熊本聖書フォーラム

信者イコール弟子では、ありません 2022年10月23日

2022.10.26

カテゴリー:z その他

信者イコール弟子ではありません。

マタイ13:20~23には、3種類の信者が登場します。

1番目の岩地の人は、信者です。みことばを聞くと喜んで受け入れたからです。
しかし、困難や迫害が起こると、つまずいてしまいます。だからといって救いを失うことはありません。人は行いによらず、信仰によって救われたのですから、行いによって信仰を失うこともありません。神の救いは一時的なものではなく、永遠の救いです。

2番目の茨の地の人も信者ですが、この世の思い煩いと富の誘惑によって心の中のみことばがふさがれてしまい、実を結びません。

三番目は、良い地の信者です。この人は、みことばを聞いて悟る人で、30倍、60倍、100倍の実を結びます。この三番目が弟子です。

マタイ11:28~30では、弟子となるようにイエスが招いておられます。
29節、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」
みことばをイエスから学ぶためには、その前提として「わたしのくびきを負って」とあります。
くびきというのは、牛が荷車につながれて重い荷を引くときに、首につけられる横木のことです。イエスのくびきを負うとは、イエスに自分自身をささげて、ゆだねることです。弟子になるための入口は、献身です。

献身は決して牧師や伝道者になるためのものではなく、信者が弟子となるための入口です。
もちろん、信者が献身せず、弟子とならないとしても、救いを失うことはありません。
しかし、神のみこころは信者がみな弟子となることです。それは、実を結ばせるためです。

マタイ28:19 「ですから、あなたがたは出て行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

宣教の使命は、弟子をつくることです。【信者になったら、ゴールに到着】ではありません。それはスタートについただけなのです。そこから、さらに進んで、信者が献身してイエスの弟子となること、そして弟子となって実を結ぶことを、神は望んでおられます。

熊本聖書フォーラム

代表 :清水 誠一

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