(杉並をウォーキングしていたら道路際の塀の隙間に小さな実りの秋を見つけました。)
【杉並聖書フォーラムのご報告】 第125回目、浜田山会館1号室にて。 13名参加。
使徒の働きCD#14、「ペテロの第二のメッセージ(2)」、聖書箇所:使3:17〜26、を聞いて分かち合った。
① 「無知」で犯した罪は「悔い改め(イエスに対する認識を変える)」ことで赦される、ということと、あの「ベルゼブル論争の時の赦されない罪」ということに少し矛盾を感じるがどうなのだろうか。 マタイ12:22〜28とマルコ3:28を皆で声を出して読んだ後、分かち合った。 ベルゼブル論争の赦されない罪はその時のユダヤ人世代で、このペテロが語った第二のメッセージを聞いた聴衆とは違うのではないかという意見が出たが、もうひとつ納得がいかないので、恵比寿で中川先生にお聞きして、次回皆さんにフィードバックすることにした。
② 「回復の時」というみことばを気にもとめないで読み飛ばしていたが、大きな意味があったことに気づいた。 大患難時代の最後に生き残ったユダヤ人が口をそろえて「主よ。 来てください。」と言って民族的な救い(回復の時)が成就する。 そうしないとメシアの地上再臨は来ないし、千年王国も始まらないことがよくわかった。
③ 異邦人の救いが満ちた時に「携挙」が起こるのだから異邦人への伝道だけが大きな意味があると思っていた。 ユダヤ人への伝道はやがて例外なく民族的な救いが成就するのだからと考えがちだが、中川先生がご指摘された通り、その前に救われずに肉体の死に至るユダヤ人のことを忘れてはならない。 元々「新約」はエレミヤ31:31〜34の通り、イスラエルの二つの家、すなわち、ユダヤ人に与えられたもので、私たち異邦人はユダヤ人に接ぎ木されて新約の祝福をいただいている。 祈りとともに、ロマ書15:27にあるように、ユダヤ人から霊的なもらいものをした私たち異邦人は物質的なものをもって奉仕することが求められている。
④ キリスト教はもっとシンプルで良いのではないか。 こんな複雑なことを理解しないとだめなのだろうか。 これに対しては何人もの信者から応答があった。 自分も救われた当時は何も知らなかった。 けれど、神が聖書を通して語られることが少しづつわかるとうれしくなるし、聖書が読みやすくなる。 一度に全部わかろうとしないでも、時間をかけてバイブルスタディをするのは意味がある。
⑤ 聖書はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるユダヤ人の宗教だと思う。 でも、神は異邦人のことを忘れてはおられない。 使3:25には「アブラハムの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける」と書かれている。 感謝。
以上
(玉川上水緑道にも、もうひとつの実りの秋がありました。 主を賛美します。)