結論:メッセージのゴールは、パウロがローマ教会を訪問したいと思った理由を理解し、そこから私たちの生活に適用すること。
1. 「私の福音」(32分30秒〜)
この言葉は、パウロの書簡の中に3度出てくる(ロマ2:16、16:25、2テモ2:8)。パウロは復活のイエス・キリストに出会った後、しばらく一人でこもっていた。それからパウロはエルサレムに行き、使徒たちと交わりをもち、自分が理解した啓示、福音の内容について話をして、使徒たちと何ら違いがないことを確認している。それは同じ神様から啓示を受けているからである。しかし、パウロは12使徒たちには啓示されていなかった真理を掴んだ。それが「私の福音」である。それをもってローマ教会に行って、ローマ教会が不足している点を補おうとした。
2. 特にパウロに与えられた2つの啓示(34分42秒〜)
1番目は「奥義」という言葉である。奥義とは旧約聖書には啓示されておらず、新約聖書になって初めて啓示された内容をいう。その一つがエペ3:6にある。
「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです」(エペ3:6)
これがパウロにのみ特別に啓示された内容である。パウロが奥義と言っているものは教会そのものではなく、「ユダヤ人と異邦人がひとりの人となる、そして彼らが共同相続人となること」が奥義である。共同相続人は、片一方が欠けていたら相続できない。彼らは、神様が用意してくださった永遠の命の約束、神様が与えてくださる天地を相続するという約束を相続する。イエス・キリストと共に、また、ユダヤ人と共に異邦人である私たちは、共同相続人となる。パウロは、ローマ教会の中にあったユダヤ人信者と異邦人信者の壁を取り除こうとした。その壁を取り除く秘訣は、あなたがたは共に一つになり、共に共同相続人になっているのだというこの奥義を伝えることである。だから、どちらが優位でどちらが劣位にあるという話ではない。本来祝福の約束はユダヤ人に与えられていたのに、異邦人が召されて、オリーブの木に野生種の枝が接木されたのである。だから異邦人の使徒であるパウロは、異邦人にそのことを、声を大にして言いたい。私たちはイエス・キリストを信じたときに、単に赦されただけではなく、将来犯すかもしれない罪も全て赦されていて、さらに復活の命が保証され、さらに新しくなった天と地をユダヤ人と共に、イエス・キリストと共に、相続するように召されたのである。これが奥義である。
2番目は、位置的真理(positional truth)である。これは、イエス・キリストを信じたときに、私たちはキリストの内にあって計り知れない祝福を受けているということである。
「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(ロマ6:11)
ここでのキーワードは、「キリスト・イエスにあって」である。これは英語の前置詞ではinである。In Christ Jesus. 私たちは、「あなたは死んだのだ、そして生きたのだ」とよく言う。洗礼式はあなたが死んで復活したことを表現していると言うが、それだけでは50点である。「あなたはイエス・キリストを信じてキリストにあって死んだ、キリストにあって生きている」と言うのが100点である。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ロマ6:23)
罪に仕えると給料がもらえるが、それが死である。しかし、神様は、キリスト・イエスにある人に対し、値なしにプレゼントとして永遠のいのちをくださる。パウロは、テクニカルターム(専門用語)として前置詞を使っている。「in Christ」「in Jesus」「in Jesus Christ」「in Christ Jesus」「in Him」「in whom」などがある。キリストを信じた人は、キリストのうちにあることによって、神との関係に置いて新しい位置に置かれているということ。これが位置的真理である。このことを神学的に展開しているのはパウロだけである。それはパウロが神様から特別な啓示を受けたからである。ここに私たちにとっての大きな祝福がある。
3. ロマ書の現代的意味(42分51秒〜)
(1)メシアニックジュー運動と異邦人教会の関係
世界中にユダヤ人が1200万人〜1300万人いる。そのうち半数以上が既にイスラエルに帰還している。この1200万〜1300万人のうちで、イエス・キリストを信じているユダヤ人は12万〜13万人、つまり1%と言われている。パウロは異邦人に対してユダヤ人と共に共同相続人となることを教えている。これはローマ教会内のユダヤ人信者と異邦人信者の間にある壁や緊張関係を取り払う真理になる。共同相続人というのは、吹雪の中で肌と肌を寄せ合って温めあう二人のようなものである。メシアニックジューが今生まれてきているということは、今の時代が聖書が預言している終わりの時代に近づいているということである。そして、異邦人教会がメシアニックジューを抱擁する、メシアニックジューが異邦人教会を抱擁することによって、神様の計画が成ってくる。両者は、神様の相続人になるために、互いに相手を必要としている。これが現代のメシアニックジュー運動を理解する鍵である。ロマ書9〜11章はそのことを中心に書かれてある。
(2)儒教的キリスト教からの解放
日本の教会でよく言われるのは、「あなたはイエス様を信じて洗礼を受けたので、過去の罪は赦された。だから、これからは頑張ろうね」というものである。これを儒教的キリスト教と呼ぶことができる。頑張りだけでやろうとするが、無理が来る、悩みが来る。しかし、今まで頑張れなかったからイエス様を信じる以外にないと決めたはずである。クリスチャンの希望、力はどこにあるかというと、私たちはキリストの内にある、ということである。私たちは、キリストの内にあって新しい存在となっているということ。だから、クリスチャンが自分を見るときに、十字架を通して自分を見なければならない。その時に、キリストの内にあることによって、神との関係が正常なものになっているということ、聖霊というお方の力を頂き全く新しい存在になっているということ、聖霊という方が内側から私を造り替えてくださることが明らかになってくる。クリスチャンというのは、超自然的な力に運ばれて、日々喜んで生きている人である。パウロは、共同相続人の奥義と、位置的真理をもって、ローマの教会を訪問しようとしている。
以上