本日、第11回ナオミ会を開催しました。
【賛美】
① いつくしみ深き
② 心に主イエスを
【テーマ】 アガペ― その2
関連聖句1 マタイ22:37〜40
イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』という第二の戒めも、これと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
関連聖句2 Ⅰコリント13:2〜7
たとえ私が預言の賜物を持ち、あるゆる奥義とあるゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がなければ、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に外れることをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
※今与えられている人生の恵みの大きさを感じながら、共に分かち合いたい。
【分かち合い】
- 母が語る石童丸の話では、修行に出された幼い石童丸が、泣きながら家に帰って来ても、母親は門を開けず、泣きながら 追い返すシーンがある。その厳しさが、素晴らしい母の愛だと教えられてきた。私もそうなんだなと思ってきたが、聖書の中の放蕩息子の話を聴いた時に、それとはまったく反対であった。息子が放蕩の限りを尽くしているのに、お父さんが息子の影が見えるんじゃないかと毎日道に立って、息子が見えたら走って行ったと書かれている。その話を聴いた時に、お寺の話と聖書の話の違いにショックを受けた。人がその話を聴いたら、放蕩息子の兄のような反応するほうが多い。しかし、そうじゃないんだ。自分でも自分を忌み嫌っている部分があるが、そんな自分さえ受け入れられると、このことを通して思わされた。
- 想像を超えた世界、神の取り計らいに目を向けるのがクリスチャンなんだと思わされた。愛が無ければ無だというイエス様の教えが、人生で実践されていることを証しさせて頂くことで、神に栄光を帰したいと思います。
- 一番大事なことは、伝えることも大事だが、出会う様々な人を愛するのが一番なんだ。愛の交流があれば、心が開かれて、御ことばが入って行き、伝道がスムーズにできるのではないかと思います。コリントの13章のメッセージ、神の無条件の愛を幼子の信仰で御ことばを信じ受け入れる。それが神様の愛を受け取ることじゃないか。道で会う人、他のどんな方でも愛し、そのひとの祝福を祈ることが愛なんじゃないかと思います。
- 聖書を学べば学ぶほど、皆さんと交われば交わるほど、自分からは何もできないな。神様にすがるしかないな。ナオミ会に入ったのも、私には意味があると思っている。神の測り知れない愛を体験し、あるがままに受け入れられる自分になりたい。様々なことに思いめぐらし、変な囁きに惑わされることなく、神様に目を向けて、主の愛に真っすぐ飛び込んでいく者でありたい。そして人をそのように愛していきたい。
- 生まれながらの自分では、自分を愛せない。イエス様が私のために十字架に掛かって全ての罪を取り除いてくださった。神で在られた方が神の在り方を捨てて、人間としてこの地に降りてこられた。この十字架の元に行って、イエス様の愛を受けた私でないと自分を愛せない。その愛がないと他人さえも愛せない。それは、自分の中に愛がないからである。
★次回のナオミ会は、8月8日(木)14:00~15:30です。