前橋聖書フォーラムでは、毎月第四土曜日は祈り会です。
祈り会では、最初の1時間弱を聖書がイスラエルについてどのように教えているのかを知り、またイスラエルのために祈る時間としています。
今回は、中川健一牧師が『月刊ハーベスト・タイム』2017年7月号の中で取り上げておられる「置換神学」にフォーカスを当てました。
キリスト教神学では、イスラエルと教会の関係をどのように理解するか、様々な立場が存在しています。「置換神学」はその中の一つの立場です。
今回のメッセージでは、この「置換神学」について少しでも知り、整理してみることで、私たちが聖書を読む上でイスラエルをどのように理解するかがいかに大切なのか、確認しました。
以下のPDFファイルは、メッセージの内容に少し詳細な情報を加筆し、根拠となる文献やこのテーマについて学ぶ上での推奨文献も追加したものです。付録として「新約聖書における『イスラエル』の登場箇所」をまとめた表もありますので、資料としてご参照ください。
メッセージそのものの原稿は、以下の通りです。
170722_MBF_Message ←原稿内容のPDFファイルです。内容は下の文章と同じです。
イスラエルを軸に聖書を読む
昨年8月の末から、前橋聖書フォーラムでは月に1回、イスラエルについて学び、イスラエルのために祈るという時間を設けています。なぜそのような時間を設けたかというと、それは「神がイスラエルを愛しておられるから」です。聖書の内容は創世記12章以降、ほとんどがアブラハム、イサク、ヤコブ、そして彼らの子孫であるイスラエルの人々を中心として展開していきます。神がイスラエルを愛しておられるということは、聖書の様々な箇所から分かることなのです。そして、「イスラエル」が聖書の中でも重要なテーマであるということを確認するため、これまでの祈り会で、神がイスラエルと結ばれたいくつかの契約を確認してきました。そこから、神は全人類へ祝福をもたらす「パイプ役」として、アブラハム、イサク、ヤコブとその子孫を選ばれたのだ、ということを学びました。次に、神はイスラエルに、契約を通して、彼らが選ばれた民としてイスラエルの地に回復されるという約束を与えられました。また、神の選びは変わることなく、将来イスラエルを通して、全人類に祝福がもたらされます。神は真実なお方ですから、与えられた約束は必ず成就するはずなのです。
しかし、こういった「イスラエル民族の約束の地への回復」や「イスラエル民族を通した全人類の祝福」といった教えを否定する立場もあります。『月刊ハーベスト・タイム』2017年7月号では、中川牧師が次のような質問を取り上げています。「……さて、相談ですが、先日しばらくぶりで教会の牧師と話し、その中で気になったフレーズがあり、しっくりきません。それは、『教会は霊的イスラエルであり、・・・』というものです。この解釈について、背後など教えてください。」このように教会を「霊的イスラエル」と表現する立場は、聖書フォーラム運動の中では「置換神学」と呼ばれています。今回はこの「置換神学」を少しでも知り、整理してみましょう。それによって、私たちが聖書を読む上でイスラエルをどう捉えるかがいかに大切なのか、確認していきたいと思います。
1.イスラエルの捉え方に関するいくつかの立場
聖書を読む人が「イスラエル」についてどのように考えているか、という問題は、とても単純に論じられることではありません。しかし、不十分なことは承知で、ここでは代表的な4つの立場をご紹介したいと思います。
(1) イスラエルは不信仰のために罰せられ、その役割は教会に取って代わられた。
英語圏で「置換神学 replacement theology/supersessionism」と言われるときには、このような考え方を指していることが多いです。中川牧師が『月刊ハーベスト・タイム』で紹介されている「置換神学」の定義も、それに近いと言えるでしょう。中川牧師は「置換神学」を次のように説明しています。「『旧約のイスラエルは見捨てられ、教会が霊的イスラエルとなった」というのが、置換神学である。つまり『救済史上のイスラエルの役割は、キリストの初臨をもって終わった。イスラエル民族はキリストを拒否し、今や呪いの下にある。キリストを信じる教会こそが、真の神の民、霊的イスラエルである』というのがその立場である。」
(2) イスラエルの役割は、「真のイスラエル」であるイエス・キリストの到来によって完成・成就した。その役割は教会に引き継がれた。
この立場では、「イスラエルは見捨てられ、呪いの下にある」という言い方はほとんどなされません。ただ、神のご計画におけるイスラエルの役割は果たされたのだ、成就したのだ、ということが強調されています。ですから、このような立場の人々は、自らの考えを「成就神学 fulfillment theology」と表現することがあります。ただし、このような立場においても、教会のことを「霊的イスラエル」とか「真のイスラエル」と呼ぶ者がいることには変わりありません。
(3) 異邦人はイエス・キリストの十字架によって救われるが、ユダヤ人はアブラハム契約とモーセ契約によって救われる。
この立場は、先の2つの立場とは少し異なります。これは、ユダヤ人は神がイスラエルと結ばれた契約(アブラハム契約、モーセ契約をひとつとみなす)によって、異邦人はキリストとの新しい契約によって救われる。すなわち、人類を救う契約が2つあるのだ、という立場です。したがって、この立場は「二契約神学 two-covenants theology」と呼ばれています。この立場では、ユダヤ人が救われるためにはキリストを信じることは必要ない、と言われています。しかし、聖書はユダヤ人も異邦人もイエスを信じることで救われるのだ、と教えていることは、言うまでもありません。
(4) イスラエルの不信仰は一時的なものである。神のご計画におけるイスラエルの役割は今も続いており、イスラエルは将来民族的に回復される。
これが、私が冒頭で述べた、そして聖書フォーラム運動が取っている立場です。英語圏では、「非置換神学 non-replacement theology/nonsupersessionism」という呼び方がよく見られます。
先ほど申し上げた通り、他にも分類しようとすればいくつもの立場をリストアップすることができるのですが、ここでは代表的な以上4つを取り上げるのみとしたいと思います。聖書フォーラム運動の外で一般的に「置換神学」という時には(1)の立場を指していることが多いです。しかし、(1)も(2)も、「今は教会がイスラエルの役割と立場にある」と考えている点では同じです。ですから、このメッセージの中では便宜的に、(1)と(2)の立場をまとめて「置換神学」と呼ぶことにしたいと思いますので、ご了承下さい。
2.私たちが「非置換神学」の立場を取る理由
神がイスラエルと結ばれた契約の中で、将来イスラエルが回復されるという約束が含まれていることは、何度も確認してきました。ここでは改めて、2つのことを申し上げたいと思います。第一に、「聖書の中ではっきりと教会が『イスラエル』と呼ばれている箇所はない」ということ。第二に、聖書ははっきりと「イスラエルの選びが変わることはない」と言っている、ということです。
A.聖書の中ではっきりと教会が「イスラエル」と呼ばれている箇所はない。
新改訳聖書(第三版)では、「イスラエル」という言葉は旧約聖書で2,550箇所、新約聖書では80箇所の聖句に出て来ます。その中で、「イスラエル」という言葉が教会を指して使われていると明言できる箇所は、ひとつもありません。旧約聖書の中では、「イスラエル」は4つの意味を持っています。まず、アブラハムの孫であるヤコブの別名です。次に、ヤコブの子孫である民族です。3番目に、イスラエル民族の国が「イスラエル」と呼ばれています。4番目には、イザヤ書49:3では例外的にメシアのことが「イスラエル」と呼ばれています。
新約聖書のギリシャ語原文では、「イスラエル」を指すIsraēlという単語が66箇所、「イスラエル人」を指すIsraēlitēsという単語が9箇所で使われています。その中でも、これは教会のことをイスラエルと呼んでいるのではないか、と議論になる箇所は多く見ても5箇所(ロマ9:6;11:26;ガラ6:16;黙7:4;21:12)程度です。それら以外は全て、明らかにイスラエル人や彼らの国、土地などを指しています。さらに、問題となる5つの聖句についても、そこに出てくる「イスラエル」は教会と考えなくても解釈が成立します。特に興味深いのは、使徒の働きです。使徒の働きにはIsraēlとIsraēlitēsが合わせて20回、教会を指すekklēsiaという言葉は19回使われています。使徒の働きの中では教会とイスラエルが同時に存在しているのですが、「イスラエル」が教会を指すことも、教会が「イスラエル」を指していることもありません。
以上のことから、教会のことを何かしらの形で「イスラエル」と呼ぶことは、聖書の文脈の中では少し不自然なのだということがわかります。
B.イスラエルの選びは変わることがない。
神は、イスラエルの民と「新しい契約」を結ばれることをエレミヤ書31章で預言されました。その直後に、主は次のように言っておられます。
【主】はこう仰せられる。主は太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名は万軍の【主】。「もし、これらの定めがわたしの前から取り去られるなら、──【主】の御告げ──イスラエルの子孫も、絶え、いつまでもわたしの前で、一つの民をなすことはできない。」【主】はこう仰せられる。「もし、上の天が測られ、下の地の基が探り出されるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべての事のために退けよう。──【主】の御告げ──(エレミヤ書31:35–37)
天地万物の創造主である神は、「もし、これらの定めがわたしの前から取り去られるなら、……イスラエルの子孫も、絶え、いつまでもわたしの前で、一つの民をなすことはできない」と言われました。また、「もし、上の天が測られ、下の地の基が探り出されるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべての事のために退けよう」と言われました。これは逆に言えば、そのようなことは起こり得ない、ということです。神はこのような言い方で、「新しい契約」によってイスラエルの罪が赦され、彼らが神に立ち返るという約束を保証されているのです。似たようなことを、パウロは次のように説明しています。
兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ人への手紙11:25–29)
まさに、神は契約に忠実であり、真実なお方なのですから、「神の賜物と召命とは変わることがありません」。もし神がご自分の契約を果たされないでイスラエルを見捨てられた、あるいはその役割をまるまる教会に引き渡してしまったなら、私たちはアブラハムに、イサク、ヤコブに、旧約聖書の聖徒たちに、「神の賜物と召命とは変わることがありません」と胸を張って言うことができるでしょうか。だから、私たちは聖書研究の結果に従って、置換神学ではなく、非置換神学の考え方に至ったのです。
3.置換神学の危険性
次に、置換神学が孕んでいる危険性を取り上げたいと思います。そのためには、置換神学の歴史を少し振り返ることが良いでしょう。使徒たちの時代の直後(あるいはその時代、既に)、異邦人伝道の成功による異邦人信者の急増によって、教会は異邦人中心の組織となってきました。紀元2世紀には、早くも「教会こそ霊的イスラエルである」という教理が生まれはじめます。その背景には、ユダヤ人社会でのメシアニック・ジュー(ユダヤ人信者)の迫害、異邦人教会とユダヤ教の対立といった要因がありました。少し時代が下って紀元4世紀頃になると、キリスト教をローマ帝国の国教としたコンスタンティヌス帝の下でユダヤ人への差別と迫害が激しくなります。その影響も受け、イスラエルはキリストを拒み殺した民として退けられ、その位置は教会に置き換えられたという考えが確立されるようになりました。
教会からユダヤ人やユダヤ的要素を取り除こうという流れは、中世も、さらに宗教改革の時代に至っても続きました。特に、マルティン・ルターの反ユダヤ主義の影響は、見過ごせないものがあります。彼は当初、イエスがユダヤ人の子孫であることに注目し、ユダヤ人伝道に志を向けていました。しかし、福音を受け入れないユダヤ人たちの頑なな態度により、ルターは彼らを敵視するようになります。彼は1543年に「ユダヤ人と彼らの嘘について」という論文を発表し、ユダヤ人を「有毒な」「盗賊たち」「むかつく社会のダニ」などと表現し、「ユダヤ人は永久に国外追放すべき」だと訴えました。
ルターの反ユダヤ主義は、ドイツ国内でかなりの影響があったようです。ホロコーストを推進したナチスは、ルターのこの言葉と他の反ユダヤ的な教えを利用しました。ルターが起こした宗教改革への評価は、晩年の彼の反ユダヤ主義によって覆されるべきではありません。しかし、私たちクリスチャンが歩んできた歴史を考える上では、彼の反ユダヤ主義もまた忘れ去られてはなりません。ナチス・ドイツ以外にもヨーロッパ諸国で引き起こされたユダヤ人迫害の背景には、反ユダヤ的な教えの上に建て上げられた西洋的キリスト教の影響があったことは確実です。
そして、今もなお、反ユダヤ主義に対する置換神学の影響は根強いものと考えられます。今は、クリスチャンとして現代のイスラエル国をサポートしようとする「クリスチャン・シオニズム」という動きと、「イスラエルはパレスチナのアラブ人たちを暴力的に追放することによって建国された国なのだから、シオニズムは道徳的ではない」とする「反シオニズム」という2つの立場の対立が激しくなっています。クリスチャン・シオニズムの立場にいる人々の多くは将来におけるイスラエルの回復を信じているため、反シオニズムの人々は、置換神学によりクリスチャン・シオニズムへの反論を試みています。そして、反シオニズムの動きはイスラエル製品の不買運動などに繋がり、結果的には新たな反ユダヤ主義を生み出す一因にもなっているのです。
4.イスラエルを聖書的に捉えることの大切さ
最後に、改めて、イスラエルを「教会」ではなくイスラエルとして捉えて聖書を読むことの大切さを考えてみたいと思います。聖書の大部分は、イスラエルに関する記述です。イエスもまた、第一義的にはイスラエルのメシアとして来られました。すなわち、イスラエルに関する理解がなければ、聖書の全体像の捉え方も変わってくるのです。もしくは、イスラエルに関して何も理解しようとしなければ、聖書の全体像を捉えることはできないのです。では、イスラエルの理解に基づいて聖書を学ぶことはなぜ重要だと言えるのでしょうか。いくつかありますが、ここでは2つ取り上げてみましょう。
第一に、神のご性質への理解が深まるということです。イスラエルへの契約を通して神のご計画の全体像を学ぶことで、神は契約を忠実に守られるお方である、ということをより理解することができます。また、罪を犯したイスラエルへの裁きから、罪と相容れない神の義のご性質がより理解できます。そして、イスラエルの罪が赦され、本来の「パイプ役」の民族として回復されるという約束から、慈しみ深い神の愛のご性質をより理解することができます。
パウロは、イスラエルを論じることで神のご計画の全体像を確認し、感動の故に次のように神をほめたたえています。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ人への手紙11:33–36)
イスラエルの理解に基づいて聖書を学ぶことは、パウロとこの感動を共有することに至るのです。
第二に、教会、すなわちキリストの体という視点から、異邦人信者としての私たちの役割がわかるということです。教会とは、キリストの体です。そしてその体は、ユダヤ人信者と異邦人死んじゃという「二つのもの」が「新しいひとりの人」として造り上げられたものです(エペ2:11–26)。その体の中では、ユダヤ人信者の役割もあれば、異邦人信者の役割もあります。私たちはイスラエルの理解に基づいて聖書を学ぶことで、キリストの体における私たち異邦人信者の役割について学ぶことができるのです。パウロはローマ人への手紙11:11–12の中で、イスラエルについて論じながら、異邦人信者の役割について次のような内容のことを教えています。今はイスラエルがかたくなになり、異邦人に救いがより及んでいる時代です。その目的は、イスラエルにねたみを起こさせ、救いに導くたmです。イスラエルの違反が異邦人の富となったのだから、イスラエルがみな救われて完成したならば、どんなにか素晴らしいものがもたらされるでしょうか。
また、同じ手紙の最後の方で、パウロは「異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです」と言っています(ロマ15:27)。「とこしえにヤコブの家を治め」る方であるイエスは十字架で死なれ、復活し、罪の赦しと新しい命をお与えになりました。その罪の赦しと新しい命が、今は私たち異邦人へも及んでいるのです。私たちの霊的祝福は、神とイスラエルの契約を土台として与えられているものです。よって、私たちはユダヤ人から「霊的なことでは、……もらいものをした」のだと言えます。だから、私たち異邦人信者は、同じキリストの体のもう一対を成すユダヤ人信者のために、物質的に援助をすべきだというのです。
おわりに
ここで取り上げてきた置換神学は、今なおキリスト教では主流の考えです。もちろん、私たちはクリスチャン同士の一致ということを考えなくてはなりません。ですが、聖書を読めば読むほどに、私たちは置換神学を受け入れることができないのです。聖書の物語は全人類の物語ですが、その物語はイスラエルという民を軸にしています。私たちは聖書から、イスラエルについて本質を見極めなくてはなりません。
そして、イスラエルを軸として聖書を読んでいくことで、神というお方の素晴らしさを、また神が聖書を通して伝えておられるご計画の素晴らしさを、もっと深く知ることができると思っています。パウロがイスラエルに対する神のご計画を教えながら捧げた賛美を、私たちも一緒に捧げたいではありませんか。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」