□文脈の確認
三年半にわたるイエスの公生涯は、最後の一週間にきています。ここでイエスは、旧約聖書の出エジプト記に登場した「過越の小羊」として、十字架に付こうとしています。過越の小羊は、ユダヤ暦のニサンの月10日から14日まで、しみや傷がないかどうか、吟味を受けます。それと同様に、イエスは、4つのグループの指導者たちから挑戦を受けます。
■イエスの権威は神から来ているのか
第一のグループは、祭司長たちとパリサイ人たち。論点はイエスの権威についてでした。彼らの質問に対し、イエスは、「バプテスマのヨハネの権威はどこから来たか」と質問で返しました。
当時ユダヤ人の多くの人々が、バプテスマのヨハネを神からの預言者として認めていました。祭司長たちやパリサイ人たちとしては、ヨハネの権威を認めなければ民衆の反発が怖い、とはいえ、ヨハネの権威を認めたら、そのヨハネがイエスをメシアであると証言したのですから、イエスの権威はおのずと神から来ているとなります。
彼らは、「わかりません」と答えました。バプテスマのヨハネによる証言を無視し、イエスが行った多くのしるしによって、イエスのメシア性は証明されているのに、それを悪魔から来るものとして誹謗する、この頑なさが、彼らの問題点でした。
イエスは、彼らの問題点がわかるように、3つのたとえ話を語りました。父親とふたりの息子のたとえ話、ぶどう園の主人と農夫のたとえ話、そして婚宴のたとえ話です。
■カイザルに税金を納めてよいのか
次は、第二のグループ、パリサイ人の弟子たちとヘロデ党の者たち(素性を隠して)。論点は、ローマ皇帝カイザルに税金を納めてよいのか。納めるなと言えばローマへの反逆罪、納めろと言えば群衆の離反、どちらにしてもイエスを窮地に陥れようという質問です。
イエスは、「ローマに納めるデナリ銀貨の肖像は誰か」と質問で返しました。彼らは見てのとおり、「カイザルのです」と答えました。
そこでイエスは、「カイザルのものはカイザルに返せ。神のものは神に返せ」と教えました。神によって立てられた地上の権威によって、人は社会的な恩恵を受けている、人は地上の権威に服するべきである。同時に、人は神の支配のもとにあり、神を敬うべきである、と教えたのです。
■復活は、ありえるのか
第三のグループは、サドカイ人たち。論点は、復活についてです。ここでは、「復活なし」、「人は死んだらその霊魂もなくなる」と主張するサドカイ派の人たちが、不可解な設問を提示します。
モーセの律法に従って合法的に複数の男と結婚した女は、復活のとき誰の妻になるのか?
イエスは、そんなおかしげな質問をするのは、聖書も神の力も知らないからだと、彼らを一蹴します。そして、出エジプト記を引用して、「モーセに告げられた神の名は『アブラハム、イサク、ヤコブの神』とある箇所を読んだことがないのか」と言って、モーセ五書の中に復活を前提にした箇所があることを示しました。
ここでのイエスの教えのポイントは二つです。第一は、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、彼らの霊魂は今、神の前に生きている。
そして第二の点は、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言えば、神が彼らに与えられた契約が連想されます。
その契約条項のひとつ、「この地を与える」という約束は、彼らが復活し、彼らがその足で約束の地に立つことで成就します。ということは、この契約は、復活があることを前提にしている、というのです。
■第4のグループの挑戦
今回は、第4のグループの挑戦です。そして、イエスからパリサイ人たちへの質問「メシアの神性」について取り上げます。今回までで、イエスに向けられた「小羊の吟味」は終わります。結果は、イエスには何の傷も問題も認められず、挑戦者たちは、もはや何の質問もできず、黙ってしまいます。
■アウトライン
①ひとりの律法学者の質問(マルコ12:28〜34)
律法学者の質問(28節)
イエスの回答(29〜31節)
結末(32〜34節)
②メシアの神性に関するイエスの質問(マルコ12:35〜37、マタイ22:41〜46)
メシアの家系についての質問(マタイ22:41〜42)
メシアの神性についての質問(43〜45節)
結末(46節)
□ひとりの律法学者の質問(マルコ12:28〜34)
■律法学者の質問(マルコ12:28)
「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
マタイ22:34を見ると、彼はパリサイ人です。イエスが復活についてサドカイ派を論破したので、パリサイ派は大いに感動しました。彼には、敵対心や隠された動機はうかがえません。マタイ22:34で「イエスをためそうとして尋ねた」とあるのは、律法学者たちの間で常に議論されてきたテーマについて、この際イエスならどう答えるのか知りたくて尋ねた、という意味です。
モーセの律法には、613の命令があり、うち禁止命令は365、積極命令は248と言われます。そして、613の命令すべてが重要度で同じというわけではなく、重要な命令と軽い命令に分けられます。とすると、最も重要な命令はどれか。あるいは、すべての命令をひとつに予約するとしたら、どうなるかということが、当時議論になっていたそうです。
■イエスの回答(マルコ12:29〜31)
ここは、申命記6:4〜5の引用です。最初の「聞け(ヘブル語でシェマ)」という言葉を取って、「シェマ」と呼ばれる有名な箇所です。敬虔なユダヤ人たちは、朝と夕に、これを唱えていました。ユダヤ教の根幹をなす命令です。
「主はただひとりである」とは、比類なき神であるということです。
「あなたの神である主を愛せよ」とは、意志を働かせよという命令です。そのことを具体的に説明するのが、続く部分「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして」となります。自分という存在のすべてをかけて神を愛せよという命令です。
31節 「次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』。この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
ここは、レビ19:18の引用です。神への愛と隣人愛とは、密接に関係します。モーセの律法を要約すると、この二つの命令になるというのです。
「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:40)
「律法と預言者」とは、旧約聖書全体を指します。この二つの命令が実行できたら、聖書の教えすべてが実行できたことになるというのです。
■結末(32〜34節)
律法学者は、イエスの回答に同意しました。ここで彼が、「主(ヘブル語でヤハウェ)」を口にするのを避けて、一般的な神を意味する「神」という言葉を使って返事しているのは、ユダヤ人の習慣です。
「全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています」というのは、儀式的清めに対して、自分の霊的・内面の現実こそ重要であるということです。実は、このことに気づかせることが、モーセの律法が本来果たすべき役割です。その点に言及したことが、「賢い返事をした」という評価になります。
彼は、イエスに対して心が開かれています。イエスも、彼が賢い返事をしたのを見て「あなたは神の国から遠くない」と言われました。その後、彼がイエスを信じて救いを受け取ったかどうかは、聖書に記述がなく分かりません。この「あなたは神の国から遠くない」の意味については、あとで、もう少し考えてみたいと思います。