書1954年改訳 日本聖書協会 を使用しています)
「新改訳3」とは聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会
「新共同訳」とは聖書 新共同訳©共同訳聖書実行委員会

「新改訳2017」とは聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会 からの引用です。
紫色の聖句参考聖句
(英語訳は基本American Standard Version  ASVです。)
黒色の文章がセミナーの説明文

緑色の文章はHP編者による補足説明
茶色の文章Dr.Arnold G. Fruchtenbaum 『A Messianic Bible Study from Ariel Ministries』
MBS110 THIRTY-THREE THINGS:  A STUDY OF POSITIONAL TRUTH からの補足説明です。

興味のあるところはリンク先もご覧になってみてください。

 

紙の聖書「新改訳2017」こちらをどうぞ

 

初めに
Ⅰ.贖い(REDEMPTION)
Ⅱ.和解 (RECONCILIATION)
Ⅲ.なだめ (PROPITIATION)
Ⅳ.赦し(FORGIVENESS)
Ⅴ.義認(JUSTIFICATION)
Ⅵ.栄化(GLORIFICATION)
Ⅶ.解放(DELIVERANCE)
Ⅷ.割礼(CIRCUMCISION)
Ⅸ.神に受け入れられる(BEING ACCEPTABLE TO GOD)
Ⅹ.御霊の初穂(THE FIRSTFRUITS OF THE HOLY SPIRIT)
Ⅺ.神の永遠の計画の中に(IN THE ETERNAL PLAN OF GOD)
Ⅻ.岩(メシア)の上に置かれている
(BASED ON THE ROCK:  THE MESSIAH)
ⅩⅢ.近い者とされた(MADE NIGH)
Ⅻ.岩(メシア)の上に置かれている
(BASED ON THE ROCK:  THE MESSIAH)
ⅩⅢ.近い者とされた(MADE NIGH)
ⅩⅣ.聖なる祭司の一員とされた
(MEMBERS OF A HOLY ROYAL PRIESTHOOD)

ⅩⅤ.神の国に移された(TRANSFERRED INTO GOD’S KINGDOM)
ⅩⅥ.選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民
(A CHOSEN GENERATION:  A HOLY NAION:  A PECULIAR PEOPLE)
ⅩⅦ.天国の市民(CITIZENS OF HEAVEN)
ⅩⅧ.神の家族の一員(IN THE FAMILY OF GOD)
ⅩⅨ.養子縁組(ADOPTION)
ⅩⅩ.神の子(CHILDREN OF GOD)
ⅩⅪ.聖徒の交わりの一部
(PART OF THE FELLOWSHIP OF THE SAINTS)
ⅩⅫ.主にある光(LIGHT IN THE LORD)
ⅩⅩⅢ.天的な関連性(HEAVENLY ASSOCIATIONS)
ⅩⅩⅣ.満ち満ちている(COMPLETION)
ⅩⅩⅤ.すべての霊的祝福を所有している
(IN POSSESSION OF EVERY SPIRITUAL BLESSING)
ⅩⅩⅥ.父なる神から子なる神への贈り物
(A GIFT FROM GOD THE FATHER TO GOD THE SON)
ⅩⅩⅦ.メシアの受け継ぐ遺産
(MESSIAH’S INHERITANCE)
ⅩⅩⅧ.相続人(HEIRS)
ⅩⅩⅨ.律法からの解放(FREED FROM THE LAW)

 

 

 

セミナーテキスト14ページ(43/48)

 

ⅩⅩⅨ.律法からの解放
FREED FROM THE LAW

 

 

(1)

信者は律法から自由になっている。
The believers are freed from the Law
特にユダヤ人信者
true of Jewish believers
についてこれが言える。


この29番目はユダヤ人信者にのみ適用される内容

ユダヤ人しかモーセの律法のもとにいなかったので
異邦人にはこれは関係のない内容
(ユダヤ人以外のすべての人)

 

モーセの律法は613あるが
今この613が全て無効になった

 

キリスト教の歴史を見るといろいろな神学的考え方がある

モーセの律法を
ある人たちは二つに区分し
ある人たちは三つに区分し
この部分は今はいきていない
この部分だけがいきている
ということをし始めた

 

2区分する人た
十戒と
それ以外つまり613ー10=603
の二つに区別する
そして603はもう働いていない
モーセの律法の中の十戒だけが有効だという
言い方をする

10はいきていると言うが現実は9つ
安息日の規定になるとおかしくなってくるので 
たいてい9はいきているという言い方になる

セブンスデーアドベンチストの人たちは安息日に礼拝すると言っている
彼らでさえモーセの律法が言っていた意味での
安息日の守り方はしていない
(モーセの律法において安息日は休息をする日)

 

3区分する人たち
道徳法
市民法
祭儀法
という3区分をする

そのうちの市民法と祭儀法は終わった
しかし道徳法はいきているから守らなければいけないというのが3区分の人たちの立場

問題は何が道徳法かということに関してお互いに意見の食い違いがあり混乱してくる

 

 

 

 

律法の役割

 

モーセの律法のもとにいた人たちにとって
律法とはどういう役割を果たしていたのだろうか

 

セミナーテキストにこの聖句箇所は載っていません
ローマ人への手紙7:7~13
ロマ 7:7 それでは、
わたしたちは、
なんと言おうか。

律法は罪なのか。
断じてそうではない。
しかし、
律法によらなければ、
わたしは罪を知らなかったであろう。

すなわち、
もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、
わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
7:8 しかるに、
罪は戒めによって機会を捕え、
わたしの内に働いて、
あらゆるむさぼりを起させた。

すなわち、
律法がなかったら、
罪は死んでいるのである。

7:9 わたしはかつては、
律法なしに生きていたが、
戒めが来るに及んで、
罪は生き返り、
7:10 わたしは死んだ。

そして、
いのちに導くべき戒めそのものが、
かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。

7:11 なぜなら、
罪は戒めによって機会を捕え、
わたしを欺き、
戒めによってわたしを殺したからである。

7:12 このようなわけで、
律法そのものは聖なるものであり、
戒めも聖であって、
正しく、
かつ善なるものである。

7:13 では、
善なるものが、
わたしにとって死となったのか。
断じてそうではない。

それはむしろ、
罪の罪たることが現れるための、
罪のしわざである。

すなわち、
罪は、
戒めによって、
はなはだしく悪性なものとなるために、
善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

律法があるために罪の性質が動き出す
という説明がある
パウロがこういう言い方をする
7:7e 律法が
「むさぼってはならない」
と言わなかったら、
私はむさぼりを知らなかったでしょう。
(新改訳3)
むさぼりの罪を知らなかったでしょうと言う
むさぼってはいけないという律法があることを知って
彼はむさぼらないように最大努力をするが
それが罪であると知る前と知った後を比べると
いくら努力しても知った後の方がもっとむさぼってしまうという結果になる

つまりむさぼってはいけないと言われると
もっと貪りたくなる
これはあなたに適用されますか。

 

 

セミナーテキストにこの聖句箇所は載っていません
ローマ人への手紙4:15
で既にパウロはこういう言い方をしている
ロマ 4:15 いったい、
律法は怒りを招くものであって、
律法のないところには違反なるものはない。

この怒りとは神の怒りのこと

 

なぜそうなるか
セミナーテキストにこの聖句箇所は載っていません
第一コリント15:56でパウロはこう説明している
Ⅰコリ 15:56 死のとげは罪であり、
罪の力は律法です。
(新改訳3)
1Co 15:56 The sting of death is sin; and the power of sin is the law:
ここでパウロが言っていることは
私たちのうちにある罪の性質が律法の命令を聞いた途端にそれを舞台に動き始めるということ
律法がこうすべきだと命じた途端に
罪の性質は イヤやりたくないと言う
律法がこれこれをしてはならないと言ったら
罪の性質は イヤイヤ やりたいと言う
律法が与えられた途端に
私たちの内側にある罪の性質が
その律法を利用して新しく活発に活動する段階に入っていく
その結果
ユダヤ人がもっと罪を犯すようになってしまう

 

 

セミナーテキストにこの聖句箇所は載っていません
だからガラテヤ3:10
ガラ 3:10 いったい、
律法の行いによる者は、
皆のろいの下にある。
「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、
これを行わない者は、
皆のろわれる」
と書いてあるからである。
Gal  3:10a For as many as are of the works of the law are under a curse:   ~
律法の行いによる人々(新改訳3)
ユダヤ人のこと
その律法のもとにある者はのろいのもとにあるとパウロは言う

律法はもともと救いを得る方法として神から与えられたことは一度もない
律法はすでに救われた者がいかに生きるかという方向性を教えるもの
だから律法の行いによって救いを得ようとする者はかえって罪を犯すことになり
律法によって呪われた存在になるということ

ところが一旦ユダヤ人が信仰による救いを発見し
救われた者に対して律法が方向性を教えているのだとわかると
律法は呪いをもたらすものではなく
実行すると楽しい喜びになってくる

 

 

 

 

キリストがモーセの律法を終わらせた

 

メシアが亡くなった時に613あるモーセの律法は全部無効になった

あなたが大好きな十戒もそれで終わりになっている
というのは律法は一つの統合体なので
これを2分したり3分割したりすることはできない
律法は
へブル語:トーラー
ギリシャ語:ノモス
どちらも単数形

 

セミナーテキストにこの聖句箇所は載っていません
だからヤコブの手紙2:10では律法の命令一つ破っただけで律法全部を破ったことになると言う
ヤコブ 2:10 なぜなら、
律法をことごとく守ったとしても、
その一つの点にでも落ち度があれば、
全体を犯したことになるからである。

律法は2分したり3分したりして
これは有効これは無効というような分割が
不可能な構造になっている
メシア キリストが十字架で亡くなってくださった時にモーセの律法の全てがもう無効になった

 

 

セミナーテキストにこの聖句箇所は載っていません
例えばロマ書7:5~6にこうある
ロマ 7:5 私たちが肉にあったときは、
律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、
死のために実を結びました。
7:6 しかし、
今は、
私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、
それから解放され、
その結果、
古い文字にはよらず、
新しい御霊によって仕えているのです。
(新改訳3)

 

 

またローマ10:4
ロマ 10:4 キリストが律法を終わらせられたので、
信じる人はみな義と認められるのです。
(新改訳3)

Rom  10:4 For Christ is the end of the law unto righteousness to every one that believeth.

 

 

セミナーテキストにこの聖句箇所は載っていません
そしてガラテヤ2:16
ガラ 2:16 しかし、
人は律法の行いによっては義と認められず
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、
私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、
律法の行いによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、
律法の行いによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです。
(新改訳3)

律法によって義とされることはない
と書かれてある
しかしモーセの律法がまだ有効であった時代も
律法による救いはもともとなかった

 

 

セミナーテキストにこの聖句箇所は載っていません
ヘブル7:19
ヘブル 7:19 ──律法は何事も全うしなかったのです──
他方で、
さらにすぐれた希望が導き入れられました。
私たちはこれによって神に近づくのです。
(新改訳3)

Heb 7:19 (for the law made nothing perfect), and a bringing in thereupon of a  better hope, through which we draw nigh unto God.
律法によってはきよめは与えられないとある
律法が有効であった時も
律法は決して私たちをきよめるものではなかった

 

 

 

セミナーテキストにこの聖句箇所は載っていません
ガラテヤ3:19
ガラ 3:19 では、
律法とは何でしょうか。

それは約束をお受けになった、
この子孫が来られるときまで、
違反を示すためにつけ加えられたもの
で、
御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。
(新改訳3)

律法とは
アブラハム契約に付加された
プラスアルファの要因であり
私たちに罪を示すためにそれが与えられた
と言っている
この子孫:アブラハムの子孫 メシア
メシアが来る時までに一時的に与えられたもの

 

セミナーテキストにこの聖句箇所は載っていません
ガラテヤ3:16
ガラ 3:16 ところで、
約束は、
アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。

神は「子孫たちに」と言って、
多数をさすことはせず、
ひとりをさして
「あなたの子孫に」と言っておられます。
その方はキリストです。
(新改訳3)

今やメシアは来られた
だからこの律法の役割はもう終わったと言う

少しあとを読むと
ガラ 3:24 こうして、
律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。

私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
3:25 しかし、
信仰が現れた以上、
私たちはもはや養育係 a tutor の下にはいません。
(新改訳3)

つまり律法の下にはもはやいないと言う

 

 

 

 

隔ての中垣

 

エペソ書2:11~16さきほど確認した
エペ 2:11 だから、
記憶しておきなさい。

あなたがたは以前には、
肉によれば異邦人であって、
手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、
無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、
キリストを知らず、
イスラエルの国籍がなく、
約束されたいろいろの契約に縁がなく、
この世の中で希望もなく神もない者であった。

2:13 ところが、
あなたがたは、
このように以前は遠く離れていたが、
今ではキリスト・イエスにあって、
キリストの血によって近いものとなったのである。

2:14 キリストはわたしたちの平和であって、
二つのものを一つにし、
敵意という隔ての中垣を取り除き、
ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。

それは、
彼にあって、
二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
2:16 十字架によって、
二つのものを一つのからだとして神と和解させ、
敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

律法とは
ユダヤ人と異邦人を隔てる隔ての中垣
the middle wall of partition であった

その隔ての中垣の役割
異邦人が
ユダヤ人の契約の祝福に与ることから
遠ざけられていた

~~~~~~~

このユダヤ人の契約とは
モーセ契約のことではない

アブラハム契約
土地の契約
ダビデ契約
新しい契約という
四つのユダヤ人の契約の祝福から遠ざけるために
モーセ契約がありモーセの律法があった
そこを間違えないように

異邦人がモーセ契約から遠ざけられていたのではない
モーセ契約およびモーセの律法は
異邦人を4つの無条件契約から遠ざけるために
有効に働いていた

それが今終わったということ

~~~~~~~

メシアが亡くなった時に
その隔ての中垣が取り去られた

 

 

 

 

祭司職と律法

 

そしてヘブル書7:11~18
ヘブル 7:11 もし全うされることがレビ系の祭司制によって可能であったら
――民は祭司制の下に律法を与えられたのであるが――
なんの必要があって、
なお、
「アロンに等しい」と呼ばれない、
別な「メルキゼデクに等しい」祭司が立てられるのであるか。

7:12 祭司制に変更があれば、
律法にも必ず変更があるはずである。

7:13 さて、
これらのことは、
いまだかつて祭壇に奉仕したことのない、
他の部族に関して言われているのである。

7:14 というのは、
わたしたちの主がユダ族の中から出られたことは、
明らかであるが、
モーセは、
この部族について、
祭司に関することでは、
ひとことも言っていない。

7:15 そしてこの事は、
メルキゼデクと同様な、
ほかの祭司が立てられたことによって、
ますます明白になる。

7:16 彼は、
肉につける戒めの律法によらないで、
朽ちることのないいのちの力によって立てられたのである。

7:17 それについては、
聖書に

「あなたこそは、
永遠に、
メルキゼデクに等しい祭司である」

とあかしされている。
7:18 このようにして、
一方では、
前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、

モーセの律法と
レビ族が祭司になるというレビ的祭司のあいだには深い関係があると言う
つまりレビ的祭司がベースになってモーセの律法が機能している
レビ的祭司職が働くことによってのみ
モーセの律法が有効に機能していく

 

ところが詩篇110:4では
将来メルキゼデクの位に等しい祭司が登場するということが預言されている
詩 110:4 主は誓いを立てて、
み心を変えられることはない、

「あなたはメルキゼデクの位にしたがって
とこしえに祭司である」。

モーセの律法を変更しなかったなら
レビ的祭司からメルキゼデクの位の祭司に移行することはありえない
へブ7の18節でそのことが起こっている

モーセの律法が終わった時に
レビ的祭司職も終わる
メルキゼデクの位に等しい祭司が登場したなら
モーセの律法とは違った体系の律法が生まれてこないとおかしい

 

 

 

 

十戒

 

2コリント3:2~11
二コリ 3:2 わたしたちの推薦状は、
あなたがたなのである。

それは、
わたしたちの心にしるされていて、
すべての人に知られ、
かつ読まれている。

3:3 そして、
あなたがたは自分自身が、
わたしたちから送られたキリストの手紙であって、
墨によらず生ける神の霊によって書かれ、
石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、
はっきりとあらわしている。

3:4 こうした確信を、
わたしたちはキリストにより神に対していだいている。

3:5 もちろん、
自分自身で事を定める力が自分にある、
と言うのではない。

わたしたちのこうした力は、
神からきている。

3:6 神はわたしたちに力を与えて、
新しい契約に仕える者とされたのである。

それは、
文字に仕える者ではなく、
霊に仕える者である。

文字は人を殺し、
霊は人を生かす。

3:7 もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、
そのためイスラエルの子らは、
モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、
その顔を見つめることができなかったとすれば、
3:8 まして霊の務は、
はるかに栄光あるものではなかろうか。

3:9 もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、
義を宣告する務は、
はるかに栄光に満ちたものである。

3:10 そして、
すでに栄光を受けたものも、
この場合、
はるかにまさった栄光のまえに、
その栄光を失ったのである。

3:11 もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、
まして永存すべきものは、
もっと栄光のあるべきものである。

ここでは十戒に特に焦点があっている
7節 石に刻まれた文字(新改訳3)
written, and engraven on stones
が十戒のことを表している

十戒には2つの性質があると言う
死の務め(新改訳3)the ministration of death
罪に定める務め(新改訳3)9節
the ministration of condemnation
十戒がもしまだ有効であるとするなら
それは死の務めであり罪に定める務め

 

7節と11節に
ギリシャ語のカタアゲヨーというという言葉があるが
これは無効になるという言葉  passing away
十戒は今無効になったということ

 

 

 

キリストの律法

 

では今私たちは
むさぼったり嘘をついたり盗んだり殺したりすることが赦されているのか
つまり十戒は無効になったと言っているから
それをやってもいいのかという話

 

それはやってはいけない
なぜかというとモーセの律法は終わったが
新しい大祭司職に伴う新しい律法が与えられていて
メシアの律法「キリストの律法」と言われるものがあるから

 

聖書の歴史を見ると神さまは
違った時代
また違った人々に異なった律法の体系を与えていく

例)
アダム契約においてはそれにかなった律法があり
エデン契約にはそれにかなった律法が与えられ
ノアの契約にはそれにあった律法
そしてモーセ契約にはモーセの律法となってくる

今はキリストの律法が与えられている

千年王国になった時には御国の律法が与えられるようになる
(御国の律法という名称は聖書にはでてきません)

 

律法体系が変わると3種類のことが起こる

①或る命令は
新しい律法の体系においても繰り返される
なくなる命令も出てくる
③今までなかった新しい律法が付け加わることがある
その時に私たちは
一つのディスペンセーションから次のディスペンセーションに移ったとわかる

 

今私が盗んだり人殺しをしたりしない理由は
「モーセの律法」に従っているのではなく
「キリストの律法」がそう命じるから

十戒は全部終わったが
そのうちの九つまでは「キリストの律法」において再び取り上げられている

一つだけつまり安息日の規定だけは
キリストの律法ではリピートされていない
ほかの十戒の九つは再度取り上げられている
(キリストの律法は使徒書簡に散らばって書かれている)
しかし大半のモーセの律法の中の律法が終わった

例)
動物の犠牲を捧げよという命令はもう終わった
何を着るべきかという衣服に関する命令も終わった
食物規定も終わった
もしモーセの律法が生きていたら
日本に来て今食べている物ほとんどダメだということになる

もしモーセが日本に住んだら餓死する

 

しかし教会時代になって与えられた律法の中には今までなかったものもある

別の言い方でこれを説明する

アメリカには50州ある
アメリカの道路交通法は国の法律ではなく州の法律
最初に運転免許証を取ったのはカリフォルニアだったのでカリフォルニアの道路交通法に基いて私は運転していた
ニューヨークに移転した時に免許証を書き換えてニューヨークの道路交通法に基づいて運転するようになった
カリフォルニアとニューヨークの道路交通法は非常によく似た規定がある
・二つとも信号が赤になったら止まる
赤信号で止まるのはカリフォルニアの法律に基づいて運転しているからではなくニューヨークの道路交通法に従っているということ
今ニューヨークに住んでニューヨークで運転しているのでカリフォルニアの道路交通法は全く無関係

ところが違っている点もある
アメリカでは右側通行
・十字路で赤信号だとストップするがカリフォルニアでは赤でも左から車が来てなかったら右折していい
・しかしニューヨーク州に行くと前が赤だったら止まらなければ右折できない
ニューヨークで赤信号で右折して交通違反で捕まったら「お巡りさん、カリフォルニアではこれは許されてるんだ。」と言っても意味がないこと
ニューヨークに住んでいるのでカリフォルニアの法律は適用されない

道路交通法二つはたくさん似たところがあるが
この点は違う

カリフォルニアはニューヨーク州から或いはニューヨーク州はカリフォルニア州から規定を借用したと言えるのか?
両方とも州議会があり
そこで法律を作り独立して規定を決めているのだから
借用してるのではない

 

それを今学んでいる霊的真理に適用すると
「モーセの律法」と「メシアの律法」に
似たところがある
「メシアの律法」が「モーセの律法」から
借用したのではない
「モーセの律法」と「メシアの律法」は全く別
しかし両方に共通したものがあるというのはちょうどニューヨーク州とカリフォルニア州の道路交通法が似たところがあるのと同じこと

 

ユダヤ人信者としてフルクテンバウム先生は
モーセの律法の要求から完全に今解放されている
毎年日本に来て日本食を楽しめる理由は
モーセの律法から解放されているから
(ユダヤ人信者が食物規定を守るのも守らないのもそれは各自の自由)

 

 

 

 

 

一コリ 9:21 律法のない人には
――わたしは神の律法 law to God の外にあるのではなく、
キリストの律法 law to Christ の中にあるのだが――
律法のない人のようになった。
律法のない人を得るためである。

 

ガラ 6:2 互に重荷を負い合いなさい。
そうすれば、
あなたがたはキリストの律法 the law of Christ を全うするであろう。

 

 

 

 

 

33の事項:位置的真理(13)2024年9/14
ⅩⅩⅩ.古き人が裁かれ新しい歩みが始まった
(THE JUDGMENT OF THE OLD MAN UNTO A NEW WALK)
ⅩⅩⅪ.父、子、聖霊に結ばれた
(UNITED TO THE FATHER AND TO THE SON AND TO THE HOLY SPIRIT)

 

 

練馬桜台聖書フォーラム

代表 :南 知之

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