熊本聖書フォーラム

メシアの生涯 / 祭司長と民の長老による小羊の吟味(2) その3

2016.05.24

カテゴリー:y メシアの生涯

■婚宴のたとえ話(マタイ22:1〜14)

このたとえ話は、結婚披露宴を題材にしています。王がその息子である王子のために披露宴を設け、招待していた客を呼んだのですが、誰も来なかったという話です。ここでは、披露宴を設けた王は父なる神、王子は子なる神、メシアを指しています。
そうなると、結婚の披露宴はメシアの王国です。マタイの用語では「天の御国」、マルコの用語では「神の国」です。
なお、このたとえ話には花嫁は登場しません。新約聖書ではメシアの花嫁は「教会」ですが、このたとえ話の中に教会までを無理に読み込む必要はありません。教会の祝福や役割については、何も語られていないからです。

■王の招き

当時の習慣でも、事前に招待状を出したそうです。そして披露宴の時が来たので、招待しておいたお客を呼びに、王はしもべたちを遣わしました。このしもべたちとは、バプテスマのヨハネとイエスの弟子たちです。彼らは、イエスを信じるなら神の国が現れると説きました。

■招待客たちの反応

結婚披露宴に招かれることは特権ですが、時間的犠牲を払う必要もあります。当時の結婚披露宴は、一般の人々が設ける場合でも通常は七日間続く宴会です。まして王が設ける披露宴ともなれば、もっと宴会の期間が長いでしょう。招待を受ける方もそれなりに時間を自由にできる立場でないとなかなか出席は困難です。
しかし、このたとえ話では、招待客はそれができない人たちではありません。彼らは、「来たがらなかった」、「来ようとしなかった」、「断ってきた」のです。これは王への侮辱、あるいは反抗ともいうべき事態です。

■王の招きの第二段階

王は忍耐強くもう一度呼びかけます。今度は招待されることの祝福を丁寧に説明しました。そして、宴会の準備が終わり、何もかも整っていることも告げました。「別のしもべたち」とは、使徒行伝の前半に宣教する執事や使徒たち(パウロやバルナバを含む)です。

■招待客たちの第二段階における反応

ある者は無視、ある者は畑に行き、ある者は商売に出て行ってしまいました。これらの内容からは、招待客たちが貴族階級とわかります。そして彼らは、事前に招待されていて、そのことがわかっていたにもかかわらず、あえて披露宴に出席しようとしません。これはもう、王に対する侮辱です。

■最悪の招待客たち

そればかりではありません。招待客の中には素行の悪い者もいて、王のしもべたちに恥をかかせ、さらには殺してしまったのです。これは、イエス・キリストの使徒たちのほぼ全員が殉教の死を遂げることを指しています。

■王の怒り

ここでの王の怒りは、紀元70年エルサレム滅亡の預言となります。代わりの招待客は大通りで出会った者、すなわち異邦人です。しかも「良い人でも悪い人でも」です。その結果、宴会場は客でいっぱいになりました。

■礼服を着ないで、宴会に出席した者

宴会に出るための必要な準備があります。それは、その場にふさわしい礼服を着用することです。当時の習慣では、婚礼の礼服は主人が用意しました。しかし、このたとえ話の中でもは、王が用意した礼服を着用していない者が登場します。
王は彼を問い詰めますが、彼は沈黙したままです。沈黙したままというのは、そうしなければならないとわかっていたが、あえて礼服に着替えたくなかったという背景をうかがわせます。

■宴会場から外に放り出される

外の暗やみとは、燃える火の池(ゲヘナ)です。この火は痛みを与えるものですが、光は提供しません。泣いて、とか、歯ぎしりするという表現には、悲しみと嘆き、痛みの感覚があることを示しています。

■招待される者は多いが、選ばれる者は少ない

神の国には、多くの者が招待されていました。しかし、その招待に応答する人は少ないのです。
さらに、招待に応答したかに見える人の中には、神が用意した礼服を着ていない者がいます。良い人も悪い人も、ともにこの礼服が必要です。
この礼服とは、メシアを信じる者に与えられる「義の衣」です。本当に応答した人は、メシアを救い主として信じた人です。そして、その人は神によって選ばれた人です。

■3つのたとえ話とイスラエルの霊的歴史

イスラエルは、神にとっては、「わが愛する者」が開墾し育てた「ぶどう園」です(マタイ21:33、イザヤ5:1〜2)。それなのに、イスラエルの指導者たちは、次のような対応をしました。

第一の「ふたりの息子」のたとえ話では、父なる神の命令に従いませんでした。モーセのような預言者が現れたら、その者に聞かなければならないと、父なる神はイスラエルに命じておられたのに、その命令を軽んじました。

第二の「ぶどう園の主人と農夫」のたとえ話では、「わが愛する者」=子なる神、メシアを十字架に付けて殺しました。

第三の「婚宴」のたとえ話では、聖霊の招きに応じませんでした。招待されていたのに、断りました。メシアが来たのに、受け入れませんでした。イエスを信じる教会の群れの中に入る者も出ますが、イエスの義の衣を着ないで、ユダヤ的律法主義を主張したり、イエスの神性や人性を否定する誤った教えを持ち込む偽教師などが出ました。

■しかし、神はイスラエルを捨てない

イスラエルの一部がかたくなになったのは、異邦人が救いを受けるためであり、その状態が続くのは「異邦人の完成のなる時まで」、すなわち異邦人が救われてその数が満ちるまでです。その時に至ると新約時代の信者は天に引き上げられます。これが携挙という出来事です。
携挙のあとに、地上は大患難時代と呼ばれる時期に入り、その末期にイスラエルは民族的救いを受けて、みな救われます(ロマ11:25〜26)。

熊本聖書フォーラム

代表 :清水 誠一

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