「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」(3:1) 福音によって救われたガラテヤの信者たちは、エルサレムから来た律法主義者たち(その背後には偽りの父がいます)の教えに目をくらまされ、福音がもたらす自由を見失ってしまっていました。
パウロは、大切な兄弟姉妹の目を醒ますために①信仰体験に基づく議論、②聖書に基づく議論、③論理に基づく議論を展開します。
今回は、③論理に基づく議論です。
ガラテヤの信者たちが慣れ親しんでいたローマの習慣を背景に彼らが律法の下にいない自由な成人であることを教えます。
神が与えてくださるこの立場、特権には何の差別もありません。
あなたは、自由人として生きていますか?
もし、あなたが神に対して生きていないならば、あなたは確実に何ものかの奴隷です。
そして神に逆らう者が私たちを再び奴隷にしようとあらゆる策略を練っています。
そこから逃れる道は、神を愛し、隣人を愛することです。
わたしたちは、キリスト・イエスにあって一つの体です。
主は私たちが自由に生きるために私たちに「いのち」を与えてくださいました。
「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」(3:26~27)
父なる神の栄光と慈愛に満ちたご計画を知り、聖霊に導かれた歩みに与ることができますように。