必見
中川健一牧師より頂戴したメッセージです。
聖書フォーラムとは何か、大切な3つのポイントでわかり易く語られていますので、参加される方もそうでない方も、まずは是非お読みになってください。
2015年7月11日(土)14:00〜16:00
練馬桜台聖書フォーラム
中川健一牧師による開所式メッセージ
ここが23番目・・・
私たちが思っていたスピードよりも遥かに速いスピードで物事が起こっています。
聖書フォーラム運動というものが、日本のキリスト教史の中の一つのムーブメンとして記憶される形に今なってきてると思うのです。
振り返ってみても感謝なことに無理がない、とても自然、そして神さまが整えていらっしゃるということをすごく感じます。
形としてはホントに良いものを神さまがつくっていてくださるなあと思うのです。
23ありますが、一つとして似たようなところがない。
もう全部違います。
それは後で言いますけれども理由があるわけです。
今回、神戸、大阪の淀川、玉川学園前、そしてここ、とずっと連続して開所式に立ち会っていて、頭の中に或る幾つかの概念があるんですね。
今日は幾つ言っても余り記憶できないと思います(苦笑)
いつものように3つ、言います。
全部英語のCでスタート。
一つは コンテキスト(Context)文脈
文脈というのがどれぐらい大事なことか。
というのは、今日、この練馬桜台聖書フォーラムがたまたま出来たのではないということ。
ポツンと孤独に出来ているのでもないということ。
大きな文脈の中で出来てるんだということ。
仕事をする場合でもそうですが、建築家の方もそうだと思うのですね。
デザインを考える時に、その方の頭の中には建築に関する歴史的な流れがあり、そして今という時があって、デザインしていると思うのです。
ですから、過去のデザイナーや建築家たちがやってきた事を無視して今の建築、というのは有り得ないと思うのです。
それはあってますか?あってますよね。
ということは、僕らの活動もここまで歴史が動いてきた、その流れを無視してはこの運動は有り得ないっていう事です。
当然のこととして、これが起こっているのだということ。
では、どのあたりから文脈を探ればいいのかと言うと、正しくは使徒行伝からです(一同笑い)、正しくは。
使徒行伝から辿っていかなければいけないのですが、とても時間がない。
ただ一つだけ確認しておきたいのは、今起こっていることは使徒行伝の時代に起こったのと相似形。
とてもよく似たことが起こっているのだということ。
つまり、教会が未だ建物でも組織でもなかった時代に、人々は如何にしてイエス・キリストに導かれ、礼拝をささげ、信じる者の群れを形成したのかということです。
聖書では、教会とは建物ではなくて、信じる人々の集まりだと教えていますから、明らかにここには今、教会、或いは教会になり得る 萌芽があるわけですよね。
これは、使徒行伝の時代と同じことで、私たちは決して何か目新しいことをやっているのではなく、もともとあったものに回帰してるのだということ。
或いは、キリスト教の歴史の中でも、特に兄弟団、ブレザレンというようなグループは、私たちと似たような考え方で伝道してきたわけですね。
ですから、当初1つか2つか3つぐらいの頃は控えめに、これも教会になる種なんだというようなことを言っていたのですが、もう23もできてくるとこれは明らかに、個々の集まりとしても、或いは全体のグループとしても、教会だという確信が携わっている一人ひとりのうちにすごくできてきて、確信、安心、そして希望、そういったことがすごく出来上がってきている。
その文脈を私たちは忘れてはいけないと思うのです。
特に、最近の文脈で遡っていくと、1948年のイスラエル建国がまず大きなターニングポイントだと思うのです。
イスラエルが建国し、旧約聖書のイスラエルに関する預言が具体的に形をもって成就し始めたところから、聖書の読み方自体が大きく変わってくる。
それから、ユダヤ人でイエス・キリストを信じるのは当たり前だと。
つまり、イエス・キリストを信じることはユダヤ人として完成することである。
ユダヤ人として失格になるのではなくて完成することなんだという、ユダヤ人がイエスを救い主として信じるという流れが20世紀後半からでてきている。
それが今に至っているわけですね。
私たちはメシアニック・ジューと言うわけです。
ですから、私たちユダヤ人でない、異邦人と言いますが、異邦人が自分たちの本ではない本を読んで、自分たちの文脈でこれはこういう意味だろうと勝手に読んでいたことが、革命的に変わってくるわけですね。
イスラエル建国、メシアニック・ジューの出現、特にハーベスト・タイムに関してはフルクテンバウム先生、イスラエル聖書大学の教授たち、その流れの中で大きな指導と影響を受けているわけです。
日本で今起こっているこのムーブメントが、単独で、何もないところで、真空状態の中からでたのではなく、そういう歴史の文脈の中で誕生し、今あるんだということ。
ということは、この文脈というのは、次に繋げなければいけない文脈だということです。
このムーブメントは、決して組織的な教会を否定するムーブメントではないのです。
内村鑑三がスタートしたような、無教会というムーブメントではない。
組織的な教会も神さまの役割を委ねられていて、今後とも成長して欲しい。
ただし、日本のこれからの伝道を考えると、組織的な教会だけでは届かない部分が余りにも多い。
それで、こういう小さなグループで網の目のように日常生活の中に溶け込んでいくような伝道のあり方というのを見直さなければいけない。
僕は、最近よく冗談のように言うのだけど、まるでコンビニのようにね、全国に広がり、生活圏の中で、聖書を学びたいと思う人がすぐに集って学べるような場所。
それから、今日も、参加者一人ひとりに少しずつ話して頂きましたが、組織的な教会で、形式を守る礼拝の中ではなかなかこういうことでてこないのです。
こういう集まりだからこそでてくる。
どなたかが何か発言した時にそれに対して、じゃあ今日はその方の質問に答えるような感じでみんなでこのテーマ考えましょうとかね。
プログラムも自由自在に、来られている方への応答として、臨機応変に対応することができることで、実質的な意味での聖書の学びができる、こういう文脈があるということ。
これをまず、覚えていただきたいと思うのですね。
二つ目のCは コンテンツ(Contents)内容
集まった時に 何を話し合うのかですね。
今までは多くの場合、聖書を読んでその中から何を感じましたとそれぞれが感じたことを話して終わっていたのです。
10人いたら10通りの受け止め方があるのですが、「では、どれが正しい受け取り方なの?」とはあまり言わないで、「それぞれが受け取ったんだからいいんじゃないの」という風に終わっていたのですね。
ところが、どんなものであっても、それは意味があるんですよ。
また建築の話になるのだけど、設計士が基本設計をして施工業者に渡した時に、施工業者が設計士の意図を無視してみんなそれぞれ思い通りのことをやる、内装業者、外装業者、躯体つくる人。
そうしたらぐちゃぐちゃになっちゃうじゃないですか。
だから、設計士には意図があるんですよ。
聖書のアーキテクトは誰かというと、神さま。
神さまは意図があるんですよ。
神さまは意図を持っていて、私たち一人ひとりの人生に対しても意図を持っている。
大きなことを言えば、全宇宙を新しくしようとする壮大な建築プログラムを持っていらっしゃるわけですよ。
それはもう、今度の国立競技場のもめている、あんな規模じゃなくて、宇宙大の規模のプランを持っていらっしゃるわけです。
僕らはそのプランを見ないで、設計士がだしてきた中で内装のこの壁紙の色が気にくわないとかね、そういうレベルの話しかしていなくて、その建物がどういう意図をもってデザインされていて、そこに住む人がどうなのかというようなね、この心踊るようなものの分かちあいが非常に希薄なんですよ。
たいては日常生活のこまごました悩みの相談と、悩みの分かち合いで終わる。
それが重要じゃないと言うのではなくて、むしろ壮大な神さまのデザインを分かち合った時に、その大きさから比べると、私が今持っている悩みは小さなもので、AになったってBになったってどっちでもいいんだ、となるとものすごく大らかになって逆にいい結果がでてくるんだよね。
だから、直面している問題を話しあうよりは、神さまの壮大な計画を話し合い、そこからいかに生きるかと発想を転換していくこと。
これが、この聖書フォーラムの特徴、コンテンツですね。
ですから、常に大きなテーマ、つねに壮大な計画について 私は論じて欲しいなと思う。
その時に、間違いない方法は何かというと、聖書はユダヤ人社会の中で、ユダヤ人の言葉で、ユダヤ人の概念で書かれているから、大事なことは当時の人がそれをどう理解したのかというところに立ってそれを理解したのち、じゃあ今の私たちにそれがどう適用されるのか。
これがユダヤ的に読む、ヘブル的聖書解釈ということで、聖書塾をでた人は皆それはもう叩き込まれていると思うのですね。
それがこの特徴なんです。
だから、今までの日本の無教会派が聖書研究中心にやる、ブレザレンの人たちが同じような形でやる、それと今の聖書フォーラム運動の根本的な違いは何かというと、ヘブル的聖書解釈がコンテンツのベースにあるということ。
これがね、いわば僕らの唯一の武器なんだよ。
僕らの武器といったら何にもないの、これが唯一の武器だってこと。
だから、コンテンツをそこにいつも持っていくということ。
そして3番目がね、コミュニティ(Community)
従来の形というのは聖職者がいて、そして一般の信徒がいる。
そういう区別というのは歴史上必要だからうまれてきたものだけれども、本来聖書が教えているのは全員が祭司なんです。
そして、聖職者と一般信徒の区別は想定されていない。
特に新約時代は。
この聖書フォーラム運動のコミュニティとは何かと言うと、この集まりに来た時にお客さん、或いは傍観者はいない。
みんなが主体的に参加して、みんなが主役になっていくことね。
私と各フォーラムのリーダーの関係で言えば、これもキリストにある同労者の関係です。
僕は多少経験がある者として何かあれば神学的実際的相談に応じて一緒に考え、励ましあいます。
でも、私の言うことにみんなが従ってくるという、そういうヒエラルキーじゃない、そういう階層的組織ではなくて、キリストを中心にみんなが同じ平面で広がっていってる組織だということ。
これが集まった時のみんなの意識にやっぱり反映されてくる。
この形でやっているので、さっき言った、同じものが一つとしてないというのは何故かと言うと、そこに、神さまがたてているリーダーの特質、それから集会する場所、この二つによって、同じことを語っていても雰囲気が全部違う。
また、プログラムの内容も全部違う。
これOKなんです。
従来は 伝道する、開拓伝道というと、まずはアパートかビルの一室を間借りしてスタートして、ある程度の人数が来ると教会建築を考える。
それが小さくなると、更に大きくしましょう。
もしね、聖書フォーラム運動が建物や形式にこだわっているとしたら、こんなスピードでいくはずがないのです。
僕らは一切物理的制約から自由になって、集まれる場所で、集まれる時間に、集まれる人が、集まれる形でやりましょうという最も実質的な形を採用している。
これがね、さっき言った使徒行伝の時代の伝道なんですよ。
だから、或る意味、こうでなきゃいけないという教会観に対するチャレンジでもあるわけ。
コミュニティというのは何なのか、結局人なんです。
人が、キリストを信じている人が集まるから、そこに教会がある。
その中に神さまがともにいて臨在していてくださる。
さっき榊兄弟が言ってくれたけど、そこにはお互いの信頼と愛の交わりがあるんだと、一人ひとりに神さまが賜物を、良きものを与えていてくださるから、それを分かち合うことによってお互いが励ましを受けるということ。
それがこの集まりだけではなくて、全国に広がるフォーラムのネットワークの中で言えるっていうことね。
フォーラム運動のリーダーが集まると、妬み、羨ましさ、そういうものは一切ない。
何故かと言うとみんな同労者で、競争相手ではない。
みんなが同じことをやり、或る意味では同じ苦難を共有してるわけね。
やりだしたらわかるけど、人間の集まりだからいろんな悩みがでてくる。
自分がその立場に立たされてみると、簡単にリーダーを批判できないなあというのがわかってきて、お互いがすごく助けあい、祈りあう関係になってくる。
これもコミュニティなんだよね。
だから、競争相手ではなくて、キリストにある同労者なんだってこと、これがコミュニティのものすごく重要なポイント。
ローカルレベルにおいても、全国レベルにおいてもそれが言える。
今日アメリカでオレンジカウンティーがスタートした。
これと連動しているというのはすごいことで、今度ヨーロッパからも
ネットワーク的な繋がりは始まっていくよ。
だから僕らは自分のローカルな場所で生きながら、いろんな所に友達がいる、ファミリーがいるというそういう認識で動いていくことができる。
これがコミュニティ。
いま三つ言ったね。
コンテキスト、それからコンテンツ、コミュニティ。
この3つを今日、南ご夫妻にお祝いの言葉としてお贈りしたいと思います。
・・・・・
中川先生ご夫妻、榊長老、参加者の方々、ありがとうございました。
2021年現在、聖書フォーラム、バイブルスタディの数は60を超えました。
主の働きがさらに進んでいきますように。