本論
1. 感謝の人パウロ(9分46秒〜)
8節「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」
パウロは、この教会が存在していることを神様に感謝している。「イエス・キリストによって」がキーワードであるが、これはイエス・キリストによって教会が建てられたからである。だから、パウロの感謝も、イエス・キリストを通してされている。このローマの教会は、パウロだけでなく、他の使徒たちも建設に関わった教会ではない。ローマの教会は、ペンテコステの日にエルサレムに来ていたユダヤ人が、ペテロのメッセージを聞いて悔い改めてイエス・キリストを信じ、ローマに帰って作ったのである。あるいは、パリサイ派のユダヤ人からの迫害を受けたメシアニックジューがローマに行って伝道したとも言われている。あるいは彼らがローマに行って既に始まっていた伝道に参加して、さらに教会が成長したという可能性も考えられる。いずれにしても、最初はユダヤ人が中心の教会だった。しかし、パウロがロマ書を執筆した時点では、既に異邦人主体の教会になっていた。パウロにとって、こういう教会が存在することは驚きであり、感謝であった。自分が手を加えていないのに、そこに何かが出来上がっている。それはイエス・キリストがしておられるとしか思えない。ここにクリスチャンとしての成熟が見られる。神様は私を用いて働いてくださると同時に、神様は私なしでも働かれる。これがクリスチャンとしての謙遜である。パウロはこのことを覚えて、この教会があることを神様にイエス・キリストを通して感謝している。
感謝の理由は、彼らの信仰が広く知られるようになったからである。「全世界に」とあるが、これは当時知られていた世界という意味であり、主にローマ世界を指す。ユダヤ人信者にも、異邦人信者にも、教会に敵対的なユダヤ人や異邦人にも、このローマの教会の噂は聞こえている。ローマという都市はローマ帝国の中心であり、そこにキリストの教会がある。そして、パウロが設立に尽力したコリントの教会のようではなく、ローマの教会は評判が良かった。そのことにパウロは、「まず第一に」感謝している。感謝を第一にするのは、相手と心の絆を結ぶための手法である。パウロはこれをテクニックではなく、本当に心からしているので、心の絆が結ばれる。これはパウロの生き方が反映されている。1コリでさえも、冒頭に「感謝」という言葉が出ている。パウロは問題が多い教会のことを思う時でさえ、感謝の言葉が出てくる人物である。感謝の回数が増えていくのは、その人が霊的に、人格的に成長していくのと正比例する。
神様に感謝、神様に用いられていることに感謝、私が関係しなくても神様はご自分の業をなさることに感謝、お互いに感謝。ここからスタートするときに、心の絆が結ばれていく。
2. 祈りの人パウロ(9〜10節)(20分04秒〜)
9節「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、」
パウロは、この教会のために常に執りなしの祈りを捧げている、と言っている。ここで彼は、神様を証人にしている。なぜ神様を証人に呼べるかというと、それは本当にその通りだからである。「霊をもって仕えている」という訳は、新共同訳では「心から仕えている」となっている。パウロは、キリストの福音を宣べ伝えつつ、心から仕えているので、神様が証人になってくださる。
「私はあなたがたのことを思わぬ時はなく」という箇所は、新共同訳では「わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし」となっている。パウロはこのローマ教会を訪問したことはないが、噂はよく聞いている。パウロがこの教会のために祈っている理由は、この教会は良い教会であるが、まだ足りないところがあることを知っているからである。その足りないところと、彼がこの教会に訪問したいという理由が重なっている。
10節「いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。」
彼は、いつも自分の願いを神に申し上げている。この祈りは、昨日今日始まってものではなく、長期間継続して祈ってきた祈りである。そして、この祈りは、神の御心がなるようにという祈りである。使徒であるパウロは、神の代理人である。代理人は、派遣者の意図通りに動かなければならない。パウロは、神の御心によって道が開かれるまでは行かないし、動けない。これが神の代理人の使命である。
この箇所から私たちへの教訓がある。それはクリスチャンの一体感である。私たちは初対面であっても、クリスチャン同士ならすぐに親しくなることができる。それは、同じ神様を信じているからである。だから、会ったことがなくても、執りなしの祈りを捧げることができる。私たちは宣教師の話や、印刷物を通して、会ったことはなくても祈ることができる。それは、クリスチャンの祈りは、時間や空間を乗り越えて一つになることができるからである。まさに、このパウロの祈りは、クリスチャンの一体感というものを教えている。
3. 使命の人パウロ(11〜12節)(25分43秒〜)
11節「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです」
「御霊の賜物」とは、文脈上、使徒職の事である。「使徒」とは、教会に与えられた御霊の賜物である。パウロは自分が使徒として召された、そして神様からあることを啓示されている、それを分かち合いたいと思っている。「御霊の賜物を分ける」というのは、使徒職を行使することである。「強くしたい」(ギリシア語のステイリゾウ)とは、確立すること、建て上げることを言う。よって、パウロは、使徒としての役割を果たすことによって、ローマ教会を建て上げたいと願っている。使徒の役割は、教会の建て上げである。
「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」(エペ2:19〜20)
使徒は大体預言の賜物も持っているが、使徒と預言者が教会の土台だとパウロは言っている。パウロは使徒としてローマ教会の欠けを補って、土台を補強しようとしている。使徒の役割は、教会の土台となることである。そうした明確な使命意識をもって、パウロはローマ教会に行きたいと願っている。
ロマ書の先のほうに行くと、パウロがローマ教会に欠けているものがあると感じていたと分かる箇所がある。
「あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもっていくことと信じています」(ロマ15:29)
「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」(ロマ16:25 新共同訳)
ここで、「わたしの福音」という言葉が非常に重要である。福音とは、通常「神の福音」とか「イエス・キリストの福音」という言い方をするが、パウロはあえて「わたしの福音」という言葉を使っている。それは、パウロにのみ与えられている特別な啓示があるからである。パウロは自分だけに示された真理をローマ教会に伝えようとしているのである。それによってパウロは教会の土台を補強しようとしている。
12節「というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです」
これは謙遜なパウロの言葉である。この言葉により、パウロは自分がローマ教会の信徒たちよりも上だという印象を与えないようにしている。そして彼らの信仰や体験からも学びたいと言っているが、これがポイントである。クリスチャンは、互いの信仰から学び合い、励まし合うことができる。100人いたら100通りの救われ方があり、100通りの導きがある。だから、証を聞き、交わりを持つことが楽しいのである。クリスチャンは支配関係ではなく、互いに仕え合う。これこそが、キリストの教会の特徴である。だから、パウロは使命意識に満ちているが、行ってやるぞという姿勢ではなく、私にも教えてくださいと言っているわけである。