奈良王寺聖書フォーラム

ローマ人への手紙第2回まとめ

2019.10.02

カテゴリー:ロマ書まとめ

本論

1.     パウロという名前の意味(15分22秒〜)

異邦人は、サウロはユダヤ人としての名前、パウロはクリスチャンになってからの名前、という解釈をしている。しかし、ヘブル的解釈はそれと異なる。パレスチナの地から散っていった離散の地のユダヤ人は、通常2つの名前を持っていた。1つ目はヘブル名で「サウロ」(好ましいという意味)、2つ目はラテン名(ローマ名)で「パウロ」(小さいという意味)である。よって「パウロ」という名は、クリスチャン名ではなく、普通のラテン名であった。例えば、キプロス島のサラミスで伝道していた時に出てくる地方総督セルギオ・パウロはクリスチャンでもユダヤ人でもなく、普通の異邦人であった(使13:7)。

聖書においてサウロからパウロへ名前が変更されたのは、「しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼(魔術師エルマ)をにらみつけて、言った」(使13:9)の箇所であり、これはパウロの異邦人伝道が正式に始まったことを示している。

パウロは言語能力に優れ、ヘブル語もギリシア語も理解し話せた。当時のローマの言葉はラテン語であったが、まだ言語として発展途上であったため、言語として成熟していたギリシア語がローマ世界の共通語であった。ローマは、ギリシアに対して、武力においては優越感を持っていたが、哲学や言語においては非常に劣等感を持っていた。よって、ローマにおいてギリシア語は非常に重視されていた。ちなみに、ローマの貴族が自分の子供に家庭教師をつける場合、ギリシア哲学、ギリシア文学、ギリシアの歴史に精通したギリシア人を選んでいたほどであった。

このギリシア語をパウロが話せたことは、「あなたはギリシヤ語を知っているのか。」(使21:37)との千人隊長の言葉があることからもわかるが、これはなんという幸いか。それは宣教師にとっての最大の壁は言語であるからである。パウロはローマ市民であり自動的にギリシア語を話せたので、宣教師になるために小さい頃から育ってきたようなものである。だからパウロはロマ書をギリシア語で書いており、当時の習慣に従って、ラテン名のパウロを使用した。その上で、パウロを説明する3つのキーワードを付加することで、自分が信頼に足りる人間であることを証明しようとした。もしパウロがギリシア語を知らず、サウロというヘブル名しか持っていなかったら、ロマ書は存在し得なかった。よって、サウロが手紙の冒頭でパウロと名前をかけたことは、異邦人である私たちには大いなる祝福であり、そこに神様の摂理の御手がある。

2.     しもべという言葉の意味(22分31秒〜)

しもべとは、ギリシア語で「デューロス」という。デューロス号という世界各地で福音を伝える船があるが、奴隷船という意味である。デューロスとは奴隷のことであるが、ヘブル的には、奴隷には2種類あった。1つ目は嫌々奴隷になっている人、2つ目は喜んで奴隷になっている人である。

旧約時代のユダヤ人は経済的に貧しくなると、最終的に自分を売り、奴隷となった。その奴隷は、自分の意志に反して奴隷となっている例である。その場合の奴隷は、6年間働いて、7年目に解放される、というのがモーセの律法の規定である。「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる」(出21:2)

しかし、7年目に自由になれる奴隷がさらにその主人に奴隷として仕えたい、という場合がある。それは、その主人のことが大好きであったり、妻や子供をもたせくれる主人であったので家族と離れたくなかったり(自由になると妻子を置いていかなければならない)する場合であって、これは自由意志の奴隷である。その場合は、ある儀式をしなければならない。「その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱の所に連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる」(出21:6)この儀式は、彼がその家の所有物になったことを象徴している。その結果、彼は自由意志に基づく奴隷となった。

パウロは、自分はイエスによって買い取られた奴隷である、という認識を持っていた。「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(1コリ7:23)パウロは3つのステップを踏んで神の奴隷(=キリスト・イエスのしもべ)となった。まず、彼はイエスキリストに救われたことによって罪の奴隷から解放された。そして、自由の身となった。それゆえ、自らの選択によって神の奴隷となったのである。これは私たちにも起こったこと(または、起こりつつあること)である。つまり、①罪の奴隷から解放された、と②自由の身となった、というのはすべてのクリスチャンの姿であるが、③自らの選択によって神の奴隷となった、というのは、聖化の過程によって人それぞれであり、人によっては誰の奴隷になっているかわからなくなっている場合がある。

この「キリスト・イエスのしもべ」とは、逆説的な言葉である。すなわち、①最も不自由であるかに見えて、最も自由であり、②最も低き所に降ろされたように見えて、最も高き所に引き上げられており、③最も弱い者になったように見えて、最も強い者にされている。このような逆説的な真理が、この言葉の中に含まれている

3.     召されたという言葉の意味(29分05秒〜)

パウロがわざわざ「召された」という言葉を使う必要があったのは、パウロの使徒としての資格を疑う人が多かったからである。なぜなら、かつてはキリストの教会を迫害しており、それがいつまでも付いてまわっていたからである。また、パウロが説く「恵み、信仰による救い」は、モーセの律法を否定するものであるとユダヤ人から非難されていいた。また、パウロの強調する恵みによる救いが、信者の放縦な生活を助長してしまうといって、多くの人が非難していた。このようにユダヤ人からも異邦人からも非難され続けたパウロは、使徒として「召された」という言葉を用いざるを得なかった。パウロは各書簡において、自分が使徒となっているその資格は、神から来たものだ、ということを毎回確認している(1コリ1:1、ガラ1:1、2コリ11:23)。私たちが福音を語る資格は、神学校の卒業証書や学位から得るものではない。神から召された、という強い確信だけが、その人を講壇に立たせる力である。

「使徒」はギリシア語で「アポストロス」であり、遣わされた者、メッセンジャーという意味である。使徒職は教会に与えられた最高の賜物である(1コリ12:28)。ユダヤ的考え方では、遣わされた者は「代理人(ヘブル語でシャリアハ)」であり、遣わした者と同一人物として、すなわち、同じ権威を持って行動し、交渉(商売)する。アブラハムの代理人としてイサクの嫁探しをしたエリエゼルがその一例である(創24章)。また、モーセは神の代理人として神の言葉を語っていると言える(出3:14〜15)。新約聖書にも「代理人」の概念があり、神の究極的な代理人は人として生まれた「イエス」である。イエスは、私を見たものは父を見たのだ、と言われた。「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである」(ヨハ3:34)つまり、神から派遣された代理人は、神が語っているのと同じように語っている、ということである。これが使徒の概念であり、パウロはそのような者としてここで手紙を書いていると言っている。

4.     選び出されたという言葉の意味(37分55秒〜)

「選び分けられ」という言葉は、ギリシア語の「アフォリゾウ」という動詞から来ており、ここでは完了形の受動態「アフォリスメノス」となっているため、「選んで頂いた状態が今も続いている」という意味になる。この「アフォリゾウ」は「パリサイ人(ファリサイオス)」と同じ語源になっている。パウロは、かつてパリサイ人であったが、神によって選び分けられ、主イエスと出会ったことによって、「霊的パリサイ人」となったのである。パウロのこの「選び分けられ」という言葉にはこのようなニュアンスがある。

パウロが選び分けられた時期はいつなのか。それは、生まれる前からである。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」(エレ1:5)そして、それが明らかになったのが、ダマスコ途上での回心の時である。私たちも生まれる前から神によって選ばれている。それが明らかになったのは、キリストと出会った時である。

パウロは「神の福音のために」選ばれた。この言葉は、ギリシア語で「ユーアンゲリオン」であり、元々は戦争で勝利したという知らせ、グッドニュースのことである。イザ52:7では、この「グッドニュース」を「救いのこと」としている。また、主イエスがルカ4章で朗読されたイザ61:1〜2でもそのことが分かる。新約聖書に入ると、バプテスマのヨハネが、神の国(メシア的王国)の宣言をした。この時の福音は、「メシアが到来したので、そのメシアを信じるならば、メシア的王国が成就する」というものであった。主イエスも同じメッセージをお語りになったが、ユダヤ人たちは主イエスを信じなかった。それゆえ、主イエスの死と復活以降は、その福音の内容が別のものとなった。その内容はロマ1:2以降で述べられている。

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