死後の世界 レジュメ(19)2019年6/8
生きている者が故人のためにできることはあるのでしょうか
2012年フルクテンバウム博士セミナー
『聖書が教える死後の世界
ー個人的終末論ー』(テキスト)
(チャート 死者の場所(13の用語))
(ホワイトボード)を学んでいます。
ご購入はこちらから(MP3版)
(CD、DVD、テキストは販売終了)
フルクテンバウム博士のメッセージを中川健一牧師がわかり易く通訳してくださったセミナーの内容を基に作成しています。
以下、青色の聖句はセミナーでとりあげられた聖句です。
紫色の聖句は2回目にでてきた聖句または参考聖句です。
黒色の文章がセミナーの説明文です。
緑色の聖句や文章は補足説明です。
茶色の文章はフルクテンバウム博士著『The Footsteps of The Messiah』付録Ⅸ 死者の場所 からの補足説明です。
興味のあるところはリンク先もご覧になってみてください。
Ⅲ.死者の場所
The Place of the Dead
①シオール Sheol(旧64)
②ハデス Hades(新10)
③アバドン Abbadon(旧6)
④よみの穴 The Pit (旧23)
⑤アビス The Abyss (新9)
⑥タータラス Tartarus (新1)
⑦地獄 Hell (0箇所)
⑧ゲヘナ Gehenna (新12)
⑨火の池 The Lake of Fire (黙示録4)
⑩アブラハムのふところ Abraham’s Bosom (新1)
⑪パラダイス Paradise (新3)
⑫天 Heaven (旧新39)
⑬新しいエルサレム The New Jerusalem (新3)
セミナーテキスト30ページ
E. 誤った説
*2つとりあげたいと思う
*両方ともカトリック教会が起源
間違った考え方
1. 幼児霊域
(Limbus Infantum)
a. 概念
*ラテン語でリムブス・インファントームLimbus Infantum
ラテン語2つをくっつけた言葉
*Infant:英語のinfant「幼児たち」「幼子たち」
*Limbus:「縁ふち」「接するところ」という意味
文字通りに訳すと幼子たちの為に用意された縁という意味
*地獄の縁にこのような場所があり
洗礼つまり幼児洗礼を受けないまま亡くなった幼児たちはそこに行くという
*幼児洗礼を受けていないとはその霊魂は天国に行けないというのだが 子供は信じるかどうか決心することはできなかったという意味では刑罰を受けることもなく痛みを経験することも 天国の祝福からも除外されているという
(ウィキペディアでは「幼児の辺獄(へんごく、リンボ)」と載っている
カトリック教会の公式教義ではないが禁止もされなかったよう)
b. 批判
(1)幼児霊域とは洗礼による救いという誤った教理の上に語られている
洗礼によって新生するという教理が前提になって幼児が幼児霊域というところに行くと言う
幼児を救うために幼児洗礼が必要だと彼らは考え
*洗礼を受けないままで幼児が死んだ場合は幼児霊域という特別な場所に行くと考えた
(2)しかし聖書には洗礼が幼子を救うという教えはない
聖書のどこを探しても幼児洗礼という概念はでてこない
洗礼は常に既に信じた人が受けるもの
幼児霊域という場所があるという教えは聖書にない
教会の伝承から神学を発展させてはならない
聖書は信仰及び実践の全てのことに対する唯一の権威
間違った考え方
2.煉獄
a. 概念
煉獄:英語でPurgatoryパーガトリー
英語の動詞でpurgeパージは追い立てる 清める ほこりを払うという意味
カトリックによると
天国に行くほどはいい人間ではない かといって地獄に落ちるほど悪くもない という人はしばらくの間煉獄という所に行きもう少しきよくなる準備をする
どれくらいの期間煉獄に留まるのか
ひとり一人の必要に応じて決まり 或る人はより長く煉獄に留まることになるだろう
しかし煉獄に留まる時間を短くする方法が提唱される
生きている時に祈りをする 善行を積む ミサに行く ペナンス苦行を行う
煉獄に行ったのちは親戚や家族が免罪符を買う
*しばらく煉獄で時を過ごし それから天国に行くという
b.証明する聖句(6箇所)
煉獄があるという考え方を証明する聖句はあるのか
6箇所の聖句を挙げ煉獄の存在を証明していると主張する
イザヤ4:4
イザ 4:4 〜エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、
すすぎ清めるとあるのでこれが煉獄であろうと
ミカ7:8
〜やみの中にすわっていても、
【主】が私の光であるからだ。
ゼカリヤ9:11
〜あなたの捕らわれ人を、
水のない穴から解き放つ。
マラキ3:2
〜この方は、精錬する者の火、
布をさらす者の灰汁のようだ。
1コリ3:13〜17
その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
1コリ15:29
Ⅰコリ 15:29 もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。
もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。
死者のためのバプテスマという言葉が語られている
これらの証明する聖句に対する批判は「c.批判」にて
セミナーテキストの31ページ
もう一つの煉獄の証明はアポクリファApocrypha外典「がいてん」(プロテスタントでは聖書と認めていない書)
マカバイ記下12:41〜45
「一同は、隠れたことを明らかにされる正しい裁き主の御業をたたえながら、この罪が跡形もなくぬぐい去られることを、ひたすら祈願した。高潔なユダは、これらの戦死者たちの罪の結果を目撃したのであるから、この上はだれも罪を犯してはならないと一同を鼓舞した。 次いで、各人から金を集め、その額、銀二千ドラクメを贖罪の献げ物のためにエルサレムへ送った。それは死者の復活に思いを巡らす彼の、実に立派で高尚な行いであった。もし彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者のために祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。だが彼は、敬虔な心を抱いて眠りについた人々のために備えられているすばらしい恵みに目を留めていた。その思いはまことに宗教的、かつ敬虔なものであった。そういうわけで、彼は死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いのいけにえを献げたのである」
ドラクメ:単数形ドラクマはユーロ以前まで実際にギリシャで使われていた貨幣単位だそう
1ドラクマは約1円だった 複数形がドラクメスだそう
これはユダヤ人には決して受け入れられず
イエスの時代においてもマカバイ記は聖書として知られるものの中に分類されることは決してなかった
c. 批判(3つある)
まず聖句から
(1)聖句はどこにも煉獄の証明を暗示するものはない
聖書はどこを見ても死んだ人が天国に入る前に一時期間清めのための時を過ごすという教えはない
*イザヤ4:4
イザ 4:4 主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、
エルサレムがイスラエルの首都になるために必要な清め
大患難時代の終わりに千年王国の都となる為にエルサレムが清められる必要があるという預言
*ミカ7:8
ミカ 7:8 私の敵。私のことで喜ぶな。
私は倒れても起き上がり、
やみの中にすわっていても、
【主】が私の光であるからだ。
煉獄の中に信者がいると言っているのではない
ミカは 地上生涯で一般的に信者が経験することについて語っている
信者は地上生涯において闇の中に座るような経験をしたとしても神はそこにおいて光であるということ
私たちもまた同じようなことを経験する
これは死後の世界 特に煉獄についての預言ではない
地上生涯における状況を語っている
*ゼカリヤ9:11
ゼカ 9:11 あなたについても、
あなたとの契約の血によって、
わたしはあなたの捕らわれ人を、
水のない穴から解き放つ。
特に大患難時代で苦しみにあっているユダヤ人が将来復活するという預言
神さまがそのユダヤ人を穴の中から解放するという預言
(セミナーテキストの「将来の復活」という言葉を消してください。)
大患難時代のユダヤ人が苦難から解放されるという預言であり死後のことではない
マラキ3:2
3:2 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。
だれが、この方の現れるとき立っていられよう。
まことに、この方は、精錬する者の火、
布をさらす者の灰汁のようだ。
(セミナーテキストに)「大患難時代の裁き」と書いてあるが より具体的には再臨の時に未だ生きている人たちに対する裁きのこと
マラキは煉獄をいっているのではない
死んだあとどうなるかではなく
メシアの再臨の時にどういう裁きが起こるかを語っている
*1コリ3:13〜17
Ⅰコリ 3:13 各人の働きは明瞭になります。
その日がそれを明らかにするのです。
というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
「メシアのさばきの座」の火のことを言っている
携挙が起こり信者が天にあげられたのち天において行われることであり 煉獄で行われることではない
この火は信者を苦しめる火ではなく 信者の行いを試すための火
もし草や木やわらで作ったならそれは火で試され燃えてしまい何も残らない
しかし金や銀や高価な宝石でつくられたものはその火に耐えて残ると言っている
そのキリストの裁きの座での結果 ひとり一人が千年王国でどのような特権を与えられるか決まる
これは天において起こることであり煉獄で起こることではない
教会時代の聖徒たちのみが受ける裁きのことであり 全ての人が受けるものではない
1コリ15:29
Ⅰコリ 15:29 もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。
もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。
ASV: they do that are baptized for the dead
死者のためのバプテスマという言葉がでてくる
これは非常に難解
文脈:パウロは死後の復活はないと教えている人たちに論争し バプテスマ(洗礼)の意味について教えている
洗礼
水の中に浸ける時 その瞬間洗礼を受けている人はメシア キリストの死と一体化する
水からあげた時 キリストとともによみがえるという復活を象徴する
復活がないなら洗礼を受けることも意味がなくなる
洗礼を授けて水の中につけたまま 復活がないなら水からあげることはしないほうがいい
半分だけ洗礼を授ければいい
そうやると死んじゃうけど
洗礼を受けるとは死とよみがえりの両方を信じて受け止めるということで
煉獄があると表現告白しているのではない
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浸礼のジョークについては割愛させて頂きます。
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(2)マカバイ記下12:41〜45の罪は偶像礼拝の罪
文脈に注目しよう
これはユダヤ人とギリシャ系シリア人との戦い マカベア戦争という戦い
ユダヤ人が戦いに勝ったのだが戦士したユダヤ人が沢山でた
ユダヤ人の死んだ兵士たちを確かめると何人かの兵士たちがいわゆるお守りのようなもの 偶像を身につけていた
そこでユダ マカビ―(マカバイ)という人が このお守りを着けていた人たちはイスラエルの為に勇敢に戦って死んだのだから彼らのために罪がゆるされる祈りをしてあげようと思った
神が彼らの偶像礼拝を赦してくださるように
ここで語られていることと語られていないこととを区別しよう
彼らは死者のために祈ること 動物の血を流すこと また和解が行われるようにとしている
死者の罪が赦されるように
しかし その罪がきよめられる場所として煉獄があるとは何も書かれていない
ここに人の魂が死んだあと煉獄に行きしばらくの間清めの期間を過ごすという教えはない
人は死んで復活するというのが聖書の教えだが その間に煉獄があるとはこの箇所は教えていない
マカバイ記下12章に煉獄に関する記述は全くないということ
ユダヤ人が煉獄という概念を持ったことは一度もない
聖書の中にも或いはマカバイ記のようなユダヤ人の書の中にも煉獄という言葉も出てこないし概念はでてこない
(3)煉獄の教えは、メシアの御業の完全性を否定する
煉獄の教理の一番の問題
イエスさまのみわざ メシアのみわざは十字架で完全に完成した
一定期間清めが必要だというのはイエスのみわざの完全性を否定する教え
イエスさまは十字架の上で自らの魂を父に渡す前に「完了した」と言われた
私たちの罪を赦しきよめるために必要であった全てが十字架上で行われた
そのイエスを信じた結果 私たちの罪は一度限り完全にきよめを受けた
テトス2:14
テトス 2:14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
私たちは贖われ 十字架上で流されたメシアの血によって完全にきよめられた
死んだのち天国に入る聖さを獲得するための清めの期間を過ごす必要は全くない
ヘブル1:3
ヘブル 1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
イエスさまは十字架上で私たちのための罪のきよめを一度限り完璧に成し遂げてくださった
そして天にのぼり すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれた
着かれました=座っている
それはどういう意味か
ヘブル書の記者はこの先でその意味をより詳しく解説している
レビ的祭司 人間の大祭司と「メルキゼデクの位に等しい大祭司 After the order of Melchizedek 」つまりイエスさまの大祭司職とを区別して解説している
(モーセの律法の)レビ的大祭司たちは常に立っている
彼らの仕事が終わることはないから
日々のいけにえ 週ごとのいけにえ 月 年ごとのいけにえ 次から次へと忙しく仕事がくるのでレビからきている祭司職の人たちは決して座ることがない
しかしメルキゼデクの位に属する私たちの大祭司イエスは父なる神の右の座に座している
このお方がわざをなし終えて座ったということは 十字架上で私たちの罪を取り去ることは全部完成したということを意味している
ステパノが殉教の死を遂げる時にイエスさまは立っておられると聖書に記されている
使 7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、7:56 こう言った。
「見なさい。
天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
立ち上がったのはステパノの魂のきよめをする為ではなく 彼の魂を天に迎えるため
メシアが十字架上でしてくださったみわざを正しく理解するならば イエスさまが私たちのために完全な贖いを成し遂げ 私たちを完全にきよめてくださったということがわかる
一度救われたならばその人はとこしえに救われている
それ以上に救われるために私たちがすべきわざはない
信じることだけ
「シィ―ラ」
終わり
今回のまとめ
ローマ・カトリック教会が起源となる死者の場所に関する誤った2つの説について
1.幼児霊域
未洗礼の幼児が死んだ場合に行く特別な場所があり そこは地獄の端 幼児霊域というところで罰は受けないが天の祝福からは除外されるという
批判① この概念は「洗礼によって新生する」という誤った教理を基にしている
批判② 聖書に幼児洗礼や幼児霊域について書かれた箇所はなく 全くの言い伝え
より有名な
2.煉獄
天国と地獄の中間?一定期間煉獄で過ごしたのち天に行くと言う
(つまり対象は信者?)
人により異なるその期間は祈り ミサ 善行等ほか免罪符の購入により短くなると言う
批判① 根拠としてあげられる6箇所の聖句は全て煉獄を教えている箇所ではない
批判② 根拠とする外典の箇所における罪は偶像礼拝の罪であり カトリックにおいてもそれは煉獄ではなく地獄行き
批判③ 煉獄の教理の一番の問題は メシアが十字架上で完全な贖いを成し遂げてくださったということを否定することになる点
人が救われるためにすべきことは福音の三要素*を信じ イエスさまだけに信頼すること
一度救われたなら完全に永遠に救われているのであり死後きよめの期間を過ごす必要はない
逆に 生きている者が亡くなった者の「救い」のためにできることは何もない
結論: 幼児霊域も煉獄も存在しない
(幼児については聖書は沈黙している
この学びの内容で傷つく方がでませんように)
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福音
コリント人への手紙第一 15:3b〜4
キリストは、聖書の示すとおりに、
私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、
また、聖書の示すとおりに、
三日目によみがえられたこと、
福音の三要素
キリストの十字架以降 全ての人(異邦人もユダヤ人も)が信ずべき内容とはこの3つ
① キリストは私たちの罪のために死なれたこと
② 墓に葬られたこと
③ 三日目に復活されたこと
イエスさまに信頼をおく者には祝福された永遠のいのちが用意されている
この福音の内容を理解し 同意し イエス・キリストだけが自分を救ってくださる唯一のお方であると信じ信頼するなら信仰により恵みにより救われる
救いの条件としてこのほかに付け足すものがあったり 減らしたりするなら 救われない
Ⅱコリ 5:21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。
それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。
イエス・キリストの十字架についての無料メッセージは中川健一牧師による「メシアの生涯(197)十字架上での最初の3時間(1)」、YouTube、Vimeo、音声のみ、アウトライン、アプリ等
最初からも是非
3分でわかる聖書
成長セミナー
聖書講解メッセージ
テーマメッセージ
救われたのち守るよう教えられている規範「キリストの律法」(新約聖書の書簡に点在している)はあるが
福音の三要素を信じたならば救いは確定している
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死後の世界レジュメ(20) 2019年6/22
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