練馬桜台聖書フォーラム

イスラエル学レジュメ(8)2026年 6/13

2026.06.15

カテゴリー:イスラエル学, お知らせ, 学び

イスラエル学
レジュメ
(8
)2026年6/13

 

モーセの律法

 

2006年フルクテンバウム博士セミナー
講師:Dr. Arnold Fruchtenbaum
通訳:中川健一牧師


『イスラエル学』
THE MISSING LINK IN SYSTEMATIC THEOLOGY
テキスト 

ご購入はこちらからCDテキスト

 

レジュメもくじ

前回のレジュメ

 

フルクテンバウム博士のメッセージを
中川健一牧師がわかり易く通訳してくださった
セミナーの内容を基に作成しています。

以下
青色の聖句はセミナーでとりあげられた聖句箇所です
セミナーでは新改訳3を使用しているので説明文では新改訳3

(このHPでの引用聖句は原則 口語訳聖書 旧約聖書1955年改訳 新約聖書1954年改訳 日本聖書協会)
新改訳3」とは聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会
「新共同訳」とは聖書 新共同訳©共同訳聖書実行委員会j

「新改訳2017」とは聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会 からの引用です
黒色の文章がセミナーの説明文
緑色の文章はHP編者による補足説明
紫色の聖句は引用聖句や参考聖句
(英語訳は基本American Standard Version  ASV)
茶色の文章アーノルド・フルクテンバウム博士著 中川健一監訳 佐野剛史訳
『イスラエル学-組織神学の失われた環-THE MISSING LINK IN SYSTEMATIC THEOLOGY
(書籍)(電子書籍) 
 
31~36
頁からの補足説明です

 

興味のある箇所はリンク先もご覧になってみてください。

 

紙の聖書「新改訳2017」こちらをどうぞ

 

イスラエル学

Ⅰ.過去のイスラエル
A.イスラエルの選び
B.無条件契約

1.アブラハム契約
2.土地の契約
.ダビデ契約
4.新しい契約
C.モーセ契約とモーセの律法
1.モーセ契約
2.モーセの律法

 

 

 

Ⅰ.過去のイスラエル

Israel Past

 

 

 

C.モーセ契約と
モーセの律法

The Mosaic Covenant and the Law of Moses

 

 

セミナーテキスト5ページ(6/22)

2.モーセの律法

The Mosaic Law

 

 

非常に重要なことは

モーセの律法は
教会や異邦人のためではなく
イスラエルに与えられている
ということを理解すること

 

 

聖書箇所

Scripture

 

 

申命記4:7~8
申 4:7 われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。
いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。
4:8 また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべての律法のような正しい定めと、おきてとがあるであろうか。
~Deu   4:8  And what great nation is there, that has statutes and ordinances so righteous as all this law, which I set before you this day?

 

 

詩篇147:19~20
主 147:19 主はそのみ言葉をヤコブに示し、
そのもろもろの定めと、おきてとを
イスラエルに示される。
147:20 主はいずれの国民をも、
このようにはあしらわれなかった。
彼らは主のもろもろのおきてを知らない。
主をほめたたえよ。
Psa 147:19 He shows his word unto Jacob, His statutes and his ordinances unto Israel. ~

 

 

マラキ4:4
ママラ 4:4 あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。
Mal 4:4 Remember you the law of Moses my servant, which I commanded unto him in Horeb for all Israel, even statutes and ordinances.

 

 

この3箇所

 

 

 

[ 613 の命令があると言ったが ]
(613と聞くと多いと思うが、日本の交通法規だけでも関連する政令、規則を含めると数百を超える、とのフォーラム参加者による意見がありました。
国の法令は1万近く、条例も含めると数十万件になるそう。)

その分類方法はユダヤ教の人とクリスチャンとでは若干異なる

 

ユダヤ教:
モーセの律法は 一体化されたものとしてみなされ
その中で何々せよという肯定的なものと
何々してはいけないという否定的なものとに
二分される

 

クリスチャンたち:
それに対して 主に次の 2 つの方法で区別してきた

それを区別する理由は
あるものは排除しつまり或るものは終わった
これは未だ残っている
ということを言いたいために
人工的な分類を加えてきた
例)
*613
の中の 10 だけを取り出し
十戒と 603 と分けてこれは違うんだという言い方をする
十戒は未だ生きているから従うが
603 はもう終わったという説明をする
ところが十戒は生きているという人でも
安息日の規定にくると 腰砕けになって
実際は9 つしか言わないという変なことになってくる

もうひとつは
道徳法 the moral law
祭儀法 the ceremonial law
民法と言ってもいいだろう法律的な部分 civil law 市民法
この 3つに区分する人たちがいる
そして 3つに分けた後に道徳法は今も生きているから私たちはそれに従うが
祭儀法と民法とはもう終わっているという説明をする
ところがそのように主張する人たちの間で
では道徳法はどれなのかということについて
一致した意見がなくて論争が始まるわけで
それが問題

  

 

ところが 聖書はモーセの律法を区別なんかしない
モーセの律法は全部トータルで 1 つ
one single unit 統一体
だから 生きているのなら生きている
終わったのなら終わった
イエスかノーかのどちらか

 

 

 

 

 

a)律法の目的

The Purposes of the Law

 

 

最初に強調しておきたいことは
これは救いの方法として与えられているのではないということ

ディスペンセーショナリズムはモーセの律法を救いの手段だとは考えない
救いはいつの時代も、恵みのゆえに、信仰による。
信仰の内容は、漸進的啓示が進むにつれて変わるが、救いの方法は決して変わらない。

 

[これしっかり覚えてください救いの方法ではないということ
ちゃんと書いてあるのは]

 

ローマ3:20
ロマ 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。
律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

 

ローマ3:28
ロマ 3:28 わたしたちは、こう思う。
人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
 

ガラテヤ2:16
ガラ 2:16 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。
それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。
なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。

 

ガラテヤ3:11
ガラ 3:11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。
なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。

 

ガラテヤ3:21
ガラ 3:21 では、律法は神の約束と相いれないものか。
断じてそうではない。
もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。

 

[これらのところには律法は救いの方法ではないと書かれてある]

 

 

では目的は何かというと実は 9つ目的がある

4つの区分に分かれる

 

 

神さまに関してはこの目的がある

神さまの聖さが何であるか
神が要求される義の基準が何であるかを示すことが律法が与えられている第一の目的(1/9)

 

ローマ7:12

ロマ 7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
Rom  7:12 So that the law is holy, and the commandment holy, and righteous, and good.
律法というのは聖くて良いものであると教えられている

 

それ以外に

レビ記19:1~2
レビ 19:1 主はモーセに言われた、
19:2 「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、
あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。

 

レビ記19: 37 
レビ 19:37 あなたがたはわたしのすべての定めと、わたしのすべてのおきてを守って、これを行わなければならない。
わたしは主である』」。

 

もう一箇所レビ記11:44
レビ 11:44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。
わたしは聖なる者である。
地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。

 

これらの箇所が神の義を教えている

 

 

 

 

 

今度はイスラエルとの関係において

今から言う 3 つのものがある

 

 

1 まず旧約時代の聖徒たちに
どのように生きればいいかという生きる方向性と基準 a rule of life とを与えている(2/9)

 

ローマ3:28
ロマ 3:28 わたしたちは、こう思う。
人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

律法はその人を義とするために与えられているのではないということを教えている

 

旧約時代に神さまを信じて救われたとする
次に出てくる質問
「私は神を信じた。じゃあ、どう生きればいいのか?」という時に
モーセの律法が生き方を教えているよ
というのがモーセの律法の意味
もし罪を犯したらその罪を覆って頂くために
血の犠牲が用意されている

 

詩篇の中で最も長い詩篇が詩篇119

詩 119:1 おのが道を全くして、主のおきて the law of Jehovah に歩む者はさいわいです。
119:2 主のもろもろのあかし his testimonies を守り
心をつくして主を尋ね求め、
119:3 また悪を行わず、主の道 his ways に歩む者はさいわいです。
119:4 あなたはさとし thy precepts を命じて、ねんごろに守らせられます。
119:5 どうかわたしの道を堅くして、
あなたの定め thy statutes を守らせてください。
119:6 わたしは、あなたのもろもろの戒め all thy commandments に目をとめる時、
恥じることはありません。
119:7 わたしは、あなたの正しいおきて thy righteous judgments を学ぶとき、
正しい心をもってあなたに感謝します。

(中略)

詩 119:77 あなたのあわれみをわたしに臨ませ、
わたしを生かしてください。
あなたのおきて thy law はわが喜びだからです。

詩 119:97 いかにわたしはあなたのおきて thy law
愛することでしょう。
わたしはひねもすこれを深く思います。

詩 119:103 あなたのみ言葉 thy words はいかにわがあごに
甘いことでしょう。
蜜にまさってわが口に甘いのです。
詩 119:104 わたしはあなたのさとし thy precepts によって知恵を得ました。
それゆえ、わたしは偽りのすべての道を憎みます。
ヌン


詩 119:159 わたしがいかにあなたのさとし thy precepts
愛するかをお察しください。
主よ、あなたのいつくしみにしたがって、
わたしを生かしてください。

詩 119:175 わたしを生かして、
あなたをほめたたえさせ、
あなたのおきて thine ordinances を、わが助けとしてください。
詩 119:176 わたしは失われた羊のように迷い出ました。
あなたのしもべを捜し出してください。
わたしはあなたの戒め thy commandments を忘れないからです。

 

この 119 篇はモーセの律法に全部焦点を合わせている
そうでないのはたった 5 節だけ
だから旧約時代の信徒にとって律法というのは重荷ではなくて喜びだった

 

それ以外

レビ記11:44~45
レビ 11:44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。
わたしは聖なる者である。
地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。
11:44 わたしはあなたがたの神、【主】であるからだ。
11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。
わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

 

レビ記19:2
レビ 19:2 「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、
『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。

 

レビ記20:7~8
レビ 20:7 ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。
わたしはあなたがたの神、主である。
20:8 あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。
わたしはあなたがたを聖別する主である。

 

レビ記 20:26
レビ 20:26 あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。
主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。

 

第一ペテロ 1:15~16
一ペテ 1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。

(聖書で言う「聖める」「聖別する」とは「区別する」「分かつ」という意味です。)

 

 

 

2 それからイスラエルに関しての第二の目的は

イスラエルが個人としても
群れとしても共同体としても
神さまに礼拝をささげる機会をモーセの律法は提供しているということ(3/9)

例)
レビ記23章に書かれているイスラエルの数々の祭り
祭りが 7あるが
そのうちの 3つは共同体としての礼拝
(過越の祭り、七週の祭り、仮庵の祭り)
4つが個人的な礼拝のための勧め
(種なしパンの祭り、初穂の祭り、ラッパの祭り、贖罪の日)

 

 

 

3 イスラエルに関する第三の目的は

イスラエルを他の民族から区別するため(4/9)

 

聖句

出エジプト19:5~8
出 19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。
全地はわたしの所有だからである。
19:6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。
これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。
19:7 それでモーセは行って民の長老たちを呼び、主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、19:8 民はみな共に答えて言った、
「われわれは主が言われたことを、みな行います」。
モーセは民の言葉を主に告げた。

 

出エジプト31:13
出 31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、
『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。
これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。

 

レビ記11:44~45
レビ 11:44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。
わたしは聖なる者である。
地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。
11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。
わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

 

申命記7:6
申 7:6 あなたはあなたの神、主の聖なる民である。
あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。

 

申命記 14:1~2
申 14:1 あなたがたはあなたがたの神、主の子供である。
死んだ人のために自分の身に傷をつけてはならない。
また額の髪をそってはならない。
14:2 あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。
主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。

 

 

これらの箇所にはユダヤ人を区別するために律法が与えられているという内容が記されている
モーセの律法の多くの部分がイスラエルを区別するために与えられている

 

 

そしてそれが日常生活の様々な分野をカバーしている

神を礼拝する方式は他の民族とは全く異なったもの
レビ記1章~7章(祭司のための罪の処理のためのささげ物)
レビ記16章(贖罪の日)
レビ記23章(安息日、7つの祭り)
これらの箇所はイスラエル独特の礼拝の様式が書かれてある

 

 

また食生活も異なったものになる
レビ記11章
今日ユダヤの食物規定についてたくさん本が書かれているが大抵健康のためだとか言っている
ところがモーセも神ご自身も健康のためにこれをしなさいとは一回も言っていない
彼らを健康に保つためではなく
他の民族と区別するために食物規定が与えられている
もしそれが健康のためだとしたならば私たちはより大きな疑問に答えなくてはいけなくなる
神さまがもしユダヤ人にこれを食べてはいけない
クリスチャンにこれは食べていいよと言われたとしたら
神さまという方はユダヤ人は健康になってほしいがクリスチャンは病気になってほしいと思っているということになるのではないか
だから当然のことながら
これは健康のためではなくて区別するためだというのがわかる

 

 

レビ記12章では
夫婦関係も他の民族とは違ったものでなければならない

 

 

レビ記19:19
レビ 19:19 あなたがたはわたしの定めを守らなければならない。
あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。
あなたの畑に二種の種をまいてはならない。
二種の糸の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない。

着ているものも異なっている。
彼らはいわゆる混紡の服を着てはいけない
1 種類の糸でできた着物を着たからといって健康になるわけではない
ユダヤ人を区別するためにこれが与えられている

 

また彼らは着物の四隅に房をつけなければいけない
それは白い房でそのうち 1 つはブルーの房
四隅に房をつけたからといって健康になるわけではない
これはユダヤ人を区別するため

 

髭の剃り方
レビ 19:27 あなたがたのびんの毛を切ってはならない。
ひげの両端をそこなってはならない。
(びんの毛=もみあげ/新共同訳)

 

 

 

 

 

異邦人との関係では
モーセの律法は1つ目的がある

 

エペソ人への手紙2:11~16
エペ 2:11 だから、記憶しておきなさい。
あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、 2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。
それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

この箇所非常に重要

隔ての壁あるいは隔ての中垣 the middle wall of partition という言葉が出てくる
モーセの律法は
それを守っていない異邦人にとっては
ユダヤ人と自分たちを区別する壁になった
(5/9)

そしてこの壁の中に入れないということはアブラハム契約以降の無条件契約の祝福に異邦人はそのままではあずかれないことになる
[モーセの律法によって僕らは締め出されたわけ ]
もし異邦人が割礼を受けてユダヤ教徒になったならばモーセの契約を成就したわけだから隔ての壁の中に入るわけだがそうでなければ異邦人は外側に追い出された状態
 

 

 

 

 

それから罪との関係において
モーセの律法が与えられている目的は4つある

 

 

1 第一番目が

罪が何かということ(6/9)

人々は罪を犯した時にそれが罪だというのがわかる
それは律法が与えられているから

 

ローマ3:19~20
ロマ 3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。
それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。
律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

 

ローマ5:20
ロマ 5:20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。
しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

 

ローマ7:7
ロマ 7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。
律法は罪なのか。
断じてそうではない。
しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。
すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

 

律法に書かれていなければこれが罪だということが分からなかったとパウロは言っている

 

 

 

2 罪との関係で第二のモーセの律法の目的は

罪を犯す人にもっと罪を犯させるようにするということ(7/9)

 

ローマ4:15
ロマ 4:15 いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。


ローマ5:20
ロマ 5:20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。
しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

 

ローマ7:7:~13
ロマ 7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。
律法は罪なのか。
断じてそうではない。
しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。
すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
7:8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。
すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。
7:9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、7:10 わたしは死んだ。
そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。
7:11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。
7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
7:13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。
断じてそうではない。
それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。
すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

 

第一コリント15:56
一コリ 15:56 死のとげは罪である。
罪の力は律法である。

 

この4か所が人にもっと罪を犯させるため

[罪の性質というのは実はこのように働いている]
罪の性質というのはそれが働き始めるために土台を必要としている
だから律法が何々してはいけないと言った途端に罪の性質は私は何々したいと言う
あるいは律法が何々せよと言った途端に罪の性質は何々したくないともう反対のことを言ってしまう
でむさぼりは罪だとわかってむさぼりをやめようとするのだが
やめようとすればするほどむさぼりが出てくるというのはパウロが経験した悩み

 

 

 

3 罪との関係での第三の目的は

律法を与えられたならば
分自身の力で救いを達成することはできない

神を喜ばせることはできないということが分かる(8/9)

 

 

それが ローマ7:14~25
ロマ 7:14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。
しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。
7:15 わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
7:16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
7:17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
7:18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。
なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
7:19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
7:20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
7:21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。
7:22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、7:23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。
だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
7:25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。
このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

 

 

 

4 罪との関係の第4番目が

律法はついに
罪人を信仰へと導く働きをする(9/9)
信仰へと導き
自力救済は不可能で
救い主を信頼するしかない
ということが わかるようになる
だから 律法というのは 救いの方法ではないということ

 

聖句は ローマ8:1~4
ロマ 8:1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。
すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。

8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

 

ガラテヤ 3:24~25
ガラ 3:24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
3:25 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。

 

 

 

 

 

 

b)割礼

Circumcision

 

レビ記12:3
レビ 12:3 八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。

 

アブラハム契約とは違って モーセ契約独特の意味がある
律法に忠実であることを示すための行為
またユダヤ人だけではなくて
ユダヤ人の約束に与かりたいと思ったら 異邦人もまた割礼を受ける必要があった

 

 

ガラテヤ5:3
ガラ 5:3 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。
そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。

 

もし異邦人が割礼を受けるならば
律法全部を守る義務があると
パウロは語っている

 

 

 

 

 

 

 今回の内容は八つの契約レジュメ(15)16)(13)とかぶります。

 

 

イスラエル学(9)2026年6/27へ
(c)安息日
D.レムナント

 

 

 

このセミナーの内容はこの本の一部とかぶります。
ゼヒお読みください。

アーノルド・フルクテンバウム博士著
中川健一監訳/佐野剛史訳
『イスラエル学-組織神学の失われた環-THE MISSING LINK IN SYSTEMATIC THEOLOGY
(書籍)(電子書籍)
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ出版部

 

 

練馬桜台聖書フォーラム

代表 :南 知之

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