八つの契約 レジュメ(16)2020年6/13
モーセの律法が与えられた目的 つづき 異邦人との関係、罪との関係
2002年フルクテンバウム博士セミナー『聖書の八つの契約』(テキスト)を学んでいます。
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フルクテンバウム博士のメッセージを中川健一牧師がわかり易く通訳してくださったセミナーの内容を基に作成しています。
以下、青色の聖句はセミナーでとりあげられた聖句です。
(但し、ここでは新改訳2017を載せています)
紫色の聖句は参考聖句です。
黒色の文章がセミナーの説明文です。
緑色の文章はHP編者による補足説明です。
茶色の文章はDr.Arnold G. Fruchtenbaum『The Eight Covenants of the Bible』 からの補足説明です。
ダークアジュール色の文章はフルクテンバウム博士著『イスラエル学-組織神学の失われた環-』中川健一監訳/佐野剛史訳(紙版) (デジタル版) からの補足説明です。
興味のあるところはリンク先もご覧になってみてください。
Ⅰ.エデン契約-条件付き契約-人類全般と
Ⅱ.アダム契約-無条件契約 -人類全般と
Ⅲ.ノア契約-無条件契約 -人類全般と
Ⅳ.アブラハム契約-無条件契約-イスラエルと
Ⅴ.モーセ契約-条件付き契約 -イスラエルと
Ⅵ.パレスチナ契約-無条件契約-イスラエルと
Ⅶ.ダビデ契約-無条件契約 -イスラエルと
Ⅷ.新しい契約-無条件契約 -イスラエルと
Ⅴ.モーセ契約 5/7
THE MOSAIC COVENANT
(セミナーテキスト14ページ)
追加テキストの4ページ
モーセの律法が与えられている目的(2/2)
The Purposes of the Law
5/9
3.異邦人
との関係でこの律法が与えられている目的は何なのか
一つ重要な理由があります。
これは異邦人とユダヤ人を仕切る
「隔ての中垣」になります。
エペソ人への手紙2:11~16
エペ 2:11 ですから、思い出してください。
あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。
人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、2:12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外されalienated from the commonwealth of Israel、約束の契約については他国人strangers from the covenants of the promiseで、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。
2:13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。
キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁the middle wall of partitionである敵意を打ち壊し、2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。
こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人one new man(普遍的教会)に造り上げて平和を実現し、2:16 二つのもの(ユダヤ人信者と異邦人信者)を一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
律法が
異邦人をユダヤ人から区別する
「隔ての中垣」(へだてのなかがき 文語訳)
になります。
ですから、このモーセの律法が有効であり、その「隔ての中垣」がそこに立ちはだかっている限りは、異邦人は二つの意味でユダヤ人の契約に与ることができないのです。
(1)
契約について異邦人は他国人
約束の契約については他国人
(2)
異邦人は契約からは遠く離れているので、その契約の祝福を受けとることができない状態にある
イスラエルの民から除外され
では異邦人はイスラエルに与えられた契約の祝福を自らのものにするためには何が起こらなければならないのでしょうか。
その時代では
モーセの律法に基づいて運営されているユダヤ教に改宗しない限りは異邦人はその契約の祝福に与ることができませんでした。
もちろんユダヤ教に改宗するということは割礼を身に受けるということです。
また、モーセの律法のもとにあるユダヤ人たちがしていたように、ユダヤ教に改宗した異邦人はやはりモーセの律法に従って生きることをしなければいけませんでした。
ですから異邦人が異邦人のままで割礼を受けないままで生活している限りはイスラエルに与えられた契約の祝福を受けることができないのです。
旧約時代の異邦人が祝福を受ける条件:
割礼を受け
ユダヤ教に改宗し
ユダヤ人のように(モーセの律法の義務を負い)
生きること
4.罪
と律法の関係
ここでは4つの目的があります。
中心的な聖句
ローマ人への手紙7:7~8:4
ロマ 7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。
律法は罪なのでしょうか。
決してそんなことはありません。
むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。
実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。
7:8 しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。
律法がなければ、罪は死んだものです。
7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、7:10 私は死にました。
それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。
7:11 罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。
7:12 ですから、律法は聖なるものです。
また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。
7:13 それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。
決してそんなことはありません。
むしろ、罪がそれをもたらしたのです。
罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。
罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。
7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。
しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。
7:15 私には、自分のしていることが分かりません。
自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
7:16 自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。
7:17 ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。
7:18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。
私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
7:21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。
7:22 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、7:23 私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。
7:24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。
こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。
神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
8:4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
6/9
(1)
律法は罪が何であるかを教えるために与えられた
ローマ人への手紙3:19~20
ロマ 3:19 私たちは知っています。
律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。
それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
3:20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。
律法を通して生じるのは罪の意識です。
律法をとおしての義認はないこと、律法によってはユダヤ人は誰も義と認められないことをパウロは強調しました。
ガラテヤ人への手紙3:19
ガラ 3:19 それでは、律法とは何でしょうか。
それは、約束を受けたこの子孫(キリスト)が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。
ローマ人への手紙7:7
ロマ 7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。
律法は罪なのでしょうか。
決してそんなことはありません。
むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。
実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。
パウロは、律法が与えられるまでは私たちは罪を知ることがなかった
律法によって罪がはっきりと提示されたんだと言っています。
律法が与えられた目的は罪とは何かを明確に示すためです。
パウロは罪を知るために律法は与えられたことを再び強調します。
パウロは律法を調べ、それを知ることによって、律法の基準に照らして自分がその基準に満たしていない罪の状態にあることを知ったのでした。
7/9
(2)
律法がきた時にもっと罪を犯したいという気持ちになってしまう
それを書いてあるのが
ローマ人への手紙4:15
ロマ 4:15 実際、律法は御怒りを招くものです。
律法のないところには違反transgressionもありません。
ローマ人への手紙の5:20
ロマ 5:20 律法が入って来たのは、違反the trespassが増し加わるためでした。
しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
律法は違反が極めて明確になるように与えられたとあります。
人はどのようにして罪を犯したことを知るのか、何が許され、何が許されないかを律法が詳しく述べたので、人はそれを知るのです。
613の命令による律法は罪を明らかにしました。
パウロは律法はさらに一つの罪を実際につくりに、罪をもたらすためにやってきたと述べます。
ローマ人への手紙の7:7
7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。
律法は罪なのでしょうか。
決してそんなことはありません。
むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。
実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。
パウロは、律法が与えられたために彼の内側に罪を犯したいという思いが生まれてきたと言っています。
ローマ人への手紙7:8~11(14)
ロマ 7:8 しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。
律法がなければ、罪は死んだものです。
7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、7:10 私は死にました。
それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。
7:11 罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。
7:12 ですから、律法は聖なるものです。
また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。
7:13 それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。
決してそんなことはありません。
むしろ、罪がそれをもたらしたのです。
罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。
罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。
7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。
しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。
罪を犯すまいと努力をすればするほど内側にもっと罪を犯したいという思いが与えられてくると語っています。
第Ⅰコリント15:56
Ⅰコリ 15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
The sting of death is sin; and the power of sin is the law:
どうして私たちの内側に罪を犯したいという思いが働くのかが説明されてあります。
罪の力は律法ですという表現があります。
私たちの罪の性質はその罪の性質が働き出すための何かの土台がなければいけないのです。
律法が与えられたということが土台でありきっかけとなって罪の性質が動き出すのです。
何々してはいけないという規定があって、それを否定するものとして、罪の性質が働き始めるのです。
例)
律法が「こうせよ」と言ったら、即座に罪の性質は「ノー、したくない」と反応する
律法が「これをしてはいけない」と言った瞬間に、罪の性質は「イエス、やりたいんだ」と叫びだす
律法が与えられた結果、それへの応答として罪の性質がより多くの罪を犯したいと思うようになる
ですからユダヤ人にとってはこの律法が与えられ、それを守ろうとすればするほど悲惨な結果を招き、律法を行うことによっては義とされないということが明確にわかってくるわけです。
基本的にパウロが教えたことは、罪の性質は活動の土台を必要とするが、罪の性質は活動の土台として律法を使うのです。
パウロは「律法のないところには違反もありません」と言った時
律法が与えられる前には罪が全くなかったと言っているわけではもちろんありません。
「違反transgression」という用語はひとつの罪の型であり、特定の命令に対する違反です。
人は律法が与えられる前から罪人でしたが
律法が与えられるまでは律法の違反者ではありませんでした。
しかしひとたび律法が与えられると個々人をこれらの命令に違反し一層罪を犯させるように、罪の性質は活動の土台をもつこととなったのです。
8/9
(3)
罪に関してその結果
律法を行うことによっては神を喜ばせ自らの救いを達成することは不可能だという知識にユダヤ人は至る
それがローマ人への手紙の7:12~25(14~25)に書かれてある内容です。
ロマ 7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。
しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。
7:15 私には、自分のしていることが分かりません。
自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
7:16 自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。
7:17 ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。
7:18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。
私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
7:21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。
7:22 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、7:23 私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。
7:24 私は本当にみじめな人間です。
だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。
こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
(4)
ですから律法を行うというわざではなく
信仰のみによってしか救われないという真理に律法は人を導く
救いを得るためには
自らのわざを積み上げていくという方法ではなくて
神を信頼するという信仰による方法しかないということがこれでわかります。
9/9
それを書いてあるのがローマ人への手紙8:1~4
ロマ 8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。
神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
8:4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
ガラテヤ人への手紙3:24~25
ガラ 3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。
それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
律法の要求というのは
既に救われた人がいかに生きるべきかを教えるものであり
律法を行うことによって救われるのではないということがわかってきます。
律法の最終目的はメシア(救い主)を信じる救いの信仰を人にもたらすことでした。
(詳しくは中川健一著『ディスペンセーショナリズムQ&A』(書籍のみ1528円)(CD5枚組書籍付き3000円) 13「律法の時代」とは、どのようなものか 21シナイ契約とはどのようなものか をどうぞ。)
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Ⅴ.モーセ契約(6/7) D.モーセ契約のディスペンセーション