三位一体についての学びレジュメ(11)2025年4/26
三位一体についての最後のレジュメ
2007年フルクテンバウム博士セミナー
『三位一体とは何か』についての学び
THE TRINITY
(テキスト)
ご購入はこちらから(CD)(テキスト)(MP3・PDF)
フルクテンバウム博士のメッセージを
中川健一牧師がわかり易く通訳してくださった
セミナーの内容を基に作成しています。
以下
青色の聖句はセミナーでとりあげられた聖句です
(セミナーでは新改訳3を使用しています)
(ここでは原則 口語訳聖書 旧約聖書1955年改訳 新約聖書1954年改訳 日本聖書協会 を使用しています)
「新改訳3」とは聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会
「新共同訳」とは聖書 新共同訳©共同訳聖書実行委員会j
「新改訳2017」とは聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会 からの引用です
黒色の文章がセミナーの説明文
緑色の文章はHP編者による補足説明
紫色の聖句は参考聖句
(英語訳は基本American Standard Version ASVです)
興味のある箇所はリンク先もご覧になってみてください。
紙の聖書「新改訳2017」はこちらをどうぞ
三位一体
イントロダクション
定義 アリウス主義 サベリウス主義 ソッツッーニ主義 ユニテリアン主義 三神論
Ⅰ.神の位格の複数性
A.旧約聖書において
1.エロヒムという複数形の名詞
2.エロヒムに使われる動詞が複数形になっている箇所
3.エロヒムが二位格に適用されている箇所
4.ヤハウェが二位格に適用されている箇所
5.アドナイという複数形の名詞
6.複数形の代名詞
7.複数形の形容詞
8.主の御使い
9.神の子
10.神人という概念
11.聖霊
B.新約聖書において
Ⅱ.神の位格の単一性
A.旧約聖書において
1.われわれに似るように、われわれのかたちに
2.複数形の名詞と単数形の動詞
3.エルとエロヒムの同時使用
4.集合体としての単一性(申命記6:4)
a.エハッド b.ヤヒッド
5.ヤハウェ自身の宣言
B.新約聖書において
Ⅲ.三位一体
A.旧約聖書において
B.新約聖書において
1.三位格だけが神と呼ばれている。
2.三位格だけが神の特性を持っている。
3.三位格だけが神の働きをしていいる。
Q&A 1/2 2/2
Q&A 2/2
Q11
神が持っている権威と
牧師に与えられている権威の違いは何か?
A11
神の権威と牧師の権威なんて比較することすら恐ろしい
神の権威:
上からくる完璧なもので間違いを犯すことのない権威
人間の権威:
どんなに知恵がありどんなに素晴らしくても間違いを犯す可能性がある
聖書はどこを見ても地域教会が一人の人に権威が与えられる形で導かれるという教えはない
聖書を見ると地域教会は皆独立して自主的に運営されるが
複数のリーダーがたてられる形になっている
そのリーダーたちは長老という名前で出てくる
教会を管理する長老とみことばを解き明かす長老と両方含まれている
よって教会の決定は複数の長老たちが集まり複数で決定するものであり
一人の人が専制君主のように支配して決定することは聖書にはモデルとして無い
神の権威は無限だが人間の権威には限界がある
だから教会の長老たちが決める内容にも自ずと限界がある
教会がどのように礼拝するか
どの外部の働きをサポートするか
おもに教会の運営に関わることについての決定権
また地域教会に辱めをもたらす罪を犯している人を呼んでその人に語りかけ軌道修正するような働きも長老会がやる
そして必要であれば教会が訓戒を行う
けれども信徒一人ひとりの個人生活について何せよこれせよという権威は与えられていない
その長老会は信徒に向かいどの学校に行けとかどの職業に就けとか誰と結婚せよとか命じる権威も与えられていない
信者一人ひとりが主と個人的な関係を築いてその中で選び取らなければいけないエリア
私たち自身が神の前で選びとらなければいけないこと
例)
教会がこの働きは支援しないと決めたとして
あなたが神さまの前で支援したいと思ったら支援することはあなたの自由
それが新約聖書が教える教会の形
もし教会の一人のリーダーが
神が私にすべての権威をお与えになった
これからクリスチャンとしてあなたが如何に生きるべきかを私はあなたが死ぬまで指導してあげると言ったら
これは権威の領域をはるかに踏み外している行為
Q12
聖霊に逆らう罪は赦されないと書かれてある
その意味を教えてほしい
A12
(中川健一牧師による回答)
マタイ12章
詳しくはイエスの「メシアの生涯」(65回目「ベルゼブル論争」)を聞くといいが
よく出てくるので再度(フルクテンバウム博士に)聞いてみる
(フルクテンバウム博士による回答)
マタイの12章
(終末論のクライマックスレジュメ(1)(2))
マルコ ルカにも出てくる
マル 3:28 まことに、あなたがたに告げます。
人はその犯すどんな罪も赦していただけます。
また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、
とこしえの罪に定められます。」
3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。
(新改訳3)
ルカ 11:31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。
なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。
しかし、見なさい。
ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。
なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。
しかし、見なさい。
ここにヨナよりもまさった者がいるのです。
マタ 12:31 だから、わたしはあなたがたに言います。
人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。
しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。
これが聖霊に逆らう罪は赦されないと書かれてあるところ
文脈からこの罪は何かということを判断しなければならない
このように定義したらいいだろう
イエスがメシアであることを当時のイスラエル人たちが民族的に拒否したこと
これが罪
そしてイエスは悪霊に憑かれているという理由で イエスを拒否した民族的罪
これは個人的に犯せる罪ではなくて民族的な罪
またこれはイエスと同時代のユダヤ人にのみ適用される罪であり
それ以降のユダヤ人が犯せる罪ではない
その罪の結果ローマ軍によりイスラエルはエルサレムが神殿と共に滅ぼされるという裁きを身に受けた
また約束の地から世界の隅々まで離散して行く民になった
このさばきが起こったのが紀元70年のこと
それ以降のユダヤ人たちでイエスさまがメシアであることを受け入れた人たちはイエスの再臨を来たらせるためのユダヤ人の流れを作っている
今日クリスチャンが個人的にこの罪を犯せるものではない
私たちがメシアの血をとおして神に近づくならば個人的に犯したどんな罪でも赦していただけるのが福音の内容
下記福音の三要素へ
Q13
イザヤ書48:12~16これは非常に重要な場所だとあった
これをイザヤが書いた時にイザヤはそれを理解して書いたのだろうか?
それとも自分でもわからないけれども示されるままに書いたのだろうか?
イザ 48:12 ヤコブよ、わたしの召したイスラエルよ、わたしに聞け。
わたしはそれだ、わたしは初めであり、わたしはまた終りである。
48:13 わが手は地の基をすえ、わが右の手は天をのべた。わたしが呼ぶと、彼らはもろともに立つ。
48:14 あなたがたは皆集まって聞け。
彼らのうち、だれがこれらの事を告げたか。
主の愛せられる彼は
主のみこころをバビロンに行い、その腕はカルデヤびとの上に臨む。
48:15 語ったのは、ただわたしであって、わたしは彼を召した。
わたしは彼をこさせた。彼はその道に栄える。
48:16 あなたがたはわたしに近寄って、これを聞け。
わたしは初めから、ひそかに語らなかった。
それが成った時から、わたしはそこにいたのだ」。
いま主なる神は、わたしとその霊とをつかわされた。
A13
預言者ダニエルの場合もそうだが書く時に全部のことを理解していたわけではない
預言者はただ示されたのでそれをそのまま記しているというのが正解
イザヤが言われていることに関して全く無知であったともここからは感じられない
ここだけではなくイザヤは何度か三位一体の神概念に関する預言をしている
イザヤはほかの預言者と比較しても最もメシアに関する啓示を受けた預言者
だからイザヤはこれを書いた時にその内容について理解していただろうと類推できる
(フルクテンバウム博士に再度確認した答え)
イザヤは神が唯一であることとその神の中に複数性があるということは感じとっていた
ただしその複数性が3であるつまり私たちが今理解しているような三位一体という概念はなかったかもしれない
ただ3以上は出てきてないという感覚は持っていた
そういう意味でまでならイザヤは理解していたと考えるべきだろう
Q14
復活されたイエスさまが500人以上の人に現れた
イエスさまが現れてくださった500人以上の人だけが救われていた人なのか?
Ⅰコリ 15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。
その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
(新改訳3)
A14
救われていた人は500人以上いた
ただ復活のイエスが現れたのが500人以上だったということ
イエスをメシアとして信じた人は全員救われた
しかし全員が復活のイエスに出会ったわけではない
復活のイエスに出会っていない人たちもどこか別のところで信じて救われていた
Q14-2
では復活したイエスに出会った人たちは出会っていない人よりも何か利点があったのか?
A14-2
私たちは出会った人は恵まれていた 出会ったのだからより信じやすいのではないかと思う
確かに信じやすいという面ではそうかもしれないがその人たちの方がより祝福されていたかどうかについては疑問
イエスさまがトマスに言った言葉を思い出してほしい
あなたは見たから信じたのか、見ないで信じるものは幸いだとイエスさまは言われた
復活のイエスは見ていないがそのことばだけで信じた人の方がより神さまからの目から見たら祝福されているということができる
だからここにいる私たちは復活のイエスに出会ったわけではないが聖書の証言だけで信じているわけで
それはより大きな恵みに与っているということになる
ヨハ 20:29 イエスは彼に言われた、
「あなたはわたしを見たので信じたのか。
見ないで信ずる者は、さいわいである」。
Q15
主と神の違いについて教えてほしい
A15
(中川健一牧師による回答)
ヘブル語で(つまり旧約聖書において)
「主」は「ヤハウェ」 YHVH
「神」は「エロヒム」Elohim
ヤハウェとエロヒムの違いについて
[主]という言葉
単数形 必ず神を指す
三位一体の神を指す
ヤハウェ 英語でJehovah という言葉は固有名詞
私は「中川健一」 固有名詞
エロヒムということば
普通名詞
神
偶像になったら神々
私は普通名詞で言うと中川健一は「人間」
エロヒムという言葉はまことの神を指す場合もあるし偶像を指す場合もある
・・・・・
最近時々聖書の中で「エロヒム」という言葉を「神」と訳したのはおかしいと言って抗議をしてくる方がいる
あるいは聖書の「神」という言葉を訳し直すべきだと言ってくる方がいる
私のところにもそういう抗議の手紙が来たことがある
私の小説を読んでそういう抗議をしてきた方もある
聖書はそういう構造になってない
聖書はエロヒムを「神」と訳している
それでいい
なぜいいかというとエロヒムという言葉はまことの「神」を指す場合と「偶像」を指す場合と両方ある
だから神という言葉を私たちが否定したなら偶像は神でないわけ
その人たちの論理から言うと偶像は神ではない
偶像は神でないのなら偶像礼拝してもいわゆる聖書が言う偶像礼拝にならないということになる
あるいは多神教や一神教という言葉自体が意味をなさなくなる
だから固有名詞としての「ヤハウェ」と
普通名詞としての「エロヒム」「神」という言葉とは両方必要
神と言った場合にそれはまことの神と偶像とを共に含んだ概念であると保持し続けなかったら言葉の意味が崩れてくる
多神教や一神教という言葉を論じることができなくなる
あるいは偶像を神のように扱う しかし本当は神ではないので偶像礼拝そのものがもはや罪でなくなってしまう
偶像礼拝でなくなってくるという恐ろしさがある
だから聖書の「神」と訳してある言葉はそれでいい
エロヒムだから「神」あるいは「神々」と訳してもいい
そういう違いを分けておいてほしい
Q16
イエスの内住と聖霊の内住は一緒だと教えられたが私は疑問に思ってきた
教えてほしい
これはさっきの質問(Q&A8)とも関係してるが念のため聞いてみよう
A16
確かに違いがある
イエスは聖霊ではないし聖霊はイエスではないから
[イエスの内住と聖霊の内住が一緒だと言うとこれは違う]
父なる神は神である 子なる神は神である 聖なる神は神である そこまでは正しい
しかし父なる神は子なる神ではないし子なる神は聖霊でもない
各々独立した3つの位格だから。
御霊が内側に宿るということとイエスが内側に宿るということとは違った位格のことを言っているわけだから
同じだということは厳密には違う
両方の位格とも内側に宿るがまったくこれは異なった人格
Q17
神は全知全能で遍在され人の心を読み取るそう
では悪魔あるいはサタンはどうなのか
人の心を読み取ることができるのか?
また遍在の如く現れることができるのか?
この方はお嬢さんの長い心の病で非常に悩んできていた
A17
サタンは被造物
創造されたものだから全能でもないし遍在しているわけでもない
しかしいろいろな能力があるかのように私達の前に現れることはできる
天使なのでここにいる我らよりも遥かに強い力を持っているので
あたかも全能であるかのように見せかけることはできるが全能でない
またサタンは全世界に広がる悪霊のネットワークを持っているのでその悪霊たちから情報が逐次上がってきてその知識が全知全能であるかのように見えるが実際はそうではない
一時に一つの場所でしか見ることができないのがサタン
アダムとエバ以来人間の行動パターンを観察する能力に長けている
人間の性質を非常によく知っている
その人の好みは私たちも知っているとすると二つのものを出したらその人がどちらを選ぶかは分かる
私(中川健一牧師)がフルクテンバウムさんにラーメンとスパゲティを見せたら彼は必ずラーメンをとるということを知っている
サタンが私たち人間にどういう刺激を与えたらどういう反応をするかはよく知っている
だからまるで全知全能のように見えるが本当はそうではない
私たちの心にあることをサタンは読むことはできない
私たちの思いの中にサタンの思いを入れることはできる
しかし私たちの思いを読み取れるわけではない
私達よりも力があるがそれにもかかわらずサタンとは限界を持った存在
Q17―2
サタンは人の心に思いを与えるだけではなく人の心の中に入ることもできる
サタンが入るのは大物だけか?
と(中川健一牧師はフルクテンバウム博士に)聞いた
A17-2
そうだ
あのイスカリオテのユダは大物
サタンが心の中に入った
将来で言えば反キリストの中にサタンが入る
[(中川健一牧師による)
だから反キリストになるわけ
私たちは小物ですから安心
サタンが入いるということはまずないだろう]
おそらくアドルフ・ヒトラーのような人には入ったのだろう
完全には言えないがやってきたことを見たらそんな感じがする
Q18
神さまはいつどこにでもいらっしゃる
2人でも3人でも集まっている所にいらっしゃると特別にイエスさまがおっしゃるのは
第二位格のイエスさまがいてくださるということか?
マタ 18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(新改訳3)
A18
三位一体の神が共におられるのだがその中でも働きが違う
この三位一体の神は遍在なので未信者のまわりにもいる
ただし心の中に住んでくださるのは信者の心だけ
マタイの福音書18章は教会の訓戒をどうするかという文脈
教会の主はキリストだから特に教会が信徒に対して訓戒を行わなければいけない場合に
教会の主であるイエスが特に中心的にここでは出ていらっしゃる
Q19
人間は過去に遡って永遠はないということだが
私たち信者は天地創造の前から救いに入れられてる予定されていたということで
これはどのように考えればいいか?
エペ 1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
(新改訳3)
Eph 1:4 even as he chose us in him before the foundation of the world, that we should be holy and without blemish before him in love:
A19
私たち人間はある時点で受胎し誕生して人生を生きて或る時点で死んでいく
私たちは死ぬ前の状態死んでからどうなるかという状態についてはっきりとした情報を持ってるわけではない
しかし神さまは全知全能だから過去何があったか今何が起こりつつあったか将来どのようなことになるかということをご存じ
エペソ書1章で神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選びとなっている
あの箇所は神さまは全知全能だから私たちが造られる前から私たちがキリストを信じて救いに与るということを予知しておられた既にご存知だったと言っているわけで
私たちが永遠から存在しているということを言っているわけではない
・・・・・
世界の基が置かれる前から救われる人たちが選ばれていたということに関してはどの学者も同意する
その予知ということ選びということがどういう意味なのかということについては論争がある
アルメニアン主義
神学の一つの立場アルメニアン神学では神は事前に知っておられたつまり予知していたと言う
神はその予知能力の故に誰がイエスを信じて救われるかをご存知であったと説明する
カルビニスト
カルビン派の人たちは神は救いに入る人たちを予定していたと説明する
その予定の故に誰が救われるかを知っていた
アルメニアン派の人たちはカルビニストに対して神が滅びに入る人と救われる人とをあらかじめ区別していたのはとんでもないと言ってカルビン派を批判する
Q&Aの時間ではこの二つの神学的立場の論争はもうこの辺にしておく
Q20
イエスさまは神であられる方なのになぜ父なる神にお祈りされたのか?
A20
父なる神に祈っているのは子なる神ではなくて人間としてのイエス
イエスが二つの性質を持っている
神として人として
これを覚えておいてほしい
イエスさまは神としてはまったく不足の無いすべてに満たしがあったお方
人間性においては様々な限界をもっていたから父なる神に祈らなければならないという状態にあった
だから父なる神に祈るのは人間性を持ったイエスさまが祈っている
Q20-2
(中川健一牧師がフルクテンバウム博士に)今質問したのは
イエスさまが公生涯で人間として生活されたわけだがその中で
神としての権威を用いたことがあったと思うか?
A20-2
イエスさまが受肉した時に神としてのあり方を捨てたとある
ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
(新改訳3)
Phi 2:6 who, existing in the form of God, counted not the being on an equality with God a thing to be grasped,
だから父なる神の許しなくして神としての権威を用いることはなかった
人間として生きてくださった
Q21
イエスさまはバプテスマを受ける前には聖霊の内住はなかったのか?
聖霊が鳩のようにくだったとある
ルカ 3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。
また、天から声がした。
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
(新改訳3)
A21
まず人間であるイエスさまの内側に聖霊が内住したことはない
なぜならイエスの人間性というのは罪のない人間性
聖霊がくだったのはイエスにメシアの働きをする力を与えられるため
だがそれは御霊がイエスの内側に内住したということではない
聖霊が下ったのは
士師記で士師たちが神の働きをするために聖霊がくだるのと同じような形で聖霊が下った
Q21-2
ペンテコステの前に聖霊の内住を経験していた信者はいたか?
A21-2
旧約聖書では聖霊の内住を経験していた人は例外的に何人かいた
例えば預言者たちの内側に御霊が宿っていた
しかしペンテコステ以降は全ての信者の内側に聖霊が宿っている
旧約聖書では内側に宿った聖霊が離れていく一時的なもので取り去られるということがあった
だからダビデはあなたの御霊を私から取り去らないでくださいと祈った
詩 51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
(新改訳3)
これは正しい祈り
しかし今新約時代は御霊が永遠に私たちの内側に宿られるので
その祈りは新約時代のクリスチャンはする必要はない
ラビジョーク
入れ歯編(割愛させていただきます)
三位一体(12)2025年5/3へ
三位一体のまとめメッセージ
(レジュメはありません)
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Q&A12で触れた私たちがメシアの血をとおして神に近づくならば個人的に犯したどんな罪でも赦していただけるという福音とは以下のことです。
福音
コリント人への手紙第一 15:3〜4
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、
私も受けたことであって、
次のことです。
キリストは、
聖書に書いてあるとおりに、
私たちの罪のために死なれたこと、
また、
葬られたこと、
また、
聖書に書いてあるとおりに、
三日目によみがえられたこと、
(新改訳2017)
キリストの十字架以降
すべての人が信じるべき福音の内容とは次の3つのことです。
福音の三要素
キリストは
① 私たちの罪のために死なれたこと
② 墓に葬られたこと
③ 三日目に復活されたこと
この特別啓示である福音の内容を理解し、同意し、イエス・キリストだけが自分を救ってくださる唯一のお方であると信じ信頼するなら、あなたは神さまの恵みと、信仰により救われます。
すべての罪から赦され、神の怒りから解放され、永遠のいのちをいただいてください。
恐ろしい患難期がくる前に今救いを受け取ってください。
信者には携挙という希望があります。
公の場での信仰告白や罪の告白、洗礼、悔い改め、明け渡しは「救いの条件」ではありません。
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クリスチャンライフ、この麗しきもの(1)
イスラエル旅2023春訪問歴70回超 中川牧師とめぐる旅(YouTube)
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ヨハ 3:16 神は、
実に、
そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、
一人として滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
(新改訳2017)
主の祝福が豊かにありますように。
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