(ウォーキング中に撮った玉川上水緑道です。 主を賛美します。)
杉並聖書フォーラムのご報告
2019年1月12日(土)実施。 14名参加。
【分かち合いの概要】 使徒の働きCD#19、「使徒たちの逮捕(1)」、聖書箇所:使5:17〜32、を聞いて分かち合った。
① 結論のところで「国家と教会」について学んだが、地上の権威が神に敵対する場合は「人に従うのではなく、神に従うべき」ということがよくわかった。 このことは教会の牧師や宣教師が権威を持ち始めた場合にも当てはまる。 時に実行するのが難しいこともあるが、解決法は「人ではなく、神に従う」ことに尽きる。
② 聖霊が働かれた時に、二つの結果が生まれる。 伝道すると、素直に聞いてくれる人もいるが、反発する人の方が多い。 でも今日のメッセージを聞いて楽になった。 これに関連してある姉妹が言った。 「ずっと父に伝道しているが、成果が得られずに思い悩んでいた。 しかし、聖霊が働いて下さっているのだから、主に忠実に従って種まきを続けようと元気が出た。」
③ 十字架の意味のところで、新改訳三版が「十字架」と言っているところは、ギリシャ語の「クスロン」(木)であり、正しくは「木にかけて殺したイエス」と訳すのが正しいと教えていただいた。 イエス様は「のろわれたものとなって」死なれ、福音を私たちに与えてくださったことは揺らがないが、この箇所の理解はなかなか難しかった。
④ サンヘドリンはユダヤ教徒が中心の組織と解釈してよいだろうか。 なぜ当時のユダヤ教徒たちは、イエスをメシアと認めた者たちを迫害したのだろうか。 それは、聖書(旧約聖書)よりも、人の手によって作られた「口伝律法」を正しいとしたからで、正に「律法ののろい」にとらわれていたからだ。
【特記事項】 前回の分かち合いで回答できなかった下記の二点を中川先生にお聞きして、皆さんにフィードバックした。
(a) アナニヤとサッピラの罪がヨシュア記のアカンの罪と似ていると学んだが、聖書は、アカン個人の罪なのに、神の怒りはイスラエル人たちに向かった、と書かれている。 なぜだろうか。⇒ その当時は、イスラエル人たちは共同体に属していたためで、神は共同体の罪として怒られた。
(b) アナニヤとサッピラが犯した罪に対して、ペテロはなぜ、マタイ18:15〜17にある四段階によって責めなかったのだろうか。⇒ 二人の罪は初代教会でそれだけ重い罪であった。 しかし、この聖書箇所をよく読むとペテロは二人それぞれに悔い改めの機会を与えて対処していたことがわかる。
以上
(杉並を通る神田川には珍しい野鳥が来ます。 黒い川鵜とあお鷺が仲良く餌を探していました。)