熊本聖書フォーラム

メシアの生涯 / 小羊の吟味「カイザルへの税金」・「復活」 その1

2016.06.13

カテゴリー:y メシアの生涯

□文脈の確認

本日は、中川先生のメッセージ「メシアの生涯」第159回と第160回から学びます。まず、前回までの流れを確認しましょう。
今、私たちは、イエスの公生涯の中で最後の1週間に来ています。ここでイエスは、出エジプト記に記された「過越の小羊」として、十字架に付こうとしています。過越の小羊はイエスの型であり、イエスは本体です。
過越の小羊は、ニサンの月の10日から14日まで、しみや傷がないかどうか、吟味を受けました。同様に、イエスは、彼をメシアではないと主張する4つのグループの指導者たちからの挑戦を受けます。
前回は、第一のグループ、祭司長とパリサイ人たちでした。論点はイエスの権威について。これに対して、イエスは、質疑応答のやりとりをする、質問に対してときには質問で返して相手の考えを引き出す、わかっていることは教えないといったラビ的議論の進め方を通して、彼らの問題点を指摘しました。
彼らの問題点とは、聖書が預言していたとおりにイエスがメシアとして来ているのに、それを認めない頑なさです。この問題を指摘するために、イエスは3つのたとえ話を語りました。ひとつめは父親とふたりの息子のたとえ話、二つ目はぶどう園の主人と農夫のたとえ話、そして三つめは婚宴のたとえ話でした。

 □今回のアウトライン

今回は、第二と第三グループからの挑戦を扱います。
第二のグループは、パリサイ人たちとヘロデ党の者たちです。彼らは、イエスをわなにはめるような質問を仕掛けてきます。マタイ22:15〜22です。次の第三のグループはサドカイ人たち、復活について不可解な質問をしてきます。ルカ20:27〜40です。

 □パリサイ人とヘロデ党の者たちが、イエスを陥れようとする

■パリサイ派の策略

第一のグループにいたパリサイ人の指導者たちは、イエスから指摘された問題点を謙虚に受け止めるのではなく、逆にどうやったらイエスを窮地に追い込めるかを考えました。マタイ22:15には、イエスをことばのわなにかけようとしたとあります。16節、彼らは、今度は自分たちで行かないで、弟子たちにイエスに質問をさせます。しかも、ヘロデ党の者たちを同行させました。普段は、パリサイ派とヘロデ党とは、仲がよくありません。今回の質問は、ローマへ税を納めることについてなのですが、これについての両者の主張は全くの正反対でした。一言でいうと、パリサイ派は反ローマ、ヘロデ党は親ローマの立場です。

■パリサイ派は、納税は好ましくないという立場

パリサイ派にしてみると、ユダヤ人は神の選民であり、異邦人であるローマの支配を受けるのは心外です。こんな状態に墜ちているのは、ユダヤ人がモーセの律法をきちんと守らないからだと考え、モーセの律法を完全に守っていると言えるためには具体的にどうしたらいいか、詳細な口伝律法を考え出して、それを民衆に教えていたのがパリサイ派です。メシアが来たら、この口伝律法を完全に行って見せて、さらに素晴らしい規則を命じてくれるはず、そして祖国を解放して、ローマの支配から脱することができるはずだと考えていました。そういうパリサイ派にしてみれば、ローマに税金を納めるというのは、いやいやながら、ということです。

■ヘロデ党は、納税すべだという立場

一方、ヘロデ党の主張は逆です。ヘロデ党は、政治的結社であって、宗教的なグループではありません。亡きヘロデ大王の親ローマ政策を積極的に支持するグループです。歴史的にユダヤの地は、北のシリヤや東のメソポタミヤ、南のエジプトといった周辺の肥沃な地帯に勃興する強大国との力関係に左右されてきました。当時は、ユーフラテス川を境に東の大国パルティアと西の大国ローマが向き合っていた時代です。ヘロデ党の人たちは、安全保障と経済の安定を考えれば、ローマとの友好関係は不可欠であり、そのためには、ローマの支配層との人脈を持つヘロデ家が実権を掌握していく方がイスラエルのためになると考えていました。よって、ローマに税金を納めることは、ローマとの関係上、当然すべきことと主張していました。

■わなに掛ける質問

16〜17節をみましょう。パリサイ派の弟子たちは、偽善的な呼びかけをします。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。」
そして、わなに掛けるための質問をします。「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
これは、ローマへの反抗か従順かを問う質問です。

■もしイエスが「税金を納めてよし」と答えると

民衆が騒ぎ、イエスから離反します。彼らは、イエスがメシアなら、これでローマの支配から抜けられると期待しているからです。また、イエスがそう言ったとわかると、反ローマの急進派である「熱心党」が怒ります。下手をすると、イエスは熱心党によって暗殺されるかもしれません。

■逆にもしイエスが「税金を納めるのはだめだ」と答えると

今度は、目の前のヘロデ党が黙っていません。彼らはローマ総督に告発し、イエスはローマ総督に逮捕されて反逆罪で死刑です。

■イエスの応答

イエスはどう答えるでしょうか。ここでは、質問に対して質問で返す論法が登場します。
18節、イエスは彼らの悪意を知っておられました。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。」
19節、「納め金にするお金をわたしに見せなさい。」

■ローマに納税するための貨幣

それは、ローマが発行するデナリ銀貨でした。そこには、皇帝カイザルの像が刻まれていました。

■カイザルとは

カイザルというのは、元々はユリウス・シーザーという指導者の名です。シーザーの発音は、ラテン語でカエサルです。彼自身は皇帝になりませんでしたが、後継者のアウグストがローマの初代皇帝になりました。そしてアウグスト以降、ローマの皇帝は即位するときに、それまでの自分の名に加えて、カエサルとかアウグストという名もつけて、自分がカエサルやアウグストの後継者であり、その統治方針を継承する最高指導者であることを示すようになりました。そのため、皇帝のことをカエサル、あるいはカイザルというようになったのです。

余談ですが、カエサルというのはラテン語で「象」の意味です。かつてローマは北アフリカの強国カルタゴと地中海の覇権を争って厳しい戦争を乗り越えてきました。そのころ、カルタゴの象軍団を打ち破った軍司令官に、「カエサル」という通称、尊敬の念をこめたニックネームがつけられたのが由来です。

■初代皇帝アウグスト、二代目皇帝テベリオ

ちなみに、初代皇帝アウグストは、イエスが誕生したときの皇帝です。ルカ2:1に登場します。ラテン語の発音では「アウグストゥス」です。二代目はテベリオ、ルカ3:1に登場します。イエスの公生涯時代の皇帝です。ラテン語の発音では「ティベリウス」です。

■デナリを1枚持ってきた

さて、イエスは税金に納めるお金を見せなさいと言いましたが、イエスも、相手方のパリサイ派の弟子たちも、誰も持ってはいなかったのです。神殿の中では、本来ローマの銀貨は誰も持っていません。神殿に納めるために使用する貨幣は、人や動物の像が刻まれていない貨幣で、ツロの銀貨やユダヤの銅貨が使用されていたからです。神殿の中には両替人がいました。ローマやギリシヤの銀貨を、ツロの銀貨やユダヤの銅貨に両替して、神殿に納めるお金を工面するためです。イエスが宮きよめの際に倒したのは、こういう両替人の台でした。当時、神殿の中の両替人は、高い手数料を取っていて、それが当時の大祭司にとって大きな利権になっていたのです。
19節、「そこで彼らは、デナリを1枚イエスのもとに持って来た」とあります。

■イエスの質問と相手方の答え

さあ、ここで、イエスが質問に対して質問を返します。20節、「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか」。

ローマのデナリ銀貨には、カイザルの肖像と銘が刻まれていました。二代目の皇帝のテベリオのときに発行された銀貨には、「Tiberius Caesar Augustus, son of Divine Augustus」というように、彼の名前と称号が刻まれています。名前は「ティベリウス・カエサル・アウグストゥス」、称号は「神君アウグストゥスの子」です。
ローマ人はギリシヤ人と同様、多神教の民です。そして功績を認められた皇帝は死ぬと神格化され、神になります。ですから、ティベリウスは、神となったアウグストゥスの子、神の子となるわけです。このあたりは、日本人にも、偉人たちが死んだら神として神社に祀るという点で、よく似た感覚があると思います。

21節、パリサイ派の弟子たちは答えます。「カイザルのです」。

■カイザルのものはカイザルに返せ

イエスはここで結論を言います。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

カイザルのものはカイザルに返せ、これは名言です。当時のユダヤ人たちは、ローマによる統治の恩恵を被っていました。ローマが造った道路、宿駅、郵便制度を利用していました。ローマ軍によって守られている平和を享受していました。彼らには、ローマに税を支払う十分な理由があったのです。

そして同時に、神のものは神に返せ、です。人は、地上の権威の下だけでなく、神の支配の下にもあります。それゆえ、神に対する感謝を表す必要があるということです。

■地上の権威

ここで、神から権限が委譲された地上の権威について触れておきます。旧約聖書のダニエル書4:17を見ると、地上の権威は神によって立てられるものだとあります。人間は地上の支配者に従う必要があります。
よって、ローマの支配を受け入れないパリサイ人たちの立場は、誤りです。新約聖書のⅠペテロ2:17にも、王に従うように勧められています。
ただし、神の権威と地上の権威が対立する場合は、信者は神の権威に従います。使徒の働き5:29をご覧ください。しかし、武器を持って対抗するのではありません。投獄されても、むち打たれても、主の名のゆえに苦しみや辱めを受けることをよしとするのです。

熊本聖書フォーラム

代表 :清水 誠一

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