奈良王寺聖書フォーラム

ローマ人への手紙第1回まとめ

2019.09.25

カテゴリー:ロマ書まとめ

本論

1.誰が書いたか(著者)(9分13秒〜)

著者は使徒パウロである。彼は、小アジヤのキリキヤのタルソ(今のトルコ)で生まれたユダヤ人である(使9:11、21:39、22:3)。キリキヤの市民にはローマの市民権を与えられていたので、パウロは生まれながらにしてローマの市民権を得ていた(両親が既に市民権を持っていたと思われる)。これが彼の伝道上の大きなアドバンテージとなった。

パウロは、ベニヤミン族(初代ユダヤ王であるサウル王の所属)出身で、両親と同じくパリサイ派に属していた(ロマ11:1、ピリ3:5、使23:6)。彼は離散のユダヤ人としてタルソで生まれ育ち、ローマの市民権を持ちつつ、家系としてはベニヤミン族としての誇りをもち、モーセの律法に厳格に生きようとするパリサイ派の息子であった。

秀才であったパウロは、13歳のバール・ミツバを終えてからエルサレムに上り、姉妹の家に滞在しながら(使23:16)、1世紀最大のラビであるガマリエル1世のもとで学んだ(使5:34、22:3)。当時のパリサイ派には、シャマイ学派とヒレル学派があり、パウロはシャマイ学派に属していた。彼は、ユダヤ人信者を迫害すべくダマスコに向かう際に、大祭司からダマスコの会堂あての手紙をもらったことから、サンヘドリン(ユダヤ議会)と良好な関係にあったことがわかる(使9:2、22)。彼は、終生、パリサイ派の伝統とライフスタイルを誇りとしていた。ただし、異邦人の救いに関しては、そうする必要がない、というところでは一点足りとも譲らなかった(ロマ9:3、2コリ11:22、ピリ3:5〜6)。

パウロはダマスコに向かう前に、エルサレムでステパノを石打ちの刑にする現場に立ち会っていた(使7:58)。つまり、キリストの体なる教会の迫害の先頭に彼は立っていた(使8:1〜3)。その彼がダマスコ途上で回心体験をした(使9:1〜9)。彼はダマスコ途上で天からの光に打ちのめされ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。それによって目が見えなくなったが、3日後に、アナニヤという弟子の助けによって、キリストにつくバプテスマを受け、目から鱗のようなものが落ちて視力が回復した。その後、直ちにパウロはダマスコで伝道を開始した。この延長線上に、ロマ書の執筆がある。

パウロはユダヤ人としての教育を受け、父から教わって天幕職人となり、律法の学びにおいてはラビであった。また、彼の出身地であるタルソは当時、アンテオケやアレキサンドリヤと並ぶ学術都市であった。よって、彼はユダヤ人であると同時に、ギリシア・ローマ文化にも精通していた。ここに、神の摂理として、パウロが異邦人伝道の器になる準備がなされていた。私たちが神様の働きに立とうとする時に、今まで自分が育った経歴を無視することはあり得ない。

2.誰宛てに書いたか(宛先)(23分39秒〜)

「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ」(ロマ1:7)とあるとおり、ローマの教会に宛てて書いた。当時は会堂がなく、ローマにあるいくつかの小さな家の教会の集合体がローマの教会であった。ペンテコステの日に救われた3000人の中にいた離散のユダヤ人がローマに帰って伝道してローマの教会ができたと思われる。「フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる」(使2:10〜11)。改宗者とはユダヤ教に改宗した異邦人であり、ユダヤ教ではユダヤ人とみなされる(聖書におけるユダヤ人の定義は違う)。なお、ロマ書の執筆当時は、もう既に異邦人信者が大半を占めるようになっていた。

パウロがロマ書を執筆した目的の1つにユダヤ人信者と異邦人信者の関係があった。両者の間には宗教的、社会的壁があった。モーセの律法(旧約聖書)と新約聖書の継続性をどの程度認めるかという差が、同じ教会の中であった。これは見逃してはならない神学的問題である。

3.いつ頃書いたか(執筆時期)(27分37秒〜)

エルサレムに諸教会の献金を届ける直前である紀元57年頃(第3回伝道旅行の終盤)、コリント滞在中に書かれたと思われる(使20:2〜3)。その後、パウロはエルサレムで投獄され、囚人として紀元60年にローマに到着した(使28:11〜15)。それはエルサレム神殿が崩壊する10年前、イエス様の十字架および復活から30年以内であった。

4.何のために書いたか(執筆目的)(29分39秒〜)

パウロは地中海の東側地区の宣教を終え、次にスペインを目指していた。そこで、過去25年間の活動を振り返り、自らの神学をまとめる必要性を感じ、ロマ書を執筆した。しかし、ロマ書にはキリスト論、教会論、終末論が抜けている。その理由は、スペイン伝道の支援を求めるという目的と関連している。

パウロを送り出してくれたアンテオケ教会は遠すぎたため、近場のローマ教会からの支援がスペイン伝道には不可欠であった。そこで、パウロは論争の的になり、また疑われてきた自らの紹介をローマ教会にする必要があった。自分は誰か、自分は何を信じているか、をローマ教会に提示することによって、やがてスペイン伝道の前にローマを訪問し、ローマ教会がSending Churchになってくれるように、という期待がパウロの心の中にあったと思われる。よって、ロマ書でパウロが書いているのは、論争の的になってきたこと、彼自身が信頼できる人間であることを証明できる内容となっている。

パウロはまた、ローマ教会内にあるユダヤ人信者と異邦人信者の対立を解決するためにロマ書を執筆した。ロマ14:1〜15:13の行間から、そのことが読み取れる。

5.何を書いたか(内容)(33分25秒〜)

内村鑑三の『ロマ書の研究』に倣って作られたアウトラインチャートは以下の通り。序言「神の義の啓示」(1:1〜17)、義認「神の義の転嫁」(1:18〜5:21)、聖化「神の義の賦与」(6:1〜8:17)、栄化「義なる方との一致」(8:18〜39)、イスラエル「神の義の弁護」(9:1〜11:36)、適用「神の義の実践」(12:1〜15:13)、結論「神の義の伝達」(15:14〜16:27)

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