八つの契約 レジュメ(24)2020年11/14
教会は霊のイスラエルではない?
2002年フルクテンバウム博士セミナー『聖書の八つの契約』(テキスト)を学んでいます。
ご購入はこちらから(CD9枚組)(MP3版)(テキストのみ)
フルクテンバウム博士のメッセージを中川健一牧師がわかり易く通訳してくださったセミナーの内容を基に作成しています。
以下、青色の聖句はセミナーでとりあげられた聖句です。
(但し、ここでは新改訳2017を載せています)
紫色の聖句は参考聖句です。
黒色の文章がセミナーの説明文です。
緑色の文章はHP編者による補足説明です。
茶色の文章はDr.Arnold G. Fruchtenbaum『The Eight Covenants of the Bible』 からの補足説明です。
興味のあるところはリンク先もご覧になってみてください。
Ⅰ.エデン契約-条件付き契約-人類全般と
Ⅱ.アダム契約-無条件契約 -人類全般と
Ⅲ.ノア契約-無条件契約 -人類全般と
Ⅳ.アブラハム契約-無条件契約-イスラエルと
Ⅴ.モーセ契約(シナイ契約)-条件付き契約 -イスラエルと
Ⅵ.土地の契約-無条件契約-イスラエルと
Ⅶ.ダビデ契約-無条件契約 -イスラエルと
Ⅷ.新しい契約-無条件契約 -イスラエルと
Ⅶ.ダビデ契約 4/4
THE DAVIDIC COVENANT
ダビデ契約Q&A(2/2)
セミナー参加者の方々からだされた質問に中川健一牧師が答えたものです。
D-Q28
イエス・キリストのことばでたとえ天地が過ぎゆくともわが言葉過ぎることなしとありますと。
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(マタ 24:35、マル 13:31 、ルカ 21:33)
律法の時代とディスペンセーションが終わると律法が終わったことになりませんか?という質問だと思うのですね。
マタ 5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
ルカ 16:17 しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。
D-A28
イエス・キリストは、律法は過ぎゆくことがないとおっしゃいました。
イエス・キリストが来られてメシアが十字架についた時に律法が全部完成したのです。
「律法の時代」というディスペンセーションから「恵みの時代」にいったとは、律法が過ぎ去ったのではなく、律法が成就したということ。
律法が最終ゴールとして示していたものが今やそこで成就したということ。
これがイエス・キリストの十字架の意味です。
D-Q29
ダビデの家のこと
ダビデの子孫が存続し続けるとは、ダビデ、ソロモン、レハベアム、ずっときてキリスト。
キリストを信じるクリスチャンたちのことですか?
D-A29
メシアの家系はソロモンからきているのではないのですね。
ナタンという息子からきています。
マリヤ(ルカ3章):ソロモンの弟ナタンの家系
義父ヨセフ(マタイ1章):ソロモンの家系
キリストを信じる者たちまで含めてダビデの子孫という考え方ではなく、ダビデの肉体的な息子でです。
ダビデの息子であればダビデの血統を引き継いでいると言えますから、そのどれかの血統、或いは幾つかの血統が今も生き続けているということですね。
フルクテンバウム博士による「Messianic Bible Study Series
MBS025 JESUS’S RIGHT TO DAVID’S THRONE」
「ダビデの王座へのイエスの権利」によると
エレミヤの時代に 「エコンヤ(バビロン捕囚前の最後の王)の子孫でないダビデ家の一員」であることが王座の資格として追加されたとのことです。(エレ22:24~30)
これは非常に重要な質問なので、フルクテンバウム先生に直接答えて頂きましょう
D-Q31
教会は霊のイスラエルではないという表現がありましたが、みことばが3つほど書いてあり、これを見ると、教会を霊のイスラエルというのは必ずしも間違いではないのではないでしょうか?
かなり専門的なご質問です。
D-A31
ローマ人への手紙の2:28~29
ロマ 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(新改訳3)
ロマ 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。
その人への称賛は人からではなく、神から来ます。(新改訳2017)
外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではない、外見上の割礼、からだの割礼が割礼なのではないと言っています。
つまり、心の割礼ということは私たちこそ「霊のイスラエル」という解釈は成り立たないのでしょうか?というご質問だと思います。
***
フルクテンバウム博士による回答
新約聖書で「イスラエル」という言葉がどのように使われているかをまず考えてみましょう。
・合計73回でてきます。
・一度も異邦人、或いは教会に対して使われていることがありません。
・肉体的にユダヤ人である人々にのみ使われています。
2つの意味
① 全てのイスラエル人全般を指す
② イスラエルの残れる者レムナントつまりまことの信者であるユダヤ人を指す
ですから、「霊のイスラエル」という言葉を使ってもいいのですが、
(霊のイスラエル、霊的イスラエルという言葉は聖書にはありません。)
「霊のイスラエル」とは例外なしにイスラエル人全体の中の信仰をもっている人々を指す言葉です。
新約聖書のどこにも「イスラエル」が教会を指す言葉として使われている箇所はありません。
そういう背景で今のロマ書2:28、29を見ると教会がイスラエルであるという考え方は全くでてきません。
ここではパウロは、不信仰なユダヤ人と信仰をもった異邦人とを対比させているのではないのです。
イスラエル人(ユダヤ人)の中で信じたイスラエル人と不信仰なイスラエル人の対比をここで行っています。
旧約聖書全体をとおして「イスラエルの残れる者」レムナントつまりまことの信者とそうでない者とを区別してきているのと同じです。
ローマ人への手紙のこの節のより大きな文脈を見てみましょう。
ここでパウロは人類全般が神の目から見て堕落していることを証拠立てようとしています。
まずローマ人への手紙1:18~32で異邦人の世界が堕落していることを証拠立てます。
ロマ1:18~32
ロマ 1:18 というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
1:19 神について知りうることは、彼らの間で明らかです。
神が彼らに明らかにされたのです。
1:20 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
1:21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。
1:22 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、1:23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
1:24 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。
そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
1:25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。
造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。
すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、1:27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。
男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。
1:28 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。
それで彼らは、してはならないことを行っているのです。
1:29 彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、1:30 人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、1:31 浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。
1:32 彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。
2:1~16で、文化が進んだ文明国の異邦人も堕落しているということを証明しています。
ロマ 2:1 ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。
あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。
さばくあなたが同じことを行っているからです。
2:2 そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。
2:3 そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。
2:4 それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。
2:5 あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。
2:6 神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。
2:7 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、2:8 利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。
2:9 悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、2:10 善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
2:11 神にはえこひいきがないからです。
2:12 律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。
2:13 なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。
2:14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。
2:15 彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。
彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。
2:16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。
2:16までで、異邦人全体が堕落しているという議論が終わっているのです。
2:17~3:20は今度はユダヤ人を対象とした議論になっています。
ロマ 2:17 あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、2:18 みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、2:19 20 また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、2:20 【前節と合節】2:21 どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。
盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。
偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。
2:23 律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。
2:24 「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。
2:25 もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。
しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。
2:26 ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。
2:27 からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。
2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。
その人への称賛は人からではなく、神から来ます。
3:1 それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。
割礼に何の益があるのですか。
3:2 あらゆる点から見て、それは大いにあります。
第一に、彼らは神のことばを委ねられました。
3:3 では、どうですか。
彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。
3:4 決してそんなことはありません。
たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「それゆえ、あなたが告げるとき、
あなたは正しくあられ、
さばくとき、勝利を得られます」
と書いてあるとおりです。
3:5 では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。
私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。
3:6 決してそんなことはありません。
もしそうなら、神はどのようにして世界をさばかれるのですか。
3:7 では、もし私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人としてさばかれるのですか。
3:8 「善をもたらすために悪を行おう」ということになりませんか。
私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷されています。
そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。
3:9 では、どうなのでしょう。
私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。
全くありません。
私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。
「義人はいない。一人もいない。
3:11 悟る者はいない。
神を求める者はいない。
3:12 すべての者が離れて行き、
だれもかれも無用の者となった。
善を行う者はいない。
だれ一人いない。」
3:13 「彼らの喉は開いた墓。
彼らはその舌で欺く。」
「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」
3:14 「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
3:19 私たちは知っています。
律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。
それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
3:20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。
律法を通して生じるのは罪の意識です。
ロマ 2:17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、(新改訳3)
ロマ2:17あなたが自らユダヤ人と称し(新改訳2017)
But if thou bearest the name of a Jew,(AVS)
という言葉から
ユダヤ人に対する議論だということがわかります。
その中でパウロはユダヤ人もまた神の栄光からそれてしまったことを証拠立てていきます。
ユダヤ人という言葉は神をほめたたえる人という語源があるのです。
神をほめたたえる者という名前をもらっているけれども全てのユダヤ人がその名前にふさわしい信仰生活をしているわけではないということがパウロの論点です。
ロマ2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。
その人への称賛は人からではなく、神から来ます。
外面的な割礼だけではなくて内面の割礼まで受けている人を「神をたたえる」という意味でのまことのユダヤ人だというのがパウロの議論です。
まことのユダヤ人とは、肉体の割礼を受けているのと同じように心の割礼も受けている人を言うわけです。
ロマ2:29bその誉れは、人からではなく、神から来るものです。(新改訳3)
ロマ2:29bその人への称賛は人からではなく、神から来ます。(新改訳2017)
whose praise is not of men, but of God.(AVS)
ここでは言葉遊びがあるのです。
ギリシャ語の「誉れ」:「ユダヤ人」を指す言葉
パウロの言葉遊び(翻訳するのは非常に難しいのですが):
彼がユダヤ人として神を礼拝するその礼拝は、人からではなく神から与えられるものだという、ユダヤ人の信仰の真実な在り方も同時に指しています。
ここでパウロは
異邦人信者を中心とした「教会」が霊のイスラエルではなく
「まことの信仰を持っているイスラエル」が霊のイスラエルだと言っているわけです。
ピリピ書3:3
ピリ 3:3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
ピリ 3:3 神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。(新改訳2017)
全てイエス・キリストを信じた人は霊的な意味での割礼を受けた人ということが言えます。
このような質問がでてくるのは、割礼を受けた者は全部イスラエルだという大前提があるわけですが、それは必ずしもそうではないのです。
割礼を受けていようが受けていまいが、イスラエルはイスラエルです。
例)
荒野でイスラエル人たちは38年間割礼を受けませんでした。
ところがその38年間のあいだも彼らは「イスラエルの家の者たち」と呼ばれ続けていました。
ですからイスラエルと呼ばれるか呼ばれないかは
アブラハム、イサク、ヤコブの肉体的な子孫であるかどうかという一点だけにかかっています。
割礼があるかどうかがイスラエルであるかどうかを決めるのではないのです。
(詳しくは中川健一著『ディスペンセーショナリズムQ&A』(書籍のみ1528円)(CD5枚組書籍付き3000円) 23 ダビデ契約とはどのようなものか をどうぞ。)
八つの契約(25) 2020年11/28へ
Ⅷ.新しい契約(1/)
A.契約に与る者 B.条項(1/2)