前橋聖書フォーラム

2017年12月23日 クリスマス・メッセージ

2017.12.23

カテゴリー:お知らせ, メッセージ

本日、前橋聖書フォーラムでは「Youth Christmas Festa MBF 2017 Open!」と題して、クリスマス会を持ちました。

メンバーが運営している塾の生徒である中高生10名以上も交えて、総勢20名以上が集まりました。プロのヴィオラ奏者やゴスペルシンガーの兄弟姉妹による素晴らしい特別賛美もあり、素晴らしい礼拝となったことを主に感謝します。

クリスマス会では伝道メッセージも語られました。原稿は以下の通りです。(PDFファイルの方も内容は同じです。)

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前橋聖書フォーラム クリスマス会伝道メッセージ
(ルカによる福音書2章1〜7節より)

今日皆さんは、クリスマスをお祝いする、それもキリスト教徒(クリスチャン)である私たちと一緒にクリスマスをお祝いする、ということで集まってくださいました。本当にありがとうございます。それで私は、クリスマスについて20分ほどお話をするようにと言われております。何をお話しようか色々と考えたのですが、ここでは直球で「クリスマスの本当の意味」についてお話したいと思います。

クリスマス、という言葉は、英語で“Christmas”と書きますね。“Christ”というのは、もちろんイエス・キリストの「キリスト」で、救い主という意味の「クリストス」というギリシャ語から来ています。イエスというのは名前で、「キリスト」というのは「救い主」という意味の称号なのです。そして“mas”とは、ラテン語の「ミサ」から来ていて、これは「礼拝」という意味です。ですので、「キリスト(救い主)を礼拝する」というのが「クリスマス」という言葉の元々の意味なのです。

つまり、クリスマスとは元々、イエス・キリストのことで何かお祝いをする日なのですね。キリストの何をお祝いする日なのか。有名な話ですが、クリスマスとはイエス・キリストが生れたことを記念する日です。でも、私たちクリスチャンは単に「イエス・キリスト様、Happy Birthday!」ということでクリスマスをお祝いしているかというと、そうではありません。私たちクリスチャンは、宇宙をお創りになった神様が、2,000年前、人と同じ体を持って、イエスというひとりのユダヤ人として来られた──そのことを覚えてクリスマスをお祝いしているのです。

神が人となった。最初からおかしな話が始まったなぁ、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。そうなのです、今日これから見ていきますけど、イエスという人については「おかしな話」ばかりなのです。イエスは、人類の歴史の中でもそれだけ特別な人なのです。彼は自分が人として来た神であると宣言して、「私が道であり、真理なのです」とまで言いました。自分という道を通してしか神に近づくことはできない、なぜなら自分自身が神だから、というのですね。

だから2千年前の当時、人々は「イエスはその通り、神だ」という意見と、「イエスはとんでもない詐欺師だ」という意見に二分されました。でも、「イエスはその通り、神が人として来られた方だ」という信じる人が、2千年後の今でも、世界に30億人いると言われています(実際はもうちょっと少ないとは思いますが)。私もそのひとりなのです。本当は、キリスト教の家に生まれたわけでもない私がどうやって30億人のひとりになったのか、そういう話もしたいのですが、今日は時間の関係でできません。興味がある人は、あとでお話しましょう。

さて、今も世界で30億人が、このクリスマス、イエスという人のことでお祝いをしています。そこで今日は限られた時間の中で、このイエスという人がどのようにして生まれたのか、お話させていただきたいと思います。そして大切なのは、イエスという人がなぜ生まれたのか──つまり、なぜ神はイエスという人となってこの世に来られたのか、ということです。これを今日のゴールとして、これからお話させていただきたいと思います。

 

最初に、聖書の中の「ルカの福音書」という本の一部を読ませていただきました。これを書いたルカという人は、ローマ帝国の偉い人に、イエスの人生がどういうものであったかという記録を提出するために、この本を書きました。つまり、報告書ですね。ローマ帝国というのは、世界史の中で最大の帝国です。イタリアだけではなくて、アフリカやギリシャ、またイエスが生まれたイスラエルも含む、中東のほとんども支配していたのです。ルカがこの本を書いた当時、ローマ帝国の中で、イエスこそ救い主(キリスト)だと信じるキリスト教徒が急激に増えていました。ローマの政治家にも、キリスト教に興味を持つ人は増えていました。ルカがこの報告書を提出したのは、そういう政治家の一人だったのかもしれません。

ルカはこう言っています。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」アウグストゥスという人は、ローマ帝国の初代皇帝です。この人は莫大な領土を治めるために、各地で住民登録をせよ、という命令を出しました。税金を取るためです。登録をさせて住民の数が分かれば、国に必要なお金を集めるためには、一人ひとりから幾ら税金を取ればいいかということを決められます。アウグストゥスという人は大変頭のいい政治家だったのです。それにしても、ルカはなぜわざわざこういう堅苦しい書き出しで、クリスマスの物語を始めているのでしょうか。それは、これからの物語が、歴史的な事実だということを強調するためです。思い出してください。これは、ローマ帝国の中で影響が大きくなっているキリスト教の教祖イエスがどのように生まれ、行動したかということを記録した、ローマの政治家に提出する報告書なのです。

人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」とあります。この時代、住民登録のためには本籍地へ移動しなければなりませんでした。その中に、ヨセフとマリアというユダヤ人の夫婦がいました。彼らはイスラエルの北、ガリラヤという地方に住んでいたのですが、本籍地は南の方、ベツレヘムという町にありました。このベツレヘムという町(というか、村です)が、「ダビデの町」と言われています。ダビデというのは、イエスが生まれる1,000年ほど前にいた、ユダヤ人の王です。ユダヤ人の王の中でも、最も偉大な王だったと言われています。そのダビデの故郷がベツレヘムという町だったので、そこが「ダビデの町」と言われているのです。実は、ヨセフとマリアは二人とも、ダビデの子孫でした。だから、本籍がベツレヘムにあったのです。

しかし、妻のマリアのお腹には男の子がいました。実はこの報告書の前の方を読むと、マリアはまだ処女だったのに、神の力によって男の子を身ごもったのだと書かれています。これまたあり得ない話に思えます。普通、政府に提出する報告書なら、こんな話省くでしょう。でも、ルカはよく調べ、関係者に聞いて回った結果、これが歴史的事実で、しかもイエスの生涯を始める上では絶対に必要だと判断して、こんな話でも報告書に載せたのです。

さて、結局マリアは旅先のベツレヘムで男の子を産みました。これは、実は凄いことなのです。イエスが産まれる800年ほど前、ミカというユダヤ人が、こういう神様の約束を伝えていました。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」これはつまり、ベツレヘムから救い主が来る、ということです。しかも、「ユダの氏族」から出ると言われています。ダビデ王は、ユダ族という部族の出身でした。だからミカの言葉を要約すると、「ベツレヘムという町で、ダビデの子孫として救い主が産まれる」ということになります。まさにイエスと「完全に一致」です。ミカがこう言ってから800年後、本当にこれが実現してしまったのですね。ミカの言葉がイエスより前の時代に書かれたことは歴史的に証明されていますし、イエスがベツレヘムで産まれたということはルカが歴史的事実だと報告しています。ルカがこれを書いた当時、イエスを直接知る人々が生きていましたし、同じ世代でキリスト教に反対する人々もまだ生きていました。だからあからさまな嘘を書けば、「それは事実じゃない!」と物凄い反対にあうはずです。でもルカは、イエスがベツレヘムで産まれたと報告している。だから、この記録には凄く信憑性があります。このように、大昔の神様の約束が実現して、救い主が本当に来たのだということが、キリスト教の中心テーマなのです。

さて、産まれた赤ちゃんが寝かされたのは、「飼い葉桶」だったと言われています。そう言われると、干し草が詰まった木の箱に赤ちゃんが毛布に包まれて寝ている平和な光景が浮かんできます。しかし、実際はもっと過酷な環境でした。ここは洞窟です。当時、この地方に住んでいる人々は、洞窟で実際に暮らしたり、洞窟を家畜小屋にしていたりしました。真っ暗な洞窟、しかも家畜がいるような洞窟で、赤ん坊を産んで、その赤ん坊を寝かせておくのです。今のように衛生環境が整った時代からは考えられないほど、不潔です。こんな環境だと、出産するお母さんも、産まれてくる赤ちゃんも、命がけです。イエスという人は、そんな過酷な環境の中で産まれたのです。

しかも、ここで赤ちゃんを包んでいる布ですが、この布は、墓に入れる死体を包むための布だったかもしれないのです。当時、洞窟は墓にも使われていました。墓として使う洞窟には、死体を包むための布も用意されてあったのです。イエスが産まれた場所が墓じゃなかったとしても、そこで用意されているような布は、ふかふかの毛布ではなくて、死体を包むための布と大差ない貧相なものだったと思います。

 

いかがでしょう。今も世界で30億人が神だと信じているというイエスは、こんな貧しい環境で産まれてきたのです。しかも、死体に使うような布に包まれているという姿は、神がイエスという人として来られた目的を暗示しているようでもあります。その目的とは、死ぬことです。私たち堕落した罪深い人間のために、死ぬことです。

聖書では、「罪」という言葉はすごく重い意味を持っています。単に法律を犯した──万引きしたとか、人を殺したとか、そういう意味ではないのです。聖書が伝えている神様は、完全に正義で、完全に愛である、そういうお方です。完全に正義なのですから、間違ったところがひとつもないのです。そういう神様から見れば、私たちが実際にものを盗まなくても何か盗みたいなと思っただけで、また実際に殺人をしていなくても誰かに「死ね」などと思っただけで、完全な正しさからは外れます。

だから、聖書は、「罪を犯していない正しい人は、一人もいない」と言うのです。私は中学生の時、最初は神など信じていませんでしたが、もし聖書が言う通りの神がいて、自分の行動を全て見ていたら……と思うと、そう意識すればするほど、自分の行動が恥ずかしいものに思えてきて、怖くなりました。意識すればするほど、自分が悪い人間に思えてきたのです。

では罪人はどうなるのか。聖書は、「罪人は死ぬ」と教えています。聖書で言う「死」とは、体が死ぬという意味と、神から断絶するという意味があります。絶対的に正しい神と、正しくない罪人が相容れないのは当然ですね。では、神との断絶とは何を意味するのでしょう。それは、永遠の苦しみです。神は正義で、愛で、光なのだと聖書は教えています。ではそこから断絶されれば……正しさなどない、愛などない、光などない世界です。それは苦しみです。でも、私たちは罪人です。罪人がそういう苦しみから救われるには、どうしたらいいというのですか。

そういう絶望の世界にいる私たちを救うために、神様は手を差し伸べてくださいました。いや、差し伸べてくださるどころか、自分が卑しい姿になって、人間の世界に来られたのです。私たち人間の身代わりとして、十字架で死ぬために来られたのです。聖書の別の所には、神が罪人に下される刑罰も書かれています。十字架刑というのは、そういう刑罰を全て満たすような、歴史の中で最も残酷な処刑方法のひとつでした。本来は私たち自身が、十字架刑のような罰を受けるべきなのです。でも神は私たちを愛しておられるが故に、ご自分で人となって、その罰を受けてくださった。これが、聖書のメッセージなのです。

先ほど出て来たミカという人と同じ時代のユダヤ人で、イザヤという人がいます。この人は、イエスが私たちの罪のために死ぬのだ、という約束を伝えています。それを読むと、イエスは「さげすまれ、人々からのけものにされ」た「悲しみの人」で、「私たちの痛みを担った」と書いてあります。

 彼が担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。
 彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの咎のためであった
 彼の受けた懲らしめによって
 わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

ここに書かれているのは、人々はそれぞれ自分勝手に振る舞って、イエスを馬鹿にして痛めつけていたのに、イエスはその人々が負うべき罰を背負って死んだのだということです。この約束の通りに、神はイエスという人となって来て、私たちの身代わりとして死んでくださったのです。

それだけではありません。イエスは死んで、三日目に復活しました。またもやとんでもない話ですが、これもルカの報告書に出てくる話です。でも、復活はどうしても必要だったのです。神様が死んでそれっきりだったら、誰が私たちを永遠の苦しみから助けてくれるのでしょうか。惨めな姿でお生まれになったイエスは、本当に惨めな姿で死なれました。しかし、復活して、今も生きて、私たちに救いの手を差し伸べてくださっているというのです。そして彼は、私があなたの身代わりに罰を受けたのだ、このメッセージを信じてくれ、そうすればあなたは永遠の苦しみから救われるのだ! と、今も私たちに語りかけているというのです。これが、クリスマスの本当のメッセージなのです。

 

日本では、毎年毎年クリスマスが巡ってくる中でも、こうやってクリスマスの本当のメッセージを聞いて過ごすというのはとても貴重なものです。この2017年も、世間でも大変辛い、人間の醜さが表れているようなニュースがたくさんありました。個人的にも、自分は本当に駄目だな、醜く、惨めで、酷い嫌な人間なのだなと思わされることがたくさんありました。本当のクリスマスというのは、そういうことを噛みしめつつ、でも神がイエスという人となって、私たちの身代わりに死んでくださったのだ、そしてそれを信じることによって、私たちは救われて心に安らぎを持つことができるのだ、という喜びを味わう日なのです。

 

前橋聖書フォーラム

代表:天笠 健一

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