死後の世界 レジュメ(20)2019年6/22
死後の世界セミナー受講者による質問第一弾
2012年フルクテンバウム博士セミナー
『聖書が教える死後の世界
ー個人的終末論ー』(テキスト)
(チャート 死者の場所(13の用語))
(ホワイトボード)を学んでいます。
ご購入はこちらから(MP3版)
(CD、DVD、テキストは販売終了)
フルクテンバウム博士のメッセージを中川健一牧師がわかり易く通訳してくださったセミナーの内容を基に作成しています。
以下、青色の聖句はセミナーでとりあげられた聖句です。
紫色の聖句は参考聖句です。
黒色の文章がセミナーの説明文です。
緑色の聖句や文章は補足説明です。
興味のあるところはリンク先もご覧になってみてください。
死後の世界Q&A(1/3)
セミナー受講者から出された質問に先生方が答えました。
Q1:
全く福音を聞かずになくなった方の死後について、もう一度教えてください。
自分の家族、親族、知り合いが信じないままで死に、天国に行ったと思っていたのですが、この講義でそうではないと教えられました。
どのように考えたらいいのでしょうか?他
A1:(フルクテンバウム博士による、以下(F博士))
まず私自身のことからもう一度言わせてください。
私はユダヤ人の家族で育ちました。 ユダヤ人はもともとイエスさまと関係を持たない民族です。
私は17人の家族親族をホロコーストで亡くし6人の兄弟姉妹がいますが、私以外一人も信者になった人はいないのです。
父親は信じないままで死んでしまいました。
母は88歳で(2012年の時点)、彼女の救いのために毎日祈っていますが未だ信じていません。
ですから聖書がセカンドチャンスがあると教えているのなら、私の心はどんなに楽になるでしょう。
しかし聖書はそう教えていません。
ですから、日本の皆さんがこの国で福音を聞かないで死ぬとか、信じないで死ぬということは…同じ悲しみを共有しているユダヤ人である私には痛いほどわかるのです。
しかし、私が最終的な権威として認めるものは聖書の教えです。
ですから、私がどう願うか、どういう思いを持っているかが私の教えの内容ではなくて、聖書がどう教えているかが私の教えの内容になるべきです。
すでに亡くなった方に関しては、私たちはもはや変更を加える方法はないのです。
ですから未だ救われる可能性が残っている生きている人のために私たちは努力すべきです。
再度
Q2:
福音を聞かないで死んだ、特に異教社会に住んでいる人たちはどうなるのでしょうか?
A2:(F博士)
聖書が教えているのは、聞いていない情報に関して責任を問われて滅びるということではないのです。
知らないことの責任は問われません。
けれども福音を聞かなかったという理由で赦され救われるというものでもないのです。
福音を聞かなかった人にはセカンドチャンスがある、救われる可能性があるというのでしたら、今私たちができる最善のことは黙っていることです。
聞かせると危ない。
ということは無知は祝福だという教えにつながるわけです。
つまり、福音を聞いていない人はセカンドチャンスがあると言うのでしたら、伝えない方が一番いいことになります。
聖書はどこにもそうは教えていません。
ロマ書1章が教えていることをもう一度確認してください。
自然界を見ていると、一般啓示(自然界と良心に示されている、つまり誰でも知ることができる神の啓示。それに対して「福音の三要素」のように教えてもらう必要がある神の啓示が特別啓示)という光が十分にあり、それに心を開いている人は二つの結論をだすことができます。
①全知全能の神がいらっしゃるということ。
②これほど秩序ある宇宙をお創りになった方、宇宙の運行を支えている方は遍在の神であるということ。
この二つは一般啓示をとおして誰にでもわかることです。
この二つを信じたからといって救われるわけではありませんが、すごく大事です。
この一般啓示に対して心を開いて応答したならば、神さまは次のステップとして必ず救いのために必要な情報をその人に届けることができるのです。
ですからロマ書10章にいくと、主のみことばを伝える者が派遣されるという言葉にいきます。
ロマ10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」How beautiful are the feet of them that bring glad tidings of good things!
そして、自分に与えられている光に応答したならば、その福音を聞くことができるようになります。
ロマ 1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。1:19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
一般啓示
1:21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
創造主を礼拝するより人間の手で作った偶像を礼拝するようになるのが罪人の特徴です。
目で見える木、石を用いて目に見える神々をつくり、それを礼拝します。
偶像礼拝の罪、第一番目の堕落のステップ
1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
2番目に性的不道徳
1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、1:27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
3番目が同性愛の罪
1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。
神がその人を見放すことにつながっていくのが一般啓示に応答しない罪人の普通の姿です。
今アメリカの状況を見ていると、第3のレベルに近づいていることがわかります。
聖書が教える単純な真理は、もし誰かが福音を聞かずに亡くなったとしたら、その人は生きている時に福音を聞いたとしてももともと信じない人だというのがロマ書1章と10章からでてくる結論なのです。
もし福音を聞かされて信じる人ならば、神さまは必ずその人に福音が伝わるようにしていてくださるということ。
既に死んだ人に関して私たちはその状況を変化させる手立ては何もないのですから、神の御手に委ねておく必要があります。
今、生きている人に私たちの関心を集中させて伝道すべきです。
(中川健一牧師による補足)
亡くなった家族、特にクリスチャンホームの人(両親がクリスチャンの子供)に関して亡くなる瞬間は私たちにはわかりません。
福音は、亡くなる1秒前にでも、今まで聞かされてきたことを神さま、イエスさま、信じますと信仰告白したら たとえ自殺した人であっても、救われます。
最後は神が愛と義をもって裁いておられるから、私たちは死んだ人のことに関してとやかく言わないほうがいいと思います。
一般論として公に信仰告白していないならば、私たちがみるところにおいてはその人は救われていないけれども、死ぬ瞬間までわからないので、そこにかすかな余地があるということは認めておくべきだと思います。
(Q1、Q2に関連した質問は次回も繰り返しでてきます。)
Q3:(英語で)イエスが復活のからだであらわれた時に傷跡はあったのですか?
手のひらと脇に。
傷跡が残っていたなら何故そうなのでしょうか?
A3:(F師)
イエスさまが復活して天にのぼるまでの40日の間、イエスさまのからだは復活のからだです、間違いなく。
ただ、まだ栄光に変えられていません。
それゆえ釘の痕と槍の痕が未だ身体に残っています。
その釘の痕、槍の痕が残っているのは、復活したイエスさまがあの亡くなったイエスさまであることを弟子たちに証明するためです。
トマスは、それを見ない限りは信じないと言いました。
ヨハ 20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。
しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
天にのぼり、父なる神の右の座に座しているその段階において、その傷は消えています。
黙1:12〜20
黙 1:12 そこで私(ヨハネ)は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。
振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
1:13 それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。
しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。
「恐れるな。
わたしは、最初であり、最後であり、1:18 生きている者である。
わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
また、死とハデスとのかぎを持っている。
1:19 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。
イエスさまは栄光に変えられた神の子としての姿であらわれています。
栄光に変えられた御子のからだに釘の痕があるとは書かれていません。
私たちのからだに傷がある、しわがあるとか、皆さん安心してくださいね、栄光のからだで栄化された時にはもうツルツルですよ(笑)
栄光に変えられたイエスさまは永遠にご自分の神性のうえに人間性を持つことを選ばれました。
ですからイエスさまの栄光に変えられた形の人間性は永遠に続くのです。
Q4:白い御座のさばきでさばきの度合いを決めるということでした。
どれくらい救いの情報を得ていたのか、どれくらい拒否したかにより決まると いうことですが、それはどこに書かれていますか?
A4:(F師)
黙示録20:11〜15です。
黙20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。
地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。
そして、数々の書物が開かれた。
また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。
死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。
そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。
20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。
これが第二の死である。
20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
そこでは本が開かれています。
数々の書物の中にその人(不信者)の履歴が書かれてあり、それに基づいて(大きな白い御座で)さばきの度合いが決められています。
二つのことはそこからでてくる結論です。
不信者は「大きな白い御座」で罪の軽重がさばかれ、信者は「キリストのさばきの座」で千年王国における報奨が決められます。
Q5:人の霊は死ぬと旧約からイエスの血まで[イエスの昇天までですね]と現在とは異なったパラダイス[同じパラダイスですが、パラダイスのある場所が違いますね]に行くことは良くわかりました。
旧約時代に死んだ聖徒はシオールのパラダイスから第三の天にうつったと言われましたが、聖書の根拠はどこですか?
キリストの再臨の時に復活するまで地のシオールにいるのではないでしょうか?
A5:(中川健一牧師による、以下(中川師))
セミナーテキスト27ページのc. キリストの昇天のところ
エペソ4:8〜10
エペ 4:8 そこで、こう言われています。
「高い所に上られたとき、
彼は多くの捕虜を引き連れ、
人々に賜物を分け与えられた。」
4:9 ──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
4:10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──
将軍が凱旋して来る時の姿、捕虜を引き連れて凱旋して来るわけです。
ここで旧約時代の聖徒たちを捕虜という言葉で表現している理由は、彼らはキリストの昇天の時に天に上げられるまではアブラハムのふところにいました。
そこ自体は安息の場でしたが自由に生きることのできる場ではありません。
特に神の臨在を未だ経験していません。
そういう意味で、そこは捕らわれの場なのです。
そこから引き上げられて自由な場に行く。
それが、第三の天、或いはパラダイス、天にあるパラダイスです。
エペソ書4:8〜10が旧約時代の聖徒が天に上げられたという根拠です。
Q6:ルカ8章の豚に入った悪霊は、豚が水死したあとはどこに行ったのでしょうか?
A6:(F博士)
ボートに乗って向こう岸に渡ったと思います(笑)
何が起こったか書いてないのでわかりません。
(中川師)
英語ではデビルドハムというアメリカ人が食べる食べ物があります。
悪魔のハム、卵と混ぜてマヨネーズをかけて食べるらしいです。
(deviled辛く味つけした)
ルカ 8:27 イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。 8:28 彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」8:29 それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。8:30 イエスが、「何という名か」とお尋ねになると、「レギオンです」と答えた。悪霊が大ぜい彼に入っていたからである。8:31 悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。8:32 ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。8:33 悪霊どもは、その人から出て、豚に入った。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ。8:34 飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。8:35 人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。8:36 目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。8:37 ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。8:38 そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。8:39 「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。
Q7:パラダイスは未来は新しいエルサレムにあるということですが、未来は新しいエルサレム自体がパラダイスであるということでしょうか?
A7:(中川師)
そう考えてもいいのですが、厳密には新しいエルサレムの中にパラダイスがあると考えたほうがいいです。
パラダイス:復活のからだを与えられ祝福を受けている私たちが住む場所
新しいエルサレム:私たち人間以外にもいろんなものが存在しています
実質的には私たちは新しいエルサレムにあるパラダイスに住みます。
新しいエルサレムが下ってきて、そこにパラダイスがあります。
ですから、厳密に言えば違うのですが、同じだと考えてもあながち間違いではないです。
Q8:イエスさまを信じたのに、うつ病等になり自殺する人がいます。
そういう人はどうなっているのでしょうか?
A8:(F博士)
まずその質問に答えるためには「救い」とは聖書でどう教えられているかを理解する必要があります。
私たちはどんなに善行を積んでも救いを自力で獲得することはできません。
救いは神の恵みによって与えられるものです。
一度獲得したら、永遠に獲得しています。
つまり、救いを得るために私たちにできることはないし、また、救いを失うような行動もあり得ないということです。
ですからもし信者が、自ら自分の命を取る=自分で自分の生きる時間を決めてしまうなら、その結果を刈り取ります。
しかしそれは救いを失うということではなく、キリストの御座のさばきの時に、どのように忠実に生きたかというさばきにおいて、その結果が問われるのです。
ですから、救いを失ったということではありません。
それは救いの教理からでてくる考え方です。
Q9:第1コリント15:29死者のためのバプテスマの意味はよくわからないということでしょうか?
亡くなった先祖の救いのためだと聞いたことがありますが。
A9:(中川師)
私もかつて第1コリント15:29の「死者のバプテスマ」の意味を、いろいろな注解書や神学書で調べたことがありますが、当時の記憶で100種類以上の異なった解釈がありました。
フルクテンバウム博士の洗礼理解
水の中につかる=キリストの死と合体化することをあらわし
水からあがる=復活をあらわしています
アリエル・ミニストリーでは水につかるのはタダだけど、あげるのはお金をチャージすると言っていましたね(笑)
フルクテンバウム博士によるひとつの解釈
死者のためのバプテスマ:バプテスマ(洗礼)を受けるとキリストの死と合体するという意味に解釈しています。
おそらく原語からの解釈だと思います。
ありとあらゆる解釈があるのでこの聖句をどう解釈するにしても、これを用いて煉獄とか、死んだ人を救うためにこれをやるという教えは聖書的ではないということだけははっきり言えます。
中川牧師は未信者の高校1年間、アメリカのモルモン教の家にホームステイ
死んだ人のための代理バプテスマ
解釈学の原則:死者のためのバプテスマという言葉から、ひとつの教理をうちたててはいけません。
はっきり意味がわからないところに教理を打ち立てることがカルトの特徴です。
フルクテンバウム博士の説は、キリストの死と一致するという意味でのバプテスマ。
十分根拠のあるひとつの解釈であると覚えておいてください。
Q10:ヨハネ11:25死んでも生きる。
ヨハネ11:26生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない。
A10:(F師)
ヨハ 11:25 イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。
いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
肉体的に死んでも、わたしイエスを信じる者は霊的に生きている(神さまとつながっている)ということです。
ヨハ 11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
このことを信じますか。」
26節は同じことを違う角度から言っています。
生きている時にわたしを信じた者は決して死ぬことがありません。
つまり、霊的に死ぬことがない(神さまと切り離されることはない)ということです。
次回の予告
死後の場所が地球の中にあることについて
罪の贖いの完成はいつ
流産した赤ちゃんは
新しいエルサレムにある6つの存在
ヨナは一度死んだのか
信じるチャンスがこの世だけなら伝道が強迫観念からのものになるのでは
洗礼を受けたが離れてしまった者は天国に入れるのか
死んだ人は私たちを見ることができるのか
エリヤと復活の初穂であるはずのキリストとの関係
反キリストの生まれ
創世記6章ネフィリムはどこへ
タータラスの推論6番目
伝道
信じるチャンスのなかった人について
新しい地はどこに
死後の世界レジュメ(21) 2019年7/13
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