患難期前の出来事レジュメ(12)2017年8/26
「イスラエル」「聖徒」という言葉
携挙はクリスチャンの希望
神の2つの怒りからの解放
聖句から携挙のイミネンシーという教理を確認する
2014年フルクテンバウム博士セミナー『携挙・大患難時代・そしてユダヤ人の運命』(テキスト) の一部を学んでいます。
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フルクテンバウム博士のメッセージを中川健一牧師がわかり易く通訳してくださったセミナーの内容を基に作成しています。
以下、青色の聖句はテキストでみていく聖句です。
紫色の聖句は2回目の聖句または参考聖句です。
緑色の文章は補足説明です。
黒色の文章がセミナーの説明文です。
興味のあるところはリンク先もご覧になってみてください。
患難期の前に起こる一連の出来事
THE SEQUENCE OF PRETRIBULATIONAL EVENTS
Ⅰ.順に起こる出来事
1. 第一次、第二次世界大戦(1914、1939)
2. イスラエル国家の再建(1948)
3. ユダヤ人の支配下に置かれたエルサレム(1967)
//////////// 2017年現在はここ //////////////
(以下は将来順に起こること、いつかは不明)
4. 北の諸国連合の侵攻
5. 世界統一政府
6. 10の王国
7. 反キリストの出現
8. 平和と偽の安全の時期
9. 7年の契約
Ⅱ.時間順ではない出来事
3つもしくは4つ
1回目の暗黒
エリヤの帰還
第3神殿
教会の携挙(3/3)
Ⅱ.時間順でない出来事
NON SEQUENTIAL PRETRIBULATIONAL EVENTS
教会の携挙
Ⅱ.教会の携挙
THE RAPTURE OF THE CHURCH
セミナーテキストの29ページ
B. 携挙の時期
The Timing of the Rapture
1 観察 An Observation
携挙が患難期の前にある(私たちの立場、患難期前携挙説)のか、
中間(患難期中携挙説)なのか、
終わり(患難期後携挙説)なのか、
何故そんなに問題になるのでしょうか。
携挙が患難期の後だとすると、私たちは大患難時代を全部通過することになります。
「教会が大患難時代を通過するのかしないのか」という問題に置き換えると、これは重大テーマです。
患難期の前に携挙が起こる、それが今生きているクリスチャンの希望であるという話が展開されていきます。
2.聖句 Scripture
(1)
旧約、新約ともに患難期に言及した箇所はたくさんありますが、そこに教会という言葉は一度もでてきません。
ヨハネの黙示録1〜3章(患難期前):
教会という言葉は何度もでてきます。
同19〜22章(患難期後):
また教会という言葉がでてきます。
同6〜18章(患難期):
7年間の患難期の描写ですが、教会への言及は一度もありません。
黙示録以外でも同様です。
患難期前後に教会という言葉がでてきたとしても、患難期に教会という言葉はでてこないので、患難期後携挙説(患難期の後に携挙があるとする立場)の学者たちはそれを証明する聖句がないことを正直に認めます。
ほとんどの場合、ある神学的前提を置いているのです。
ある神学的前提
患難期後携挙説のバックドア1:
イスラエルという言葉
大前提
「教会はイスラエルである。」
→小前提
「イスラエルという言葉が患難期の聖書箇所にでてくる。」
→結論
「だから教会は大患難時代を通過していく。」
という三段論法で患難期後携挙説を展開します。
「イスラエル」という言葉は
新約聖書に73回でてきますが、イスラエルが教会という意味で使われている例は一度もありません。
「イスラエル」とは「ユダヤ人」「ユダヤ人全体」「ユダヤ人信者」を指す言葉として使われています。
ですから三段論法の「教会はイスラエルである。」或いは「イスラエルは教会だ。」という主要提題に間違いがあるのです。
しかもいつもイスラエルイコール教会と考えるわけではありません。
神さまがイスラエルについて良い預言をされている時、それは教会が祝福されるという預言であり、神さまがイスラエルを呪っている預言をされる場合、それはユダヤ人のものと患難期後携挙説者は考えます。
ある神学的前提
患難期後携挙説のバックドア2:
聖徒という言葉
大前提
「聖徒とは教会時代の聖徒を指している。」
→小前提
「大患難時代に聖徒たちが登場している。」
→結論
「教会は大患難時代を通過している。」
1番目と同様、主要命題の「聖徒とは全員教会時代の聖徒だ」が間違っています。
教会の定義から始めた(患難期前の出来事レジュメ(10) 参照)のはそういう理由です。
教会時代の聖徒とは使徒行伝2章から携挙がおこる前までの間の信者の総体をさします。
(5)へつづく
患難期後携挙説、携挙が患難期の後に起こるとは聖書からは説明できない状態にあります。
セミナーテキストの30ページ
(2)
主の日つまり患難期のことについてイエスさまが語っています。
ルカ21:34〜37
ルカ 21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
21:35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
全人類が直面する裁きです。
「全地」all the earthの「すべての人に」all them
このさばきがくだる時に地上に神のさばきを免れる人は一人もいないと教えています。
21:36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
逃れる方法とは地上にいないことです。
私たちは携挙のあと人の子(イエスさま)の前に立ち「キリストの御座のさばき」を受けます。
21:37 さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。
ヨハ 14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
Ⅰテサ 4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
(3)
1テサロニケ1:9、10
第Ⅰテサ 1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
神の御怒りという場合、2つの意味で使われます。
①
ロマ書1:18
ロマ 1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
一般的な罪に対して神さまは怒っている、現在神が感じている怒りです
今、神の怒りは啓示されています。
②
しかし、将来の神の怒りがあり、それが患難期における神の怒りです。
黙示録6章から18章の内容です。
黙示録6:17
黙 6:17 御怒りの大いなる日が来たのだ。
だれがそれに耐えられよう。」
黙示録14:10
黙 14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。
また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
黙示録14:19
黙 14:19 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
黙示録15:1
黙 15:1 また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。
黙示録15:7
黙 15:7 また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。
黙示録16:1
黙 16:1 また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
信者は神のこの2つの怒りから救われています。
ローマ5:9
ロマ 5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
信者は罪に対する現在の神の怒りからの解放を保障されています。
第一テサロニケ1:10
Ⅰテサ 1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
患難期における、将来の怒りからの解放も私たちに保障されています。
(4)
第一テサロニケ5:1〜10
Ⅰテサ 5:1 兄弟たち。
それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。
ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。
私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
セミナーテキストの31ページ
第一テサロニケ4:13~14で携挙の7つのステップについて学びました。
第一テサロニケ5章は2つのギリシャ語で始まっています。
「ペリ デ」
パウロが新しいテーマを紹介する際に使う言葉で、第一コリントでよく使われます。
英語のbut「ところで」「さて」。
パウロは第一テサロニケ4章で携挙について語っていたのですが、5章は新しいテーマに入っていくということです。
Ⅰテサ5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
新しいテーマは2節によれば「主の日」(患難期)です。
パウロは主の日について、旧約聖書を引用しながら説明していきます。
ゼパニヤ書1:14〜18
ゼパ 1:14 【主】の大いなる日は近い。
それは近く、非常に早く来る。
聞け。【主】の日を。勇士も激しく叫ぶ。
1:15 その日は激しい怒りの日、
苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、
やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、
1:16 角笛とときの声の日、
城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。
1:17 わたしは人を苦しめ、
人々は盲人のように歩く。
彼らは【主】に罪を犯したからだ。
彼らの血はちりのように振りまかれ、
彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる。
1:18 彼らの銀も、彼らの金も、
【主】の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。
そのねたみの火で、全土は焼き払われる。
主は実に、地に住むすべての者を
たちまち滅ぼし尽くす。
主の日に関する預言をパウロは第一テサロニケで引用しています。
ヨエル書2:1〜2
ヨエ 2:1 シオンで角笛を吹き鳴らし、
わたしの聖なる山でときの声をあげよ。
この地に住むすべての者は、わななけ。
【主】の日が来るからだ。その日は近い。
2:2 やみと、暗黒の日。
雲と、暗やみの日。
山々に広がる暁の光のように数多く強い民。
このようなことは昔から起こったことがなく、
これから後の代々の時代にも再び起こらない。
ヨエル書2:10〜11
ヨエ 2:10 その面前で地は震い、天は揺れる。
太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
2:11 【主】は、ご自身の軍勢の先頭に立って
声をあげられる。
その隊の数は非常に多く、
主の命令を行う者は力強い。
【主】の日は偉大で、非常に恐ろしい。
だれがこの日に耐えられよう。
主の日は暗黒で表現され、暗黒が襲う日と預言されています。
その日はまるで盗人が突如来るように未信者を襲います。
なぜなら彼らは闇の子だから闇が降りかかり、信者は昼の子、光の子なので闇が襲うことはないとパウロは言います。
第一テサロニケ5:9
Ⅰテサ5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
信者は神の怒りを受けるのではなく、救いを得るように定められている、といいます。
この場合の「御怒り」とは2節にある患難期(主の日)のことです。
患難期が襲う時に信者はいないということです。
第一テサロニケ5:8
Ⅰテサ5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
それが私たちの希望だとパウロは言います。
教会の携挙が、信者が将来に対して抱いている希望だという意味です。
患難期は未信者を襲うけれども信者を襲うことはない、ということです。
(5)
黙3:10
黙 3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
これは教会に向けて語られた言葉です。
*「試練の時には」というよりも「試練の時から」あなたがたを助けようというのが正確な意味です。
試練の時とは患難期、黙示録6〜19章、のことを指しています。
この約束で教会は患難期の中にあって守られるとは言っていません。
教会は患難期そのものから取り去られて守られるのです。
患難期後携挙説は、教会は患難期を通過するが神の守りがあると説明します。
しかし患難期に多くの聖徒たちが殺されています。
黙6:9〜11
黙 6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。6:10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」6:11 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。
(「彼ら」とは患難期前半、ディアスポラのユダヤ人14万4千人の世界宣教により救われた異邦人たちのうち、にせの宗教である世界大の統一された教会、大バビロンに殺された人々)
黙11:7
黙 11:7 そして彼ら(患難期前半エルサレムを中心に伝道活動をしたユダヤ人「ふたりの証人」)があかしを終えると、底知れぬ所(アビス)から上って来る獣(一度死んだが復活した反キリスト)が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
黙12:11
黙 12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼(サタン。患難期中間に天使長ミカエルたちとの天での戦いに負けて地上に投げ落とされた)に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
黙13:7
黙 13:7 彼(反キリスト)はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
黙13:15
黙 13:15 (にせものの聖霊であるにせ預言者は)それから、その獣(反キリスト)の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
黙14:13
黙 14:13 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者(患難期後半の殉教者)は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」
黙17:6
黙 17:6 そして、私はこの女(宗教的バビロン、患難期前半・にせの宗教世界大の統一された教会)が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。
黙18:24
黙 18:24 また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都(政治的バビロン、患難期後半・反キリストの世界首都)の中に見いだされたからだ。」
こんなに聖徒が死んでいるのですから、もし神さまが患難期にあって教会を守ると言うならばどこかおかしいです。
黙示録3章に約束されている守りの約束は「教会時代の聖徒」に与えられているもので、「患難期に救われた聖徒たち」はその約束を受けていないということです。
携挙は患難期が始まる前のどこかの段階で起こるということがわかってきます。
患難期のどれくらい前に携挙が起こるのでしょうか?
英語でイミネント(切迫したimminent形容詞)、
イミネンシー(切迫imminency=imminence名詞)、
という言葉は、直ぐに起こる、いつでも起こり得る。
つまり携挙が起こる前に必要とされる前提条件は何もないという意味です。
以下の4つの聖句から携挙のタイミングを確認します。
(1)
ヨハネ21:20〜23
ヨハ 21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子(ヨハネ)があとについて来るのを見た。
この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」
と言った者である。
21:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。
「主よ。この人はどうですか。」
21:22 イエスはペテロに言われた。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。
あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。
しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。
セミナーテキストの32ページ
ヨハネが生きている間にメシアは戻って来る可能性があったと教えています。
実際には起こりませんでしたが、携挙の可能性があったことを示唆しています。
それが携挙のイミネンシーという教理、いつでも携挙は起こり得るという意味です。
(2)
ローマ13:11〜12
ロマ 13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。
あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。
というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
13:12 夜はふけて、昼が近づきました。
ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
この「救い」とはからだの贖われること、からだの救い、つまり復活の時にからだが栄光にかわること、終末論的な意味での救いです。
それがもっと近づいているとパウロは言っています。
一日一日私たちは携挙の日に近づいています。
明日はもう1日近づいている日です。
(3)
ヤコブ5:7〜9
ヤコブ 5:7 こういうわけですから、兄弟たち。
主が来られる時まで耐え忍びなさい。
見なさい。
農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
5:8 あなたがたも耐え忍びなさい。
心を強くしなさい。
主の来られるのが近いからです。
5:9 兄弟たち。
互いにつぶやき合ってはいけません。
さばかれないためです。
見なさい。
さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
主の来臨が近い、戸口のところに立っている、戸を開ければすぐに入って来られる状態である、と言われています。
いつでもこれが起こり得る可能性があるということが強調点です。
(4)
黙示録22:20
黙 22:20 これらのことをあかしする方(イエス・キリスト)がこう言われる。
「しかり。わたしはすぐに来る。」
アーメン。
主イエスよ、来てください。
「すぐに来る」これもまた、携挙はすぐに起こり得ると教えている聖句です。
フルクテンバウム博士が来日時、大好きなお刺身を注文した時の話は割愛させていただきますが、黙22:20とロマ書1:16に関連した いかしたジョークでした。
携挙はいつ起こるのでしょうか?
まとめ
携挙は今から、イスラエルと反キリストの7年の契約締結、までの間に起こります。
患難期の前に起こる出来事の幾つかが起こってからかもしれませんし、起こる前かもしれません。
もし神さまが望まれていたならば500年前に携挙があったとしてもおかしくありません。
イミネンシーという言葉:
すぐにというよりは、それが起こる前に起こらなくてはいけない条件が何もないという意味です。
すぐに起こるかもしれないし、もっと時間がかかるかもしれません。
いずれにせよその前に必要とされる条件は何もないということです。
すぐにだけれども時間はかかるかもしれません。
ですから私たちの奉仕の姿勢は、主が今日来られるかもしれないという前提で(事実そのことは起こり得るわけですから)主に仕える必要があります。
携挙の日がいつになるかは予測することも言うこともできません。
この「患難期前の出来事」の学びはここまで、セミナーテキスト30ページまでの内容となります。
長い文章をお読みくださり、おつきあい頂き、本当にありがとうございました。
あなたに神さまの祝福が豊かにありますように。
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福音
コリント人への手紙第一 15:3〜4
私(使徒パウロ)があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
キリストは、
(旧約)聖書に書いてあるとおりに、
私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、
また、(旧約)聖書に書いてあるとおりに、
三日目によみがえられたこと、
福音の三要素
キリストの十字架以降、今そして将来にわたって全ての人(ユダヤ人も異邦人も)が信じるべき福音の内容とは次の3つのことです。
① キリストは私たちの罪のために死なれたこと
② 墓に葬られたこと
③ 三日目に復活されたこと
この特別に啓示された福音の内容を理解し、同意し、イエス・キリストだけが自分を救ってくださる唯一のお方であると信じ信頼するなら、あなたは神さまの恵みと、信仰により救われます。
上の3つのこと以外に例えば次のようなほかのことを「救いの条件」として付け加えてはいけません。
公の場での告白:「告白」と「信じること」は同時におこります
罪の告白:1ヨハ1:9は信者の罪の処理に関する教えです
洗礼:救われたのだからバプテスマを受けなさいという命令 順番です
悔い改め:信じる行為の中に含まれます
メシアの主権に従う:救われた者に対する弟子となる条件です
信じた瞬間に新生し、聖霊の内住が与えられ、聖霊のバプテスマによりキリストと一体化させられます。
その救いは取り去られることがありません。
クリスチャンライフ、この麗しきもの(1)
(詳しくは中川健一牧師によるこの無料音声メッセージにて)
最初から聖書すべてを100%信じているわけではなくても大丈夫です。
聖書を学べば学ぶほど聖書への、神さまへの信頼度は増していきます。
イエスさまの十字架の血潮により罪赦され、神の怒りから救われ、神の子とされ、祝福された永遠のいのちをいただきましょう。
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ロマ 10:17 ですから、信仰は聞くことから始まります。
聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
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新シリーズ
千年王国レジュメ(1)2017年9/9
Ⅰ.千年王国を信じる根拠 へ