□メシアの神性に関するイエスの質問(マルコ12:35〜37、マタイ22:41〜46)
■メシアの家系についての質問(マタイ22:41〜42)
パリサイ人たちが質問しなくなったので、今度はイエスが質問をします。
これは、メシア(キリスト)に関する理解を引き出すための質問です。パリサイ人たちはイエスをメシアとは信じていません。そこでイエスは、「私を誰だというのか」という質問ではなく、「一般的にメシアはだれの子か」という質問をしたわけです。
■パリサイ人たちの回答
「ダビデの子です」。
当時の人たちは、メシアがダビデの家系から誕生することは知っていました。しかし、メシアはそれ以上のお方であることを理解していなかったのです。
■メシアの神性についての質問(43〜45節)
ここは、詩篇110:1からの引用です。イエスは、ダビデが聖霊によって預言しているとしたうえで、ダビデがメシアを「主」と呼んでいる。なぜ、ダビデの子孫から生まれるメシアに対して、「私の主」と呼ぶのか。
■結末(46節)
パリサイ人たちは沈黙しました。パリサイ派はこれまで、イエスが自分を神に等しい者としたと責めてきました。もしここで、ダビデの預言に従ってメシアの神性を認めると、イエスが自分をメシアであると宣言し、同時に神に等しい者としたとしても、それ自体は責められないことになるからです。
パリサイ派は、旧約聖書の権威を重んじながら、ことイエスのこととなると、聖書に書かれていることに目を閉じてしまいました。
この日以来、イエスにあえて質問する者がいなくなりました。
□「神の国に遠くない」
■もうひとつの記事
ルカの福音書には、別の律法学者との問答が記録されています。ルカ10:25〜37、ある律法学者による質問と「良きサマリヤ人のたとえ話」のところです。
名前はわかりませんので、こちらをAさん、今日読んだ箇所(マルコ12:28〜34)の方の律法学者はBさんとします。
Aさんは、「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるか」とイエスに質問しました。するとイエスは、「律法には何と書いてあるか」と質問で返します。
それに対して、Aさんは、律法を要約すると、神への愛と隣人愛であると答えます。この内容は、イエスが今回の律法学者Bさんに対して答えた内容と同じです。
しかし、このとき、Aさんには「賢い返事をした」とか、「神の国に遠くない」という評価は何もありません。イエスはAさんには、「それを実行せよ。そうすれば、いのちを得る。」と言いました。
すると、Aさんは「自分の正しさを示そうとして、『私の隣人とは、誰のことですか』とイエスに質問した」とあります。そこでイエスは「良きサマリヤ人のたとえ話」を語って、「あなたも行って同じようにしなさい。」と命じられました。
■良きサマリヤ人のたとえ話
ある人が、エルサレムからエリコに下る道で、強盗に襲われました。金目のものが奪われたのはもちろん、着物もはぎとられ、半殺しの目にあって道に倒れていました。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来ましたが、その人を見て助けるどころか、近寄りもせずに道の反対側によけて通り過ぎていきました。
同じようにレビ人も、通りかかりましたが、やはりよけて通り過ぎていきました。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中で来合わせて、彼を見てかわいそうに思い、近寄って助け起こし、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に載せて宿屋に連れていって介抱しました。
次の日、彼は2デナリ(労働者の2日分の賃金相当)を宿屋の主人に渡して、彼の介抱を頼み、もっと費用がかかったら、自分が帰りに払うと約束して出かけたという話です。
■祭司、レビ人、サマリヤ人
このたとえ話の登場人物で、レビ人というのは、イスラエル十二部族の中のレビ族のことです。レビ族は、エルサレムの神殿にかかわるいろいろな仕事、たとえば犠牲の動物を焼くための薪やきよめの水を準備する、捧げ物を受領して保管する、門衛(神殿警護)や賛美歌隊になる、といったことに従事しました(Ⅰ歴23章)。その中で、聖書を書写する、その内容を教えるという分野の専門家になった人々が、「律法学者」です。
また、祭司は、レビ族の中でもアロンの家系に属する人々です。神殿の聖所の中に入ることのできるのは彼らだけです。祭司は24の組に分けられました(Ⅰ歴24章)。それぞれの組の長が祭司長です。祭司長とは別に、大祭司がひとり立てられます。神殿の至聖所に入ることのできるのは、大祭司のみです。
サマリヤ人とは、サマリヤ地方に住む人々を指します。イエスの公生涯の時代には、ユダヤ人たちは、北のガリラヤ地方と南のユダヤ地方に住んでいました。その間にあるサマリヤ地方は、紀元前722年北イスラエル王国滅亡とアッシリヤへの強制移住、それに伴って異民族が入植し、残っていたイスラエル人との間で混血がすすんだ結果、イスラエル人でもない、全くの異民族でもないというサマリヤ人が住んでいました。
イエスの公生涯の時代には、ユダヤ人とサマリヤ人とは仲が悪く、ユダヤ人は「悪霊につかれた人」を意味する代名詞がわりに「サマリヤ人」ということばを使って、サマリヤ人を忌み嫌いました(ヨハネ8:48)。
■たとえ話の結論
イエスは、律法学者Aさんにこのように質問しました。「この三人(祭司、レビ人、サマリヤ人)の中で、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」。Aさんは、「サマリヤ人」とは口にしたくなかったのでしょう。「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えました。すると、イエスは言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」
■たとえ話の適用
良きサマリヤ人のたとえ話は、隣人愛についての麗しい物語としてよく知られています。まじめな人は、このたとえ話を読んで、「よし、私もこのサマリヤ人のように隣人を愛そう」と心に決めたくなります。しかし、このたとえ話の真意はどうも違うようです。
たとえ話のきっかけになったAさんの質問は、「私の隣人とは、誰のことですか」です。それに対して、イエスは「誰が強盗に襲われた人の隣人になったのか」を問題にしています。
つまり、Aさんたち律法学者は、「隣人とはご近所なのか、同僚なのか、同族なのか、あるいはユダヤ人全員、いや、ユダヤ人であっても取税人や遊女は除こう。」といった議論をしていたわけです。
それに対してイエスは、「そんな枠決めはやめなさい。神が『あなたの隣人を自分のように愛せよ』と命じておられるのは、そんなレベルではない。」と教えておられるのです。
Aさんの最初の質問自体、「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるか」、ここからすでに的外れです。救いは神以外にはありません。自分の行いでも自分を救うことはできません。自分の行いによらず、神の恵みにより、信仰を通していただくのが救いであり、永遠のいのちです。その原則は旧約聖書でも一貫しています。
モーセの律法は、自分の行いでは神の前には立てないことを明らかにするためにあります。罪を犯したら、犠牲の動物の血をささげて神との交わりを回復するように、教えられています。その血は、イエスが十字架で流す血の予表です。
なのに、Aさんは、自分の行いによって救いを得られるかのように誤解、いや思いあがっているのです。このような人には、イエスは徹頭徹尾「律法」を提示します。やれるものならやってみなさい、ということです。
■たとえ話の本当の意味
強盗に襲われて倒れている人は、当時のユダヤ人の民衆です。祭司とレビ人は、指導者層です。指導者たちは民衆を助けようともしません。
民衆を本当にかわいそうに思い、油とぶどう酒を注ぎ、介抱してくださり、いったん遠くへ出かけるけれど、お世話を別の人に託し、また帰ってくるサマリヤ人、それは誰でしょうか。イエスです。
実は、イエスをユダヤ人の指導者たちが「サマリヤ人」と呼んだことがあります。ヨハネ8:48です。彼らは、イエスがメシアとしての多くのしるしを見せたとき、悪霊につかれている、悪魔の力を借りてそのようなしるしをしているのだと誹謗して、民衆をイエスから引き離そうとしました。
■神への愛と隣人愛を完全にできたのは、イエスのみ
全存在をかけて神を愛することも自分のように隣人を愛することも、私たちにはできません。それができた人は、人類史上でただ一人、イエスのみです。イエスを信じる者は、その信仰によって神から義と認めていただくのです。
律法を要約すれば、確かに、神への愛と隣人愛です。
律法学者のAさんは、自分は律法の規定に従って動物の犠牲もちゃんと捧げ、収入の十分の一をきちんと献金し、貧しい人たちへの施しも人一倍励んできた。だから自分は神を愛し、隣人に良くしている。自分は正しいのだと自信のある人です。
それに対して、今日読んだ箇所の律法学者Bさんは、動物の犠牲を捧げたり、貧しい人に施しをしたからといって、それで神への愛と隣人愛が全うされたとはいえないと思っていたのです。これが「賢い返事をした」ということです。
しかし、そこで止まっていたら、神の国には入れません。もう一歩進んで、「自分にはできません。こんな自分を神様助けてください。」と願うこと、そして神はへりくだって近づく人を必ず受け入れてくださるという信仰が必要です。
彼が「神の国に遠くない」と言われたのは、「まだ神の国に入っていない」ということです。