□サドカイ人たちが復活について不可解な質問をする
ルカ20:27〜40を開いてください。小羊の吟味をする第三のグループは、サドカイ人たちです。福音書には、「パリサイ人」と「サドカイ人」が頻繁に登場します。両者とも当時のイスラエルで指導的地位にあった人々で、ユダヤ教のパリサイ派とサドカイ派に属する人々のことです。
■サドカイ派の特徴を列挙すると
①当時の大祭司や祭司長たちは、サドカイ派で占められていました。紀元1世紀のユダヤ社会では、神殿運営は巨大な集金マシンです。祭司職は、裕福な貴族階級になっていました。
②その利権をバックに、サドカイ派は社会的な権力者ともなっていました。サンヘドリン(ユダヤ議会)の議席(70席+議長)の過半数を占めていました。ただし、少数派のパリサイ派は民衆の支持を集めていたので、パリサイ派の意見は尊重されました。
③サドカイ派は、ローマの支配を受け入れていました。
④イエスの活動には、当初さほどの関心を示しませんでした。しかし、イエスのまわりに民衆が集まり、民衆蜂起につながりそうになってくると、イエスを危険視しました。ローマが介入してきてサンヘドリンの自治権を縮小、ひいては神殿運営権を自分たちから取り上げる事態になるかもしれないからです。
■サドカイ派神学の特徴をパリサイ派神学との違いから見ると
①口伝律法を認めず、書かれた書だけを権威あるものとします。書かれた書というのは、ヘブル語聖書、今の旧約聖書です。
②書かれた書の中でも、教理を導き出すためには、モーセ五書だけを用います。それ以外の書は、教訓を学ぶためのものとして扱います。モーセ五書というのは、旧約聖書の最初の五つの巻、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記です。
③神は人の日常生活には、介入しないと考えます。
④死者の復活は、ないと考えます。
⑤死後の生命も、ないと考えます。肉体の死とともに、霊魂もなくなると考えます。
⑥したがって、死後の裁きや報奨もないと考えます。
⑦霊界は存在せず、天使や悪魔は、いないと考えます。
こう見てくると、徹頭徹尾、神殿祭儀と地上生活中心の教えです。紀元70年のエルサレム崩壊により、神殿がなくなると共にサドカイ派が歴史から消えたわけが理解できます。
■サドカイ人たちの質問(28b〜33節)
この質問の背景にある律法の規定は、申命記25:5〜6です。これは、寡婦を守るための規定であって、復活があるかどうかを教えた箇所ではありません。しかし、サドカイ派がこの規定を持ち出して質問をしているのは、次のような意図があります。
子をもうけずに夫が死んで寡婦となった婦人は、夫の弟に嫁ぐことになる。もし復活があるとすると、復活のときには、その婦人は兄か弟、どちらの男の妻になるのか。しかし、モーセの律法がそこまで言及していないということは、律法は復活なしを前提としている、と言える。
この主張に対して、パリサイ派は反論することができずにいました。サドカイ派は、これまで復活の議論になると、この質問を出してパリサイ派を困惑させてきましたので、イエスも同様に答えに窮するものと思っていました。
■イエスの回答前段(34〜36節)
イエスは、サドカイ派の主張をあっさりと切り捨てます。そんな質問をするのは、神のことも、聖書のことも、何もわかっていないからだ。そして復活の体に関して要点を教えます。もはや死ぬことのない体であり、結婚して子孫を残す必要はありません。復活して新しい体を受けると、私たちはもはや結婚することはない、というのです。
■イエスの回答後段(37〜38節)
次に、モーセ五書の中に復活の証明があることを教えます。出エジプト記3:6で、神はモーセにご自身の名を明らかにしておられます。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という名です。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも過去の人、モーセたちユダヤ人の先祖です。もし、サドカイ派が主張するように、死後の生命はなく、肉体の死とともに霊魂も消滅するとしたら、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、この時点ではすでに存在しないことになります。
ここで、イエスは「神は、生きている者の神である」と言います。「アブラハム、イサク、ヤコブの神であった神」という表現ではなく、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という表現ができるというのは、その時点で、「アブラハム、イサク、ヤコブ」の霊魂が生きている証拠です。
さらに、この名「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という名は、創世記において、神がアブラハムと契約を結び、カナンの地を与えるという約束をされたことを思い起こす名です。この契約はイサク、ヤコブにも引き継がれました。「アブラハム、ヤコブ、イサクの神」とは、「この契約の神」という意味にもなります。アブラハムたちはその存命中に約束の地を所有したことはありません。神の約束は必ず成就するとしたら、彼らは復活して約束の地に立つはずです。この名には、復活の予告が含まれているのです。
■結末(39〜40節)
復活などモーセ五書のどこにも書かれていないと鼻先で笑っていたサドカイ派が、イエスの教えの前に沈黙せざるを得ませんでした。横で聴いていたパリサイ派は、それまでのイエスに対する敵対心を一時忘れて、この明快な教えに感動しきりです。