【実施状況】
人数 5名
場所、時間 重森宅 14:00~17:30
【学びの内容・分かち合い】
1、「60分でわかる新約聖書」ガラテヤ人へ手紙第一を視聴
2、パウロの伝えた「福音」と「ほかの福音」を比較した。
・私たちは「恵みと信仰のみ」で救われる。これがgood news(福音)であり、そこに別の要素を付け加えると福音ではなくなる。「恵みと信仰」プラスnothingで、何も加えないことが、福音である。
・律法主義の考え方・・・義認は信仰による。信仰によって義とされるけど、そのあと信者として清められるため(聖化への道を歩んでいくため)には業によるという教えである。
・律法主義が展開してくると、例えばユダヤ教の各種の祭りや行事を義務化することにつながっていく。モーセの律法を使ったり、口伝律法を使ったりして義と認められようとする、清められようとすることは、ほかの福音である。特にガラテヤ書で問題になるのが、「異邦人に割礼を受けさせる」ということだった。割礼を受けるというのは、異邦人をまずユダヤ教徒にするということで、異邦人はまずユダヤ教徒にならないと救われないとするのは、ほかの福音である。
・「ほかの福音(ετερος:ヘテロス)」というのは、同質の2番目(αλλος:アロス、one of the same sort)というのではなく、まったく異質なもの(another/one not of the same nature)という意味。これは「信仰と恵みのみ」というところに、少しでも何かを付け加えると、それは付け加えた分だけ間違っているというわけではなく、100%間違ったものになる、ということ。
・こういうコロナ禍の中、こういう苦しみの時代に、中には、私がこれほど苦しむのは神様に罪を犯したからなのか、あるいは十分に業を行っていないから裁きをうけているのか?と思いがちである。しかし、こういうアプローチこそ律法主義的なアプローチである。そうなると私たちはどこに向かうだろうか。あれもしてない、これもしてない、だからこうなっているというところに向かっていく。しかし、そうではない。私たちは(律法の下にいる「奴隷の子」ではなく)イエス・キリストにあって「自由の子」とされている(ガラ4:13)。まことの福音を信じて、救われたクリスチャンのうちには聖霊が与えられていて、私たちは聖霊に導かれて、「自由の子」として生きていて、これ以外はまことの福音とは言えない。このことをこういう時期だからこそ、しっかりと覚えたい。
・自覚的に「ああ、罪を犯してるなあ」と思ったときにどうすればいいのかというと、業を行うのではなく、罪の告白である。神の前に、イエス・キリストの御名によって、自分の罪を告白するときに、神は私たちを赦し、きよめてくださる。だから次にまた喜んで立ち上がって、「自由の子」として歩んでいくことができる。決して業によって帳消しにするという方向に行ってはならない。なぜなら、それはほかの福音であるからである。
以上を確認した。
【特記事項・次回案内】
次回は3月14日(日)14:00~17:30、重森宅にて開催します。内容は「60分でわかる新約聖書-テサロニケ人への手紙第一」です。またZOOMとの併用による開催は行いませんので、よろしくお願いします。(参加を希望される方は、HPを通してご連絡をくださいますようお願いします。)