2/13(土)実施。 15名参加。
【分かち合いの概要】 出エジプト記CDメッセージ「希望が絶望に終わる時」(聖書箇所4:29〜5:23)を聞いて分かち合った。 ①パロの命令の実行のところで「神の国と神の敵とが対決する時に、神の民が苦しむ」とあった。 一方、結論のところで、神はただちに民を救うことができたのに、10の災いを、時間をかけて徐々にやっており、それはパロに悔い改めの機会を提供していると説明があった。 聖書が、パロのような未信者を神の敵と言い、サタンのように取り扱っているのは理解に苦しむ。 これに対して、ある信者が、エペソ2:1〜3を読み、私たちも救われる前は生まれながら神の御怒りに触れ、敵対していた者だったので「神の敵」と呼ばれるのは間違っていない、と答えた。 ②また、神の約束は与えられているが、それが成就しない時のジレンマがあり、今回のメッセージはクリスチャン生活のケーススタディであると学んだ。 確かに、いくら私たちが人の救いを祈っても思い通りにならず、「光と闇の戦い」の中に置かれているような経験もする。 でも、へブル人への手紙6章には「神が約束された望みは捨ててはならない」とあり、頭の理解ではなく、時間をかけて神と一対一の関係を保つべき。 詩篇139篇には、ことばが私たちの舌にのぼる前に主はそれをことごとく知っておられ、とあり、祈りはすべて聞かれている。 ③救いの原理について質問があった。 「アダム以来の原罪をイエスはご自分の血で帳消しにしてくださった。 そうであれば、そのことを信じなくても自動的にすべての人間が救われているのではないだろうか。 自分は、福音を信じるのは人間の側の責任で、業だと思う。 だから、業で救われるということではないのか。」 これに対して反論あり。 「いや。 業では救われない。 信じることは、業ではなくて、意思だ。 神は人を、自由意思を持つように造られたのだから、その意思によって信じるのだ。 罪の奴隷のままでいるのか、義の奴隷になるのか、という選択の意思だと思う。」 そして、声を出して、ローマ6:16〜18を読んだ。 ④今日のメッセージで、礼拝は、祭りであり、祝いであるということを学んで、感動した。 礼拝に対する姿勢が変わってくる。 ⑤ある人が言った。 「自分の人生の節目で解決すべきことは、これまで自分ですべてやって来た。 そういう意味で、救われた後も、これから同じような問題が出て来ても、主に頼るのではなくて、やはり自分で解決しようと思う。」 これに対して、出席者の多くが、「私たちには、多くのことが自分で解決する事は全くできないでいる。」と言い合った。
以上