奈良王寺聖書フォーラム

ローマ人への手紙第3回まとめ

2019.10.14

カテゴリー:ロマ書まとめ

本論

1. 作者は誰か。(13分36秒〜)

1) 福音という言葉

1節の冒頭に「神の福音のために」という言葉がある。この「福音」という言葉について、新約聖書には「御国の福音」という言葉が3回、「神の国の福音」という言葉が2回出てくるが、両者は同じ意味である。その内容は、旧約聖書で約束していたメシア(=キリスト)が来られたので、その方をユダヤ人たちが受け入れたならば、直ちに神の国(=メシア的王国=千年王国)が到来する、というものである。しかし、ユダヤ人たちはメシアを受け入れなかったので、その時にはメシア的王国は成就しなかった。そして、イエスキリストが十字架で死に、葬られ、三日目に蘇ってから、福音の内容が変わっていった。ロマ書のこの箇所でパウロが福音と言っているのは、この変わった後のもののことであり、ローマのクリスチャンたちが信じているものと同じものである。

新約聖書において「神の福音」という言葉は8回、「キリストの福音」という言葉は9回出てくるが、共に同じ意味であり、恵みのメッセージである。ただし、両者において強調点が異なる。「神の福音」という時には父なる神がお作りになった福音であること、「キリストの福音」という時にはキリストがそれを実行され、成就された福音であることが強調される。ロマ書の中の福音とはこの意味を指しており、ローマの信者たちも私たちも同じ福音を信じている。

2) 「神の福音」という言葉から学ぶこと

「神の福音」という言葉から、その作者が神であることが分かる。それゆえ、この福音の内容は「神の義」がテーマとなる。よって、ロマ書は「神の義」をテーマに読む必要がある。神ご自身が作者であり、罪人である私たちとどのように和解するかということを啓示されている。それが「神の義」である。それゆえ、ロマ書の序言である1:1〜17は、「神の義の啓示」がテーマである。神はご自身が作られた福音を伝えることを人間にお委ねになり、さらに、その伝える人に資格を与えられた。天使ではなく、人が福音を伝える責任を負った。パウロは、「神の福音のために選び分けられた」器であり、「神の代理人」であるという自己認識を持っている。パウロは、キリストから直接受けたことをあなたがたに伝えている、ということだけがローマのクリスチャンたちに対する説得力である。ある人が他の人たちに対して説得力を持つかどうかは、その人が真実を語っているかどうかにかかっている。それが人格であり、その人の説得力であり、信頼性である。パウロがまだ訪問したことのないローマの信者たちに対して、自分を推薦して説得力を持たせるための最大の武器は、腹を割って自分が神の代理人として召されたという資格があるということを言うことであり、その他はない。

私たち現代のクリスチャンたちは皆、神の福音を委ねられている。しかし、ここでパウロが言っていることはそれとは全く違った次元のことである。ロマ書が書かれた時代はまだ新約聖書の啓示が完成していないため、この「神の福音を委ねられている」という概念は極めて重要であった。パウロは福音を誤りなく伝え、使徒として神の代理人として語り、そして書に記していく役割を持ったのである。これを第一次的使命とすれば、私たちの使命は第二次的なものである。つまり、既に忠実に伝えてくれたこの福音を人々に伝えることが私たちの役割である。だから、パウロの言うような意味で召されている人は今の時代誰一人いない。

新約聖書が書かれるまでの時代、使徒たちが神から啓示を受けて教えたこと(=使徒たちの教え)が聖書とイコールであった。そして使徒たちが死んで以降は、聖書に啓示された内容を受け入れ、信じ、実践していくことが、使徒たちの交わりに入っていくことである。これは極めて重要なことである。

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」(使2:42)

「それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです」(2ペテ3:2)

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。」(1ヨハ2:18〜19)

ここでの「私たち」とは使徒たちのことである。この時代に多くの異端、特にグノーシス主義という、おかしい教えが出てきた。その人たちは使徒たちの元から去っていった。だから、ヨハネは、使徒たちの教えから去ったのは最初から救われていなかったからだ、と言っている。つまり、使徒たちの教えに留まることこそ、キリストと交わり、父なる神と交わることである

以上の整理は次のとおりである。福音は神がお作りになった。神はそれを人に委ねてくださった。その資格をもらったのがパウロであり使徒たちと言われる人である。私たちはその使徒たちから、メッセージを受け継いで、それを信じ、実行している。それゆえ、私たちは使徒たちの交わりの中にいる。この真理は非常に重要である。私たちはどこでどのような活動をしようとも、使徒たちとの交わりということを意識しながら、その教えの中に留まっていないならば、それは神の働きとは言えない。

 

2. いつ考えられたのか。(27分00秒〜)

1)「神が前から約束された」(新改訳)
「神があらかじめ約束された」(口語訳)、「神が、既に約束された」(新共同訳)とあるがそれはいつなのか。英語では「beforehand」という言葉が使われている。それは、「天地創造より前」である。原語は一語で「プロエペインゲイラト」という言葉が使われている。この言葉には「彼」という意味が含まれており、「彼があらかじめ約束しておられた」という意味である。それを翻訳者が、意味が通るように、「神が」という言葉を挿入している。つまり、私たちが福音と言っているものは、後の時代になって成就するように、神があらかじめ前から約束してくださっていたものである。

パウロたちの時代は第二神殿時代と言い、それはバビロン捕囚から帰還して第二神殿が建てられてから、紀元70年にその神殿が滅ぶまでの期間のことをいう。その時代のユダヤ教の理解では、神の予知や約束は、時の始まりから存在していた、と考えられていた。それは、天地創造前から神が決めておられたということと符合する。特にメシアの誕生に関してはそのように考えられていた。パウロは紀元1世紀にパリサイ派の教育を受けて、ラビとしての訓練を受けていたため、第二神殿時代のユダヤ教の影響を受けていた。当時のユダヤ教は口伝律法という点では大きく誤っていたが、旧約聖書を学び、そこから理解していくという面においては、正しい点が沢山あった。よって、神の約束(計画)が天地創造の前から存在していたというのが、パウロの神学であった。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」(エペ1:4)

ここで「彼」とはキリストのことであり、「世界の基の置かれる前」とは天地創造の前という意味である。つまり、私たちがイエスキリストを信じ救われたのは、神が天地を創造される前から決まっていたのである。それゆえ、現状の自分がどのようであっても、必ず自分の救いは完成するとキリストにあって確信することができる。

2)「その預言者たちを通して」
神は「その預言者たちを通して」約束された、とあるが、預言者とは誰のことなのか。預言者には狭義の預言者と広義の預言者とがある。一般的に預言者と理解されている人たちが狭義の預言者であり、紀元前8世紀以降に現れた、預言書を残した預言者たち(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルなど)と、預言書を残さなかった預言者たち(エリヤ、エリシャなど)がいる。それに対し、広義の預言者とはそれ以外の預言者たち、つまり、それ以前に現れた、サムエル(1サム3:20)、士師デボラ(士4:4)、アロン・ミリアム・モーセ(出7:1、15:20、申34:10)、アブラハム(創20:7)たちのことである。これら預言者の役割とは、同時代人に対して神の御心を伝えること、将来の世代に対する神の計画を伝えることである。ここで漸進的啓示という概念が非常に重要となる。つまり、神は一時に全ての啓示をされるのではなく、時代ごとに少しずつ積み上げるようにして啓示されている、ということである。

「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです」(1ペテ10〜12)

預言者たちは、自分が語っている預言の内容については理解しているが、理解していない部分もあった。彼らは、誰がメシアか、いつその約束が成就するか、という点については知らなかった。しかし、私たちは使徒たちの教えを通してそれを知った。

3)「聖書において」
この当時まだ新約聖書は完成していないため、「聖書」というとユダヤ人の聖書である旧約聖書のことである。ここでパウロは、今彼が伝えている福音は旧約聖書に預言されている、旧約聖書と神の福音との間には連続性がある、かたや約束かたや成就の関係にある、と言っている。つまり、新約聖書が出来上がるまでの時代は、伝道メッセージは全て旧約聖書からやっていた。それゆえ、ロマ書の中には旧約聖書からの引用が61回もある。これによって、パウロは神の福音の信頼性を証明しようとしている。真理は、常に古くて新しいのである。

3. どういう内容なのか(47分46秒〜)

1)「御子に関すること」
原文では、「彼(神)の子に関すること」となっている。福音とはあるお方に関するニュースである。それがイエス・キリストである。では、神の御子とはどのようなお方なのか。神の御子は二つの性質を持っている。一つは人間性、一つは神性である。

2)「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」
イエス・キリストの一つの性質は人間性であり、ダビデの子孫として生まれたことでそれが証明された。旧約聖書のメシア預言とは、ダビデの子孫としてメシアが生まれるというのがその内容である(イザ11:1、エレ23:5、エゼ34:24)。ユダヤ人たちは、メシア預言をよく知っていた。それゆえ、マタイはイエスの義父となるヨセフがダビデの家系であることを示した。また、ルカはマリアがダビデの家系であることを、父親の家系をたどることで示した。ユダヤ人たちがイエスに「ダビデの子」と呼びかけたのはこのためである(マタ21:9、22:42、マコ10:47、48)。なお、「ダビデの子」とはメシアの称号であるが、政治的メシアを連想させるため、イエス様はこの名を好まれなかった。

3)「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」
死者の中からの復活によって、イエスの神性が証明された。聖霊がそのことを示してくださった。「大能によって」とは、御力をもってという意味で、復活そのものを指すと同時に、公生涯でイエスが起こされた数々の奇跡のことも示している。それゆえ、キリストの復活を信じずにクリスチャンになることは不可能である。イエスキリストの教えに同調し、その教えを採用して生きていくだけでは、クリスチャンになったことにはならない。それは単なる倫理・道徳的な話であって、必ず失敗する。イエス様の教えを自分の力で実践して、それを100%達成できると思うのは、まだ自分に目覚めていないだけである。私たちは別の原則で生きるように招かれている、それが福音を信じるということである。

4)「私たちの主イエス・キリストです」
パウロはロマ10:9で同じことを言っている。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中から蘇らせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」(ロマ10:9)
これを読むと、「告白すること」と「信じること」の2ステップのように見えるが、これは対句法である。つまり、「告白すること」と「信じること」は同時に起こるのであり、その二つの側面を対句法で書いているだけで、片方だけやって片方だけやっていないから救われていない、というような話ではない。よって、キリストを救い主と告白することは、キリストの復活を信じた時に同時に起こることである。イエスは復活によってご自身がキリストであること(=第二位格の神であること)を証明された。これが福音の内容である。

 

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