奈良王寺聖書フォーラム

ローマ人への手紙第4回まとめ

2019.10.28

カテゴリー:ロマ書まとめ

本論

1.「神の義」を宣言する器(14分49秒〜)

5節a「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。」

1)「私たち」という言葉

この文の主語は、「私たち」である。この「私たち」には、ローマの信者は含まれていない。何故なら、ローマの信者は使徒の務めを受けていないからである。この「私たち」が、パウロを含めた使徒たち全員を指している可能性はあるが、パウロ個人のことを示していると思われる。これは、ギリシア語ではよくある言葉の使い方であり、複数形を用いながら自分のことを言っているのである。これを編集的複数形といい、僭越な印象を相手に与えないために用いられる。つまり、パウロはへりくだっているのである。

パウロは「私たち」と言いながら自分のことを言っている。何故かというと、次の内容を見ていくとわかるが、パウロ自身に特に啓示されている話が出てくるからである。一般的に、「わたくしども」という言葉の「ども」は接尾語であり、「わたくしども」は単数・複数にかかわらず用いる自称のことである。つまり、自分、または自分の家族・仲間などをへりくだっていう言葉である。ここでパウロは、自分が語っている言葉が傲慢に聞こえないように、非常に注意しながら言葉を選んでいることが見て取れる。

 

2)「このキリストによって」

前回のメッセージで、キリストには神性と人間性を共に持っていることを確認した。この「よって(dia)」という言葉の第一義的意味は「通して」である。父なる神の御業が私たちに届けられるためにはキリストが必要である。キリストが管であり、手段であり、仲介者である。旧約聖書においては、神と民をつなぐ仲介者は大祭司であった。よって、ユダヤ人たちは大祭司なしに神とつながるということは考えられなかった。しかし、日本人は仲介者の必要性を感じないため、日本人の多くは、神は信じるが、何故キリストを信じなければならないのか、と思っている。それは、彼らが認識している神というお方を地上レベルに引き下げているからである。また彼らは、自分が土足で聖なる場所に近づけるような誤解を持っているからである。

私たちは神を神として聖書に啓示されているとおりに受け取ったならば、そのままでは神に近づくことはできないという、仲介者の必要性を感じないわけにはいかない。またそれは、私たちクリスチャンの体験でもある。イエス・キリストというお方を信じた時に天が開けたようになって、父なる神と創造主なるお方と繋がるという経験を私たちはする。よって、聖書の啓示の面においても、体験の面においても、「キリストを通して」という言葉は私たちにとって真理である。 私たちが受けるすべてのよきものは、キリストを通して与えられる。

 

3)パウロがキリストを通して受けたもの

パウロはキリストを通して「恵み」と「使徒の務め」を受けたと言っている。この「恵み(カリス)」とは、罪人に与えられた神の憐れみ、一方的な愛のことである。そして、私たちのような者が神の愛に触れて、影響を受け、信仰による救いにまで導かれるのである。パウロも他のクリスチャンと同じように、そのような一般的な意味での恵みを受けた。しかし、ここでパウロが言っている恵みはさらにそれ以上である。それは、使徒としての使命を果たすための力を受けた、ということである。その使徒職を果たす力そのものが恵みである。

使徒の務めとは、使徒職のことである。パウロにとっては、恵みを受けたということが使徒職の土台である。恵みがなければ使徒職は務まらない。使徒は神の代理人(シャリアハ)である。よって、パウロは神の代理人として語るのである。神自身が語っておられるかのように語ること、これが使徒職の内容である。それをパウロは神様から受けたのである。恵みと使命が表裏一体の関係にある。

パリサイ派の学びの中心は、暗記である。つまり、自分が仕えている師の教えをそのまま暗記することがパリサイ的学びである。そして、自分の師の名によって、師から受けたことをそのまま次の世代に伝える。これと日本的宗教観との違いは明白である。日本では壮年男性たち(特に団塊の世代)が宗教を軽視する傾向がある。多くの日本人は「宗教とは人間の知能による発明であり、人々に受け入れられた時、それが広まる」と考えている。これは日本で広まっている、オリジナルが加工された日本的な仏教を見た時に正しいと言える。多くの日本人の宗教観は、キリスト教以外の宗教においては正しい。日本の書店で売られているキリスト教について書かれてある本のほぼ100%が、自由主義神学や聖書そのものを信じていない人たちが聖書について書いた本である。つまり、日本の他の宗教のあり方と変わらないようなものが、一般の人たちが書店で買う本の内容である。

私たちがここで学んでいる内容はそれとは全く違う内容である。それは、元パリサイ派の訓練を受けたパウロが、かつては先生のいうことを一滴も漏らさないように学んでいた彼が、今度は霊的パリサイ人になって、自分の先生であり主であるイエス・キリストから教えられたことを、一滴も漏らさないようにそのまま私たちに伝えようとしている。これがローマ人への手紙の内容なのである。そして、これがヘブル的な意味で使徒職を理解するポイントである。

恵みとは、神から受けた権威のことでもある。恵みと責務とは表裏一体である。恵み(権威)なき責務はなく、責務なき恵み(権威)もない。つまり、私たちが神様から大きな祝福を受けたとするならば、そこには責務が伴っているということである。あるいは、神様が私たちをあるポジションに導かれたとするならば、それを果たすに相応しい権威が恵みによって与えられる。これは人生における真理であり、クリスチャン生活にそのまま当てはまるものである。自分自身のポジションがいかに責務を伴ったものであるかということを考えなければならない。私たちがこのように1節1節ローマ人への手紙の内容を学んでいることの恵みと、それに伴う責務をどう活かしていくか。つまり、パウロが一滴も漏らさずにキリストから聞いた福音をそのまま理解したならば、それをどう用いるかという責務が伴ってくる。これがクリスチャン生活の内容である。

 

2.神の義の内容(32分57秒)

5節b「それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」

1)「信仰の従順をもたらすため」

一言で言うと、かつてパリサイ派のパウロがやっていた律法による義を求める熱心さではない。別の原則を彼はもたらそうとしている。ユダヤ人は律法に熱心であり、パウロもかつてはそうだった。「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません」(ロマ10:2)とあるとおり、ユダヤ人は神の御心に関する正しい理解のない熱心さを持っている。異端と言われている人々は熱心であるが、誠実に間違っている。ユダヤ人もかつてのパウロも同じである。

「信仰の従順」とは、信仰から出てくる従順のことであり、福音を信じることである。信仰の従順がなければ、福音を信じることはありえない。つまり、イエス・キリストが私の救い主であると言うグッドニュースを信じることこそ、信仰の従順である。これはパリサイ的ユダヤ教とは異質な原理である。福音を本当に信じたならば、結果として、神への従順が生まれてくる。信じて神に従順に生きると言うから律法的になるのである。福音を徹底的に100%信じること、その結果、気が付いたら神への従順が生まれてきているのである。よって、ここでの「信仰の従順をもたらす」というのは、「福音を信じる信仰をもたらす」ということである。

 

2)「あらゆる国の人々の中に」

新改訳のこの訳は曖昧である。新共同訳、口語訳共に「異邦人」と訳しており、これがピッタリである。「あらゆる異邦人(エスノス)に」信仰の従順をもたらす、という風に訳すべきである。パウロは異邦人の使徒として召されているから、彼の頭の中には異邦人のことがある。そして、当時のローマの教会にユダヤ人信者と異邦人信者がいたことを意識して、彼はこれを書いている。パウロのメッセージは二重の意味で革命的である。一つは、律法による義ではなく、信仰の従順を説いたこと。もう一つは、ユダヤ人だけではなく、異邦人も救いに招かれていると説いたこと。この二つの点において、パウロのメッセージは当時のユダヤ人にとっては画期的・革命的なものであった。

 

3)「御名のために」

異邦人のために信仰の従順をもたらすとパウロは言った。そのゴールは、御名のために、である。新改訳の訳は間違っていないが直訳しているだけで物足りない。新共同訳の「その御名を広めて」も弱い。パウロの意図を汲み取って正しく訳すと、「神の栄誉と栄光のために」となる。これが「神の義」の内容である。出エジプト記の文脈で書かれている旧約聖書の箇所に、ここと同じ使われ方をしている聖句がある。

 

「しかし主は、御名のために彼らを救われた。それは、ご自分の力を知らせるためだった」(詩106:8)

ここの「御名のために」とは、「ご自分の栄誉のために」という意味である。

「しかし、わたしはわたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった」(エゼ20:14)

神様は、「わたしの名のために」、つまり、「わたしの名誉のために」これをした。

 

旧約聖書の歴史は、イスラエルの民が地上における神の代理人となるという使命である。イスラエルの民は異邦人の中にあって神の栄誉を示すように召された。しかし、彼らは神の代理人としての役割を果たすことができなかった。ここでのパウロの自己認識は、イスラエルの民が失敗した点において、彼は神の代理人として召され、立とうとしている、というものである。パウロの役割は、異邦人の中にあって神の栄誉を示すことである。これからパウロが伝えようとしていることは、神がいかにして妥協なしに異邦人まで救いうるかというテーマである。神はイスラエルだけではなく、一切の妥協なしに異邦人をどう救われるか、そこに神の義があり、そこに神の名誉がかかっているとパウロは言っている。それが「御名のために」という言葉が持っている意味である。

 

3.「神の義」に与った人々(42分16秒〜)

1)「あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です」(6節)

6節から、ローマの信者たちも、同じ福音を信じて救われたということが分かる。私たちも同じ福音を信じて救われている。イエス・キリストによってこの世から呼び出されたのである。6節にはパウロの三段論法がある。①パウロは異邦人に対して使徒としての権威と責任を与えられた。②あなたがた(ローマの信者)もまた、異邦人の中にあってイエス・キリストによって召された。③従って、私にはあなたがたを導く権威と責任がある。これがパウロの三段論法である。これによってパウロは、ローマのクリスチャンたちとの間で心の絆を結ぼうとしている。

 

2)「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ」(7節a)

「すべての」とは、ユダヤ人信者も異邦人信者も、男も女も、富んだ者も貧しい者も、奴隷も自由人も、である。彼らは「神に愛されている人々」である。それは、彼らを愛する理由があるからでもなく、彼らが従順だからでもない。彼らは、「神が愛である」という神の性質のゆえに愛されているのである。それをそのまま信じることが私たちの使命である。

聖徒という言葉は3つの使用法がある。それぞれ、地域教会の会員(使9:32、41)、普遍的教会の会員(1コリ1:2)、信者個人(エペ1:18、コロ1:12、黙13:10)である。聖徒とは欠陥がない(一切罪がない)という意味ではなく、「選び分けられた」、「神の御用のために選ばれた」という意味である。つまり、この世から呼び出された人が聖徒である。問題だらけだったコリント教会の信者に対してもパウロは「聖徒」と呼んでいた。

 

3)「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように」(7節b)
これはパウロの手紙の典型的パターンであるが、伝統的なユダヤ人のあいさつの形式である。「恵み」と「平安(シャローム)」という二つの言葉の中に、霊的・肉体的祝福がすべて詰まっている。パウロはこの挨拶によって、この手紙の受け手が、神が用意されたあらゆる祝福を受け取ってくださるようにと祝福している。「恵み」の作者は、父なる神であり、「平安」をもたらしたのは主イエス・キリストである。だから、「父なる神と主イエス・キリストから」とパウロは言っている。キリストは、神と人との和解をもたらし、ユダヤ人と異邦人の和解をもたらし、人と人の和解をもたらしてくださったお方である。ここにシャロームの源泉がある。

 

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