(神田川沿いに黄色くなった銀杏の木)
【杉並聖書フォーラム分かち合いの概要】: 第129回目、12月19日(水)浜田山会館2号室にて実施。 12名参加。 使徒の働きCD#18「教会内の罪」、聖書箇所:使5:1〜16、を聞いて分かち合った。
① アナニヤとサッピラのことをメッセージで聞いて、この二人が「罪を犯したにもかかわらず、信仰を取られていない」ということを知り、主の幸いを感じた。 教会の群れで、あれでもクリスチャンかと思う人がいるが、救われているかどうかは人間では計り知れない。
② ある信者が、イスカリオテのユダは救われていないと言ったことに対して、人間の限られた知恵でそう言い切るのは問題があるのではないか。 これに対して別の信者は、自分の意見で言っているのではない、それは、聖書がそう発信しているからだ。 「メシアの生涯」のCD#192を聞きなおして次回のフォーラムで聖書がどう言っているかを皆さんに示すことにした。
③ アナニヤとサッピラの罪がヨシュア記のアカンの罪と似ていると学んだ。 その通りだと思う。 しかし、ここでアカンの罪に対して、神の怒りはなぜ「イスラエル人に向かって」燃え上がったのだろうか。 これはアカン個人の罪なのに、なぜ神はイスラエル人の罪としたのだろうか。 この回答は分かち合いでは得られず、中川先生に聞くことにした。
④ この続きで、アナニヤとサッピラが犯した罪に対して、ペテロはなぜ、マタイ18:15〜17のように四段階によってアナニヤとサッピラに先ずふたりだけのところで責めなかったのでしょうか。 地域教会の秩序を保つためには初代教会でも同じような対処が必要だったのではないでしょうか。 これに対しても、分かち合いでは納得が得られませんでした。 上記③と同じように中川先生にお伺いして次回のフォーラムで皆さんに回答することにしました。
⑤ 救いは「恵みと信仰によって」成されると学んだが、「信仰」とは何だろうか。 「信仰」とは救われた後に、保って育てて行くものなのだろうか。 これに対して、別の信者が答えた。 「信仰」とは、「イエス様が価値のない私たちを永遠のいのちへの救いのために十字架で死んでくださったことを、信じることだ」と思う。 そのように「信じること」は肉の人間では容易にはできない。 それこそが「恵みによって」神から与えられることだと思う。 皆、アーメンだった。 ハレルヤ。
【特記事項1】 この日少し時間を延長して、上記の通常のバイブルスタディの後に、クリスマス祝会を行った。 KM兄とMH姉のお二人に証しをしていただき、飲み物とお菓子でお交わりをした。
【特記事項2】 12月23日(日)、成城キリスト教会で杉並聖書フォーラムのKT兄が洗礼を受けた。 杉並からは8名のメンバーが参加し、また、奥様のSTさんも娘さんとお孫さんとご一緒に参加されました。 すべてのことに時があることを改めて思いました。 下記、写真を添付します。
以上
(滴礼の洗礼を受けるKT兄)
(受洗後のKT兄と臼田牧師、杉並の皆さんと一緒に記念撮影)