練馬桜台聖書フォーラム

終末論のクライマックス レジュメ(3)2021年 2/27

2021.02.27

カテゴリー:学び, 終末論のクライマックス

終末論のクライマックス レジュメ(3)2021年2/27

 

イエスさまの方針転換

 

2015年フルクテンバウム博士セミナー『終末論のクライマックステキスト) (チャート)す。
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レジュメもくじ

前回のレジュメ(2)

 

 

フルクテンバウム博士のメッセージを中川健一牧師がわかり易く通訳してくださったセミナーの内容を基に作成しています。

以下、青色の聖句はセミナーでとりあげられた聖句です。
(但し、ここでは新改訳2017を使用しています)
紫色の聖句は2回目の聖句または参考聖句です。
黒色の文章がセミナーの説明文です。

緑色の文章はHP編者による補足説明です。

興味のあるところはリンク先もご覧になってみてください。

 

 

再臨の前提条件
THE BASIS OF THE SECOND COMING OF THE MESSIAH

 

 

セミナーテキストの3ページ

Ⅰ.イエスのメシア性の拒否(3/4)
THE REJECTION OF HIS MISSIAHSHIP

 

イエスさまが行う奇跡の目的が変化していったことをみてみましょう。

 

 

セミナーテキストの3ページ

A.復活のしるし
The Sign of the Resurrection: Matthew 12:38-40

 

マタ12:38~40
マタ 12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに
「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」
と言った。
12:39 しかし、イエスは答えられた。
「悪い、姦淫の時代 An evil and adulterous generation しるしを求めますが、しるしは与えられません。
ただし預言者ヨナのしるしは別です。

12:40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
パリサイ人たちはイエスのさばきの言葉を聞いたのち、今度はイエスを攻撃し始めます。

イエスから一つのしるしを求めています。

 

実はこの時点までにイエスはいわゆるメシア的奇跡も含めて無数に奇跡を行ってきました。
それにもかかわらず彼らはそれを拒否しました。


ここでイエスは奇跡に関する新しい方針を宣言されます。

 

イエスの奇跡の目的の変化

 

ここに至るまでのイエスの奇跡の目的
イスラエルがイエスをメシアだと受け入れるようになるため

しかし、彼らはイエスを拒否するという結論をだし
自らの上に赦されない罪にくだるさばきを招きました。

 

これからのイエスの奇跡の目的
奇跡は実は弟子訓練の為のものになる

ユダヤ人たちがイエスを拒否したため
弟子たちは今後新しい使命に生きなければいけなくなり、その為の準備が始まります。

弟子たちの行い:
使徒行伝で展開される内容

 

 

その世代のユダヤ人たちには
たった一つのしるし、ヨナのしるしだけが与えられるという宣言

イスラエルにとってヨナのしるしは3つの形

ラザロの復活(レジュメ4にて)
イエスの復活
③大患難時代に登場する二人の証人の復活

これだけが公にイエスさまが彼らに与えるしるしです。

 

イエスさまが新しい方針について宣言したのち
一時中断していたテーマつまりさばきがくだるというテーマについて再び取り上げて解説します。

 

 

 

 

B.掃除され、片付いており、空き家になっている
Swept, Garnished, and Empty: Matthew 12:41-45

 

ここでも今の世代の人々という言葉に強調点があることに注目をしてください。

3回(新改訳3、ASV訳)今の世代の者この時代の人々)という言葉がでてきます。
マタ12:41~45
マタ 12:41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々 this generation とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。
ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。
しかし見なさい。
ここにヨナにまさるものがあります。
12:42 南の女王が、さばきのときにこの時代の人々 this generation とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。
彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。
しかし見なさい。
ここにソロモンにまさるものがあります。
12:43 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。
でも見つからず、12:44 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。
12:45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。
そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。

この悪い時代 this evil generation にも、そのようなことが起こります。」
この時代の人々の罪に焦点があっているのをご覧ください。

 

マタ12:41
ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。(新改訳2017)
ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。(新改訳3)
The men of Nineveh shall stand up in the judgment with this generation, and shall condemn it: (ASV)

 

マタ12:42
南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。
南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。
The queen of the south shall rise up in the judgment with this generation, and shall condemn it:

イエスは旧約聖書から二つの異邦人の例を引いています。

二人の異邦人の例:
ニネベの人々
南の女王つまりシェバの女王
より少ない啓示の光に応答した例
より少ない啓示の光に彼らはしっかりと応答した

 

さばき:白い御座のさばき」と言われる内容

ユダヤ人のこの時代の人々が裁かれる時に、ニネベの人々南の女王立って彼らに対して証言をし、彼らを罪に定め

 

 

セミナーテキストの4ページ

彼らにくだるさばきの内容を説明する為にたとえ話が語られます。
よく知られているたとえ話ですが、それが意味していることを見逃しているケースが非常に多いのです。

 

マタ12:43~45
12:43 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。
でも見つからず、12:44 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。
12:45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。
この悪い時代 this evil generation にも、そのようなことが起こります。」
このたとえ話では、汚れた霊がある人のうちにいたのですが、追い出されたわけではない、自らすすんでもっといい場所がないかと捜すために出て行きました。

しばらく捜しまわりましたが、適当な空き家がなかったので、もと住んでいた家、つまりもとの人のところに帰っていきました。

 

マタ12:44
~帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。

彼は3つのことを発見しています。
1 掃除されて、
2 きちんと片付いています
3 家は空いていて、

空き家になっている、つまり、その悪霊が出て行ったあと、別の霊がその人のうちに住まなかったのです。
それは聖霊の可能性もある
悪霊の可能性もある

家が空いているのでこの悪霊はもとのところに戻ることができました。

イエスさまは最後の状態は初めよりも悪くなると言われました。
最初は悪霊一匹でした。
しかし家が空っぽになったので最後は8匹になりました。

 

このたとえ話の結論は45節の一番最後にあります。

悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」(新改訳3)
この悪い時代 this evil generation にも、そのようなことが起こります。」
この世代の者たちもまたそういうことになると言うのです。

 

ここでもこの時代 this generation というのが強調点になっています。

振り返ってみるとこの世代はバプテスマのヨハネの宣教から始まりました。

バプテスマのヨハネの奉仕の目的はやがて来るべきメシアを受け入れるための準備をすることでした。
つまり、バプテスマのヨハネがしたのはその世代の者たちの心を掃除しきちんと片付けることでした。

しかし、イエスを拒否した為にその世代の者たちは空き家状態になっています。
空き家になっているので最後は最初よりもさらに悪い状態がくるということです。

 

当時はローマの支配下にあり重税を払わなければいけない状態でしたが、ローマはユダヤ人が民族的に独自の統治をすることを許していました。
エルサレムは健在で、そこにある神殿も栄光の姿で機能していました。
またサンヘドリンという半分自治を許されているような議会もそこに存在していました。

しかしイエスがこの言葉を語った40年後にローマの軍勢がここを攻めてきました。
4年戦いが続き、最後の2年が包囲作戦でエルサレムは石が、石の上に一つも積まれない状態になるほどに破壊されてしまいました。

ユダヤ人たちは世界に離散する民となりました。

 

 

 

 

 

イエスの奉仕の内容が革命的に変わりました。

 

4つの分野での変化

①奇跡の目的の変化

既に先ほど触れた奇跡の目的が変わりました。

もはや奇跡はイスラエルの民のためではなく、12弟子を訓練する為のものになりました。

 

まとめ1

イエスのしるしは
国全体から

使徒たちに向かった

 

 

 

②奇跡を行う対象の変化

これ以降、奇跡の対象がどういう人であるかが変わりました。

 

前半

マタイ12章にいくまではイエスは一般民衆が信じることができるように奇跡をおこなわれ、奇跡の受け手に信仰があるかどうかは問われませんでした

 

例)
ヨハネの福音書5章にでてくるベテスダの池での病人の癒し

イエスがその人を見つけ出し、癒したわけですが、彼自身はイエスがどういう方か全く知りませんでした。
その日の午後、ユダヤ人たちが誰がお前を癒したかと質問しましたが彼はわかりませんでした。
彼自身がイエスを捜してどういう人かを発見しなければいけない状況でした。

そこで、3つのことが考えられます。

1彼はイエスが誰だか知らなかった。
2イエスがどういう自己宣言をしているかという知識もなかった。
3その癒しを受けた側には信仰はなかった。

つまり、マタイ12章以前は受け手の側が信仰があるかどうかは問題ではなく、信仰がなくても癒されたということです。(みことばへの従いはありましたね)
ということは奇跡は彼らがイエスがメシアであることを信じる為に行われた奇跡だということです。

 

しかしマタイ12章以降その原則が変化します。
これ以降は信仰をもっている人の必要に応えてイエスが奇跡を行われます。
まず信仰があることが前提条件になります。

 

 

まとめ2前半

イエスの奇跡は
信仰がない一般大衆から

信仰を持った個人を対象とするものに移行した

 

 

 

後半

マタイ12章に至るまでは、奇跡を体験した人に、行って神がどれほど大いなることをしてくださったかを言い広めなさいと命じていました。
しかしマタイ12章以降は、誰にもこのことを言うなとおっしゃっています。

この時からイエスは、メシアの力を体験した人に、それを言い広めてはいけないとお命じになったのです。

 

 

要約2後半

全ての人に言えという方針から

誰にも言うなという方針に変化した

 

 

 

 

③メッセージの内容の変化
イエスと弟子たちが宣べ伝えるメッセージの内容の変化です。

 

マタイ12章までは、イエスは町々村々、会堂から会堂へと巡りながら自分がメシア的王国をもたらす王であると宣言していました。

使徒たちも同じ内容のメッセージを語っていました。

 

しかし、マタイの福音書12章以降は弟子たちにイエスがどなたであるかを言い伝えてはいけないと命じられました。

マタイの福音書16章16でペテロがあの有名な信仰告白をしますね。
「あなたは、生けるまことの神の御子キリストです。」
そのあとイエスさまがペテロにわたしがメシアだということを誰にも言うなと命じています。
マタ 16:20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。

弟子たちもまた沈黙という方針に従わなければいけませんでした。

その禁止令が取り去られるのが
マタイの福音書28章の大宣教命令になってからです。
マル 16:15 それから、イエスは彼らに言われた。
「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。

 

要約3

イエスのメシア性を宣言し、言い広めるところから

それについて沈黙をするというところに変化した

 

 

 

 

④イエスが真理を教える方法の変化
大きな変化はイエスが真理を教える方法が変わったということです。

マタイ12章まではイエスが人々に教えた時に良く理解できる方法で教え、事実人々もそれを理解しました。

その理解できるメッセージの例)
マタイ5章~7章の山上の垂訓
山上の垂訓が終わると人々はそれを理解したとマタイは記しています。
特にイエスがパリサイ人や律法学者とどういう点で違うかということについて民衆は良く理解できました。
マタ 7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

 

しかしマタイ13章に入るとイエスは異なった教え方を採用します。
マタ 13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
13:2 すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。
その日という言葉がでてきます。On that day

その日とはどの日なのでしょうか。
それは、イスラエル人たちがイエスを拒否し、赦されない罪を犯したまさにその日のことです。

 

そして3節にいくとイエスは多くのことをたとえで語られたとでてきます。
13:3
イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。
「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
イエスはこれ以降たとえ話をとおしてのみ人々を教えることをしました。

 

10節に入ると弟子たちが「なぜ、たとえでお話しになるのですか」と聞いていますね。
13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。
そういう教え方に慣れていなかったということです。

 

 

イエスさまは、たとえをとおして教える教えには二つの目的があると言われました。

1)
弟子たちに対しては
真理がよりわかるように
光を当てるという目的

2)
民衆に対しては
真理を隠す
という効力
人々が聞いてもわからない、またわかろうとしない、そういう方法でイエスが教えたということです。

 

マタイ12章に至るまでに彼らは信じるために十分な情報量を得たのですが、信じようとしませんでした。
それで赦されない罪を犯したのです。

ですから、13章に入るとそれ以上の啓示の光が彼らには与えられなくなったのです。

 

マタイ13:34
マタ 13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話された。
たとえを使わずには何も話されなかった。
この言葉はマタイの福音書12章には適用されないですね、そうではなかったのです。
しかし、マタイ13章以降はこのとおりです。

イエスはこれ以降、群衆に話す時には必ずたとえでお話しになります。
使徒たちも最初はこの教え方に慣れなかったのですね、理解することができなかった。

マルコの福音書の並行箇所に新しい情報があります。

マルコ4:33~34
マル 4:33 イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。
4:34 たとえを使わずに話されることはなかった。
ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた。

マタイでは群衆に話す時にはたとえ話だけで話されたとあります。
使徒たちでさえもそれを理解することができなかったのです。

 

しかし、マルコの並行箇所では弟子たちと一人になった時に弟子たちにはたとえの意味を明かされました
それは、彼らに真理を示す光を与えるためでした。

 

 

要約4

イエスの教えは

明瞭な教え方から

たとえ話を用いた教え方に変化した

 

 

 

マタイ12:31の言葉がどんなに重要であるかということを理解せずには
この4つの分野での大きな変化を理解することは不可能です。

マタ 12:31 ですから、わたしはあなたがたに言います。
人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。

 

この4つの大きな変化:
赦されない罪が犯された結果、起こっている変化

 

 

これでイエスさまが後半の公生涯の舞台を整えたという言い方ができます。
これが使徒行伝に至る舞台にもなり
使徒行伝において教会(エクレシア、メシアのからだ、ヘブル語でケヒラー)が誕生する舞台がここで整ったということができるのです。

そしてこれが次の2千年に渡るユダヤ人の歴史を決める出来事になりました

 

 

 

 

中川健一著『終末論Q&A』書籍のみ)(CD12枚組書籍付を是非どうぞ。
25ユダヤ人たちの咎とは何か 1.イエスのメシア性の拒否 2.ヨナのしるし 3.裁きの預言

 

 

終末論のクライマックス(42021年3/13
Ⅰ.イエスのメシア性の拒否
C.ヨナのしるし
D.サンヘドリンの判決
E.勝利の入城
F.糾弾されるパリサイ人たち

 

 

 

練馬桜台聖書フォーラム

代表 :南 知之

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