前橋聖書フォーラムは、2017年10月31日(火)をもって開所から2周年を迎えます。
それを記念して、今日は前橋聖書フォーラム設立の基礎に立ち返るため、「今、ヘブル的視点で聖書を学ぶ意味」と題してテモテへの手紙第二3:14–17からメッセージが語られました。
以下のPDFファイルには、メッセージの原稿に一部加筆・補足したものです。また、メッセージ中で引用した文献や、参考にした文献も示しています。
メッセージの原稿は、以下の通りです。
今、ヘブル的視点で聖書を学ぶ意味
前橋聖書フォーラムは、2015年10月31日に開所となりました。次の火曜日で、開所から2周年を迎えます。ここまで私たちの学びと交わりが守られてきたことに、神の恵みを感じております。
さて、私は以前、クリスチャンのスモールグループに関するレクチャーを受けさせていただいたことがあります。そのレクチャーで教えられたことのひとつは、「設立目的を見失ったグループは、自然分解してしまう」ということでした。グループの目的を確認することが重要だ、と。だから私たちも、この機会に改めて、この集いの出発点を見つめ直したいと思います。私たちが参加している「聖書フォーラム運動」がどのような理念に立っていて、前橋聖書フォーラムは何を目的として始まったのかを再確認していきたいのです。
私たちは、聖書フォーラム運動に参加しています。聖書フォーラムとは、「ともに聖書を学び、教え合うホームチャーチやスモールグループのネットワークです」。そして、聖書フォーラム運動の基本理念は「自立と共生」というものです。ちなみに、私たちはこれまで、ヨハネの手紙を通してこれを学んできたといっていいでしょう。この手紙から、「自分たちの救いの確信を得る」という「自立」と、「互いに愛し合う」という「共生」を学んだのです。
さて、「共生」のための「土台」として定められていることが3つあります。その中でも今回注目したいのは、「ユダヤ的視点による聖書解釈」です。これを、私たちは「ヘブル的視点による聖書解釈」と呼ぶこともあります。では、「ユダヤ的/ヘブル的視点による聖書解釈」とは何でしょうか。聖書は、基本的にはユダヤ人によって書かれました。「聖書は誤りなき神の啓示の書」ですが、その啓示の受け取り手はユダヤ人です。聖書は人間の著者を通して神がお与えになったものですから、私たちは聖書を読むとき、普通の本と同じように、著者が伝えようとしていることを探りながら読む必要があります。著者の意図を探るためには、その書が書かれた時代背景や文化的な背景を知ることが重要です。ですから、聖書の著者が古代のユダヤ人であるならば、私たちは聖書を読むとき、彼らの生きていた時代や文化などを考慮して読まなければなりません。これが、「ユダヤ的/ヘブル的視点から聖書を読む」ということで、何か特別な読み方というわけではないのです。
もうひとつ、私たちが大切にしているのは、聖書が誤りなき神の言葉であるなら、聖書に記されていることは「字義通り」に読まなければならない、ということです。字義通りに聖書を読むとは、たとえば歴史的な記録は記録として文字通りに、また比喩や象徴を使って表現されている文章は比喩的/象徴的に読む、ということです。これもまた、特別な読み方ではありません。
私たちが聖書をヘブル的視点から字義通りに読むとき、著者の意図と、それを通して神が伝えようとしておられるメッセージを受け取り、受け取った真理を、日々の生活に豊かに適用していくことができるのです。私たち前橋聖書フォーラムは、このような「ヘブル的視点からの聖書の学び」を土台として、クリスチャン生活における「自立と共生」を目指していくために集っています。そして、「そのような理念の下、聖書がわかるようになると読むのが楽しくなる、読むのが楽しいと聖書の真理に従うのも楽しくなる、するともっと聖書がわかるようになる、という好循環を目指しております」。
今回のメッセージでは、開所2周年を記念して、私たちの設立目的の土台である「ヘブル的視点から聖書を学ぶこと」の大切さを、改めて確認していきたいのです。アウトラインは以下の通りです。
- なぜ、どのように聖書を学ぶのか(IIテモ3:14–17)
- 文脈の確認(14–15節a)
- 聖書の力(15節b)
- 神の息吹による聖書(16節a)
- 聖書を学ぶ目的(16b–17節)
- 結論
- 聖書の読み方の歴史
- 今、ヘブル的に聖書を学ぶ意味
まず、テモテへの手紙第二3:14–17から、私たちはなぜ、どのように聖書を学ぶべきなのかを確認していきましょう。そして、結論の中では2つのことを確認したいと思います。第一に、「ヘブル的視点からの聖書解釈」や「字義通りの聖書解釈」といったものについて、私たちの先輩方がどのような歴史を辿ったのかを見ていきましょう。それによって、私たちがどのような歴史の流れの中に立っているかを認識したいと思います。歴史には、神のご計画の進展が表されます。私たちが立っている歴史的な文脈を知ることで、「今、ヘブル的視点で聖書を学ぶ意味」を確認しましょう。
なぜ、どのように聖書を学ぶのか
それでは、私たちが聖書を学ぶ目的と、学ぶ上で必要なことを、聖書本文からも確認してみましょう。聖書箇所は、テモテへの手紙第二3:14–17です。
1.文脈の確認(14–15節a)
まず、この箇所の文脈を確認してみたいと思います。この手紙は、ローマの牢獄で、殉教の死を目前に控えているパウロから、彼の愛弟子であるテモテに送られたものです。テモテは当時、教会の指導者としてエペソに留まっていました。そして、エペソでは聖書の教えから外れた偽教師たちが現れていたようです。そのような偽教師たちに屈さず、福音に留まり、聖書の教えを正確に伝えなさい、とパウロはテモテに伝えているのです。
14–15節前半にはこう書かれています。「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。」まず、「けれども」とあります。13節を見ますと、パウロが言わんとしていることがわかります。彼は、「偽教師たちは悪の道に落ちていくが、けれどもテモテよ、あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい」と言っているのです。テモテが「学んで確信したこと」(新共同訳)とは、パウロや使徒たちの教えであり、何よりも彼が「幼いころから」親しんできた「聖書」の教えです。テモテは、父親がギリシャ人で、母親がユダヤ人でした。彼の母親と、おそらく同じくユダヤ人である母方の祖母が、彼に聖書教育を行ったのでしょう(使16:1;IIテモ1:5)。彼は、メシアニック・ジューのいる家庭で育った、第二世代のメシアニック・ジューなのです。
本筋からは少し離れますが、クリスチャンが自分の家庭で子どもに聖書教育を行うことは、とても大切です。クリスチャンの親が教えたことが、子どもが後に信仰を持つようになったとき、土台となるのです。このメッセージを準備する中で、面白い実話を読みました。日本でも有名な、ジョン・パイパーという牧師がいます。彼は力強い説教者であり、優れた神学者でもあります。そのパイパーに、あるカンファレンスで、仲間の牧師がこう訪ねました。「ジョン、君はなぜ聖書が誤りのない神の言葉だと信じているんだい?」パイパーはすかさずこう答えたそうです。「ママがそう教えてくれたからだよ!」この例話は、アメリカでも有数の牧師であり神学者でもあるジョン・パイパーの信仰の土台は、親から受け継いだものだということを伝えてくれています。テモテにとっても、祖母と母から受け継いだ信仰が、使徒パウロの教えと同じくらい大切な土台となっているのです。パウロはそれをよく知っているので、「テモテ、君は自分が誰から御言葉を学んだか知っているだろう。君が確信している福音は、私たちはもちろん、君のおばあちゃんとお母さんから教えられたことじゃないか!」と呼びかけているのです。
2.聖書の力(15節b)
続けて、パウロはテモテに、聖書がどのような力を持っているのか教えています。15節の後半を読んでみましょう。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」ここで「聖書」と訳されている言葉は、ギリシャ語ではヒエラ・グラマタ(hiera grammata)であり、文字通り「聖なる書物」という意味です。そして、テモテが留まるように言われているこの「聖なる書物」は、テモテが幼い頃から親しんできたものなのですから、ヘブル語聖書(旧約聖書)のことに他なりません。この手紙の中で「聖書」と言われるとき、おそらくパウロは、まずヘブル語聖書だけを想定しています。
私たちが「新約聖書」と呼んでいるものは、神が主に使徒たちを通してお与えになった啓示の書です。これらの書が、教会においてヘブル語聖書と同じく「聖なる書物」として受け入れられてきた理由のひとつは、それらの内容がヘブル語聖書の教えと、そしてイエス・キリストが地上生涯でお与えになった教えと合致していたからです。つまり、ヘブル語聖書こそが全ての土台なのです。神がイスラエルにお与えになった書物を、パウロは「聖なる書物」だと認めました。そして、ヘブル語聖書に基づく文化と背景を持っていたユダヤ人である人々が、後に新約聖書と呼ばれることになる書物を残しました。だから、私たちが聖書を読むときには、これが全てヘブル的なものなのだと意識する必要があります。テモテもまた、ユダヤ人である祖母や母から、またユダヤ人である師パウロたちから聖書を学んだのです。
このヘブル的な「聖なる書物」は、私たちに「知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができ」ます。聖書は何よりも、私たちをまことの神であるイエス・キリストに導いてくれるのです。
3.神の息吹による聖書(16節a)
では、なぜ、聖書がそういう力を持った、「聖なる書物」であると言えるのでしょうか。なぜ、その教えから離れてはいけないのでしょうか。16節前半にその答えが書かれています。それは、「聖書はすべて、神の霊感によるもの」だからです。ここで「霊感」と訳されている言葉について、新改訳聖書の注には「直訳『神のいぶきによる』」と書かれています。この言葉は、ギリシャ語で「セオ・プニュストス」(theopneustos)といいます。これは「セオス theos」と「プニュストス pneustos」の合成語です。「セオス」は神を、「プニュストス」は「息を吹き出す」という意味の「プネオー pneō」から来ている言葉です。つまり、「セオ・プニュストス」とは「神の息によって吹き出された」という意味なのです。
神の息吹というのは、ヘブル語聖書では創造の御業と密接に関係している概念です。その関係を示す最も有名な例は、「人間の創造」でしょう。創世記2:7には「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」とあります。土地の塵から造られた人間の体が、神の息を吹き込まれたことにより、被造物として完全なものとなったのです。聖書の場合もこれと似ています。聖書には、人間が書いた書物であるという側面があります。神はその人間の書物を用いて、ご自分の息を吹き込まれ、「神の啓示の書」として完全なものとされました。ここでパウロが強調しているのは、聖書が神ご自身の息吹によって創造された書物であり、聖書の第一義的な著者は神ご自身なのだ、ということなのです。
使徒ペテロは、パウロとはまた別の側面を強調しています。彼は、第二の手紙1:21で「預言は……聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」と言っています。ここでは、聖書は人間の著者によるものであるけれども、それが書かれる過程では聖霊の働きがあったのだと教えられているのです。
ここから、私たちが聖書を学ぶ上で心に留めるべきことを学ぶことができます。聖書の起源は、まさに神ご自身にあります。ですから、神の御言葉を理解する上では、当然、聖霊なる神の助けが必要となります。次に、聖書は一言一句が神によって吹き出された言葉であると同時に、神は人の文章を用いられました。だから、私たちは神が用いられた文章を正しく理解するために、字義通りに読んでいくべきです。最後に、神が用いられたのはユダヤ人の著作です。ですから、私たちはその書物のヘブル的背景を探りながら読んでいくべきなのです。このことは、また後で改めて確認したいと思います。
4.聖書を学ぶ目的(16b–17節)
最後に、聖書を学ぶ目的を確認しましょう。聖書は神に起源を持つ「聖なる書物」なので、私たちにとって「有益」です。具体的には、「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」です(16節b)。「教え」とは、「神の真理を伝えること」です。「戒め」とは、「信仰や行いの誤りに対して警告を与えること」です。「矯正」とは、「不信仰や誤った行いに直面しているとき、正しい方向に向き直る」ということです。そして「義の訓練」とは、「神の御心に適った方向へと訓練し、整えていくこと」です。いずれも、私たちがクリスチャン生活を歩む上で重要なことです。そのために、聖書は有益なのです。
パウロは結論として、神の息によって吹き出されたこの聖なる書物を学ぶのは、「神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」と教えています(17節)。
ここで、イエスの教えを振り返ってみましょう。イエスは弟子たちに対して、イエスという「まことのぶどうの木」に留まり、多くの実を結ぶようにと教えられました(ヨハ15:1–10)。これは、イエスの愛に留まって、「わたしのように、互いに愛し合いなさい」というイエスの戒めを守るということです。よって、「実を結ぶ」とは、私たちの信仰が行いとなって表されるということになります。クリスチャンである私たちは、イエスが教えられたことに留まって、互いに愛し合い、神の御心に適った生活を送るようにと教えられているのです。そして、パウロが教えている聖書を学ぶ目的は「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるため」です。私たちは、イエスが教えられたように、御心に適った業を行っていく者として整えられるため、聖書を学ぶのです。
私たちクリスチャンは、この世においてイエスに似た者として召し出されたのだということを思えば思うほど、イエスに似た者としてふさわしい歩みをしていきたいと願います。そして、ヨハネの手紙から学んでいるように、聖霊が私たちを整え、そのような歩みを可能とさせてくださいます。私たちがイエスに似たものとして整えられるために、聖霊は直に語りかけて働かれることもあれば、聖書の学びを通して働かれることもあります。むしろ、聖書が「神の息によって吹き出された聖なる書物」であるならば、この書物の学びを聖霊が用いられるのは当然だと言えるでしょう。
それでは、なぜ、どのように聖書を学ぶのかということについて、まとめてみましょう。
- 聖書は、ユダヤ人が書いた書物を用いて、神の息吹によって「聖なる書物」とされた。
- 聖書の起源は神にある。
- 聖書を学ぶ上で心に留めるべき3つのこと:聖霊の助け・字義通りに読む・ヘブル的に読む
- 聖書の起源は神にあるのだから、聖霊なる神の助けが必要である。
- 聖書は一言一句、神によって吹き出されたものである。そして、神は人の文章を用いられた。私たちは神が用いられた文章を正しく理解するために、字義通りに読んでいくべきである。
- 聖書を学ぶ目的は、私たちが神の御心に適った生活を送ることができるよう、整えられていくためである。
結論
1.聖書の読み方の歴史
これまで、私たちが聖書を読む上で大切なのは、聖霊の導き、字義通りの解釈、そしてヘブル的解釈であると確認してきました。それでは、私たちの信仰の先輩たちは、どのように聖書を読んできたのでしょうか。「聖書の読み方」について、ほぼ全ての時代に渡って議論されていることは、御言葉を字義通りに読むことを重視するか、それとも比喩的に読むことを重視するか、ということに尽きます。御言葉を字義通りに読むことは、ヘブル的視点から読むことと深く関係しています。字義通りの意味を重視するということは、御言葉の歴史的・文化的・言語的な背景から分かる意味を重視するということだからです。つまり、字義通りの意味を重視する人々は、多かれ少なかれ、私たちが「ヘブル的視点」と呼んでいるのとほぼ同じ視点から読むことを重視していました。
イエスご自身や使徒たちは、聖書の字義通りの意味を重視していました。その結果、初代教会の人々はイエスこそ聖書が預言していたキリストであるという確信に至ったのです。使徒たちの時代の直後も、教会のリーダーたちは、使徒たちの読み方に倣って、聖書を字義通りに読んでいました。しかしながら、2世紀の半ば以降、比喩的な解釈を打ち出す人々の影響が大きくなっていきました。「聖書の字義通りの解釈は初歩的な読み方であって、聖書の真理をより深く知るためには、聖霊によって、聖書の隠された霊的な意味を読み取らなければならない」というような教えが、次々と広まっていったのです。
しかしながら、歴史を通じて、字義通りに聖書を読むことを最も重要視する人々が、少数派ながら存在していました。そして、聖書の比喩的解釈よりも字義通りの解釈の大切さが広く訴えられる時代が来ます。その幕開けが、宗教改革です。前橋聖書フォーラムの開所記念日である10月31日は、宗教改革記念日であります。しかも、今年は宗教改革500周年です。500年前の10月31日、マルティン・ルターが「九十五箇条の提題」を発表したことが、宗教改革の幕開けとなったのです。
ルターの宗教改革の土台には、聖書の字義通りの解釈に立ち返るという「解釈学的改革」がありました。彼は聖書研究の結果、字義通りの解釈が比喩的解釈よりも優先されるべきだと主張しました。実際にはルターの聖書解釈には比喩的解釈の影響が色濃く見られます。今回のメッセージでお伝えしてきたこと──聖書の学びで大事なのは「聖霊の導き」と「聖書が書かれた背景をふまえて字義通りに読むこと」だ、ということをさらに強調し、神学的に整理していったのは、ジャン・カルヴァンの功績です。彼は「聖書の隠された多くの霊的意味を知るために比喩的解釈が必要だ」という伝統を拒否し、字義通りの解釈こそが最も重要なのだと主張しました。
宗教改革以降、プロテスタントの神学者や牧師たちは「字義通りの解釈」という原則に基づいた聖書解釈のルールを整えていき、その解釈から導き出された教えをまとめあげることに力を注いできました。今回の学びも含めて、私たちの聖書研究は、そういった人々の取り組みの恩恵を大きく受けています。
では、私たちが生きている今の時代はどうでしょうか。今は、プロテスタントで聖書を神の御言葉として信じている人々の間でも、比喩的解釈が復興してきている時代です。1970年代以降、世界は「ポストモダン」の時代に入ったと言われるようになりました。「ポストモダン」の時代に入ったということは、「普遍的な真理であるかということよりも、真理というのは人それぞれなので、人それぞれのフィーリング(感覚)に合っているものを選べばいいじゃないかということを、価値として優先される時代に入ったということ」です。つまり、今は「物語が書き手の意思よりも、読み手の中でそれぞれの読まれ方をしていく時代」なのです。このような価値観のもとで、聖書についても、著者が語ろうとしていることより、私たちが信仰によって見出す意味の方が大切だ、という神学者や牧師が増えてきています。まさに、「聖書の字義的意味より重要な霊的意味を見出そう」という2世紀半ばの状況に似ています。
一方で、今はメシアニック・ジューの中から優れた神学者が出てきて活躍している時代でもあります。これが、2世紀半ばや宗教改革の時代とは大きく異なっている点です。彼らは、聖書が神の言葉であり、ヘブル的に読まれなければならないのだ、ということを、時にはユダヤ文化や考古学といった面から論理的に主張しています。多くの人々が「聖書は神の御言葉であり、字義通りに読まれなければならない」ということのために戦っている中で、メシアニック・ジューの兄弟姉妹が台頭してきているということは、非常に心強いことだと思います。
2.今、ヘブル的視点で聖書を学ぶ意味
異邦人中心となった教会の中で聖書の比喩的解釈が広まり、宗教改革がその風潮を打ち砕きました。今、また聖書の比喩的解釈が広く受け入れられるようになっている中で、異邦人信者だけではなく、ユダヤ人信者もまた、共に聖書の字義通りの解釈を守ろうとしているのです。私たちは、後から振り返れば歴史の転換点となり得る時代で、ヘブル的視点からの聖書の学びをしようとしています。時代が大きく動いているということは、神のご計画が大きく進められようとしている、ということです。その真っ只中にいる今は、神のご計画がどのように動いているのか、わからないかもしれません。しかし、後で振り返って分かるときが必ず来ます。そのような激動の時代の中で私たちがなすべきことは、ただ御言葉をそのまま読み、御言葉から学び、学んだことを生活で実践し、まことの神を知る喜びを人々に伝えていくことです。宗教改革の時も、これが時代を変える原動力となりました。宗教改革が聖書解釈の改革から始まったように、まずは聖書をヘブル的視点から字義通りに学ぶことが、今の時代においてますます重要になっていると思うのです。
今回は聖書の読み方に注目してきましたが、聖書フォーラム運動は、他にも色々な面から考察できると思います。そして、この運動はまだまだ発展途上であり、抱えている問題も少なくありません。しかし、このような時代にあって、聖書をヘブル的に学ぼうというネットワークが北海道から沖縄まで広がっていることは、どれほどすごいことでしょうか。私たちは、神のご計画が大きく動いている中を生きています。その中で私たちに課せられている使命は、御言葉を学び、学んだことを実践し、伝道していくこと──つまり、聖書研究・実践・伝道という、いつの時代も変わらないこの3つなのです。この時代だからこそ、私たちはこのクリスチャンとしての原点に立ち返ろうではありませんか。