奈良王寺聖書フォーラム

ローマ人への手紙第2回まとめ

2019.10.02

カテゴリー:ロマ書まとめ

結論

1.      パウロと私たちの間に絆があるかどうかの確認(クリスチャン生活の確認)(45分20秒〜)

まず、「選びの確信」は共通している。私は自分の意志でクリスチャンになったが、その後振り返ってみると選ばれたとしか思えない。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」(ヨハ15:16)

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」(エペ1:4)

私たちの選びの目的は、聖化であり、栄化である。この選びの事実はパウロと同じであるから、ここに絆がある。

また、キリストのしもべである、という確信も共通している。パウロはロマ12:1〜2でこのテーマを展開している。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」これは自由意志に基づく奴隷になることの勧めである。そこに行くまでに、1章から11章まで費やしており、まず教理を語ってから、実践を語っている。つまり、理解のない実践というのは極めて弱いものとなる。だから、神の愛と恵みと計画がどれほど素晴らしいかをまず理解して、それから実践を勧めている。これがパウロの教え方である。

2.      ロマ書を学ぶべき理由があるかどうかの確認(ロマ書の権威の確認)(49分13秒〜)

パウロは、地上における大祭司からの紹介状を持って(大祭司の代理人として)、ダマスコに向かった。その彼が回心してからは、天の大祭司であるキリストの代理人となった。パウロの使命は神の名を運ぶことである。「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです』」(使9:15)神の名を運ぶ、ということは神の代理人として奉仕することである。そしてパウロが苦しむということは、キリスト自身の苦しみを彼自身が通過するということである。ここにパウロの確信がある。

使徒たちは全員、神の「代理人」として派遣された人たちである。使徒たちが語るときに彼らの意識の中には、神ご自身が語っておられるのだという意識がそこにある。パウロがロマ書を書いたときは、彼は神の代理人である。ロマ書で語る言葉は、神ご自身が語る言葉である。この真理は、神ご自身がお語りになった真理である。それゆえ、私たちがロマ書を読むときは、神ご自身が私に語っておられる言葉として受け取り、そのように読む必要がある。

初代教会では2種類の使徒たちがいた。まず「12使徒」という主イエスの直接の弟子たちである。イスカリオテのユダの欠落による欠員を補充するために、新たな使徒を選ぶときに、使徒の条件を彼らは決めている。「すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません」(使1:22)ここから、まずイエスが洗礼を受けた時から弟子であった人、つまり、主イエスの公生涯の目撃者であることが挙げられる。そして、復活のイエスに出会ったということ。これが第一グループの使徒たちである。

これに対し、第二グループの使徒たちは、イエスの公生涯を共にしていないが、復活のイエスに出会った人である。この中に、パウロやバルナバがいる(使14:14)。また、主イエスの弟のヤコブもここに属する(1コリ15:7、ガラ1:19)。

最近、使徒職の回復を語っている人たちがいるが、それはあり得ない。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」(エペ2:20)これは教会のことを言っている。キリストが礎石であり、使徒と預言者が土台であるから、置き換えることはできない。土台を置き換わる時は、建物が崩壊する。使徒職が回復して土台が新たにできるということは、別の建物を建てることになる。ここでいう預言者とは、新約時代の預言者である。つまり、使徒たちには預言の賜物があった。また、アガボという預言者がいた。使徒と預言者が土台であるというのは、新約時代の啓示が、神から彼らに与えられて、彼らがそれを全て本に書いたから完成した。だから彼らの置き換えはできない。もし使徒職が回復されるとしたら、そして、使徒というのが複数の教会を導くことができるちょっと働きの範囲が広い人という程度で使っているとしたら、聖書がいう使徒の権威や役割を地上に引きずり下ろしていることになる。現在使徒としての資格を有する人は一人もいない。使徒たちが行ってきた使命は、神ご自身が語る通りに語ることであり、それはもう終わった。そして今使徒たちと交わるということは、使徒たちが教えたこの言葉を神の言葉として信じることである。

このような学びをとおして、内容を理解する以前に、聖書に対する私たちの態度が正されていくこと、これが日本に霊的覚醒をきたらせる入り口であると思われる。

 

以上

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