熊本聖書フォーラム

メシアの生涯 / 祭司長と民の長老による小羊の吟味(2) その2

2016.05.24

カテゴリー:y メシアの生涯

■ぶどう園の主人と農夫のたとえ話(マタイ21:33〜46)

ここで、イエスは、イザヤ5:1〜2をイメージしています。それと対比して読むと、このたとえ話の登場人物がだれを指しているかが、わかります。まず、「農園の主人」は、父なる神です。「ぶどう園」は神の民イスラエルです。そして、「農夫」はイスラエルの指導者たちです。

■収穫の時、貸付料(小作料)の徴収

イエスの時代、すなわちローマ帝国の時代には、貴族階級は地方の農園を所有する地主階級でもあります。土地を購入し、それを開墾し、水を引き、苗木を植えて、何年もかけて収穫が得られるようになります。それまでには、かなりの投資が必要で、充分な資金力がないと農園経営はできません。またローマ帝国がその地域の軍事的支配権を失えば、せっかく投資した農園も失うことになるので、土地は安くても辺境の地に投資するリスクは大きかったようです。
この投資に見合うように、収穫のときの貸付料をあらかじめ約束して、地元の農夫に貸します。貸付料、小作料といってもいいかもしれませんが、当時は、収穫物の中から一定量を納めさせるか、一定の割合、たとえば25%とか決めていたようです。
いざ納めるときとなると、農夫が反抗する場合もありましたので、農園の主人の中には私兵集団をかかえて力をバックに徴収する主人もいました。しかし、このたとえ話の中の主人は、寛大です。しもべを遣わして、約束のものを納めるように要請します。

■しかし農夫たちは、主人のしもべたちを苦しめた

ひとりは、袋叩きにしました。もうひとりは、石で打ちました。そして、もっと多くのしもべたちにも、同じように扱いました。ここには主人の忍耐がうかがえます。ルカ20:10〜12には、3人のしもべが一人ずつ、計3回にわたって派遣されています。父なる神がイスラエルの民に遣わした預言者たちの顔ぶれを思い浮かべると、確かに3つのグループになります。第一は、バビロン捕囚前の預言者たちです。北王国のエリヤやエリシャ、南王国のイザヤやエレミヤといった人たちです。第二は、バビロン捕囚後の預言者たちです。ダニエル、エゼキエル、ゼカリヤ、マラキといった人たちです。そして、第三は、バプテスマのヨハネとイエスの弟子たちです。バプテスマのヨハネは、旧約時代の預言者の最後にして最大の預言者です。

■主人は息子を遣わす

主人は、今度はしもべではなく、自分の息子を遣わします。この息子はイエスを指しています。農夫たちは、それが跡取りであることを認識したうえで息子を殺しました。農夫たちが息子を殺したのは、主人の財産を自分のものにしようとしたからです。同様に、指導者たちは、神からイスラエルの民衆を委ねられているのに、自分のもののようにふるまっていました。また、指導者たちは、イエスが神から遣わされたメシアであると知っていたのに、公に認めず、むしろ殺そうとしていました。イエスは、このたとえ話を通して、彼らの問題点を突いていたのです。

■ぶどう園の外に追い出して殺した

マタイ21章39節に、「ぶどう園の外に追い出して殺した」とあります。この場面設定は、実際にイエスの十字架刑の場所が、エルサレムの町の門の外に置かれたこととつながっています。「門の外」というのは、旧約聖書のモーセの律法では「宿営の外」となります。そして宿営の外で焼かれる犠牲は、「贖罪の日」の犠牲です。そして、贖罪の日の犠牲の目的は、イスラエルの民族的な罪を贖うことです。
したがって、イエスが十字架で流された血は、イエスを信じる個々人を救うだけでなく、同時にイスラエルの民族的な罪を清める力も持っているということです。言い換えると、イエスは、「過越の羊」であると同時に、「贖罪の日の犠牲」としても十字架に付いたということです。新約聖書でこのポイントを説明している箇所は、へブル人への手紙13:11〜12です。
なお、「贖罪の日」は、大患難時代を予表するものです。そして、大患難時代末期に生き残っているイスラエルの民は、全員が救われるという民族的な救いが預言されています。

■イエスが質問し、指導者たちが答える

イエスは、ここで指導者たちに質問します。「その農夫たちを主人はどうするだろうか」。指導者たちは答えます。「そのひどい農夫たちを捕えて殺し、別のきちんとした農夫に農園を貸します。」 指導者たちは正しく答えました。しかし、彼らがここで誤解していた点があります。それは、自分たちの立場をこのたとえ話の「農園の主人」だと思ったことです。たしかに、彼らは裕福な階級に属します。当時の生活の中で彼らがしていることからすれば、まさに農園の主人だったのです。

■イエスは、メシア預言を引用する

イエスは、ここで、詩篇118:22〜23を引用します。その教えるところは、①イエスは、家を建てる者たち(指導者たち)に、ご自身を啓示されました。②「家」とは、この詩篇では「神殿」を指します。神殿の本質的意味は、「霊なる神が人間の世界においでになり、人と共に住んでくださること」です。③しかし、指導者たちの建設計画には、イエスが入り込む余地はなかったのです。

■イエスは、たとえ話の適用を語る

「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられる。」

「あなたがた」とは、ここでイエスを目の前にしてイエスを拒否している指導者たちです。
「神の国の実を結ぶ国民(単数)」とは、将来の時代の指導者たちとそれに従うイスラエルの民衆です。将来とは、来るべき7年間の大患難時代、とくにその後半期です。
「神の国の実を結ぶ」とは、神の霊、聖霊を受けて霊的新生をし、かつ罪を犯さないレベルに達している状態を指します。その状態にイスラエルの民は、大患難時代末期に聖霊を受けて一日で達すると預言されています。

■イエスは、メシアを迎える祈りのことばを引用する

ここでイエスは、詩篇118:26を引用します。これは、メシアを迎える祈りのことばです。「主の御名によって来る人」とはメシアです。26節の後半は新改訳聖書では「私たちは主の家から、あなたがたを祝福した」と訳されていますが、「私たちは主の家から、あなたをほめたたえました」と訳した方がわかります。「私たち」は大患難時代末期に生き残っているイスラエルの指導者たちと民です。「主の家」とはエルサレムの神殿ではありません。イスラエルの民が大患難時代後半期に逃れる場所は、ヨルダン川を東に渡った先の山岳地帯にあるボツラという場所です。ここでいう「主の家」は、主の超自然的な守りの中にあるボツラの地を指し、さらには、そのとき聖霊を受け新生して、民族的救いを受けたイスラエルそのものが「主の家」です。彼らが「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と祈るときに、メシアが再臨します(マタイ23:39)。

■この「石」に敵対するなら、滅びに会う

旧約聖書で「石」あるいは「岩」は、メシアを象徴することばです。ここでのイエスのことばは、旧約聖書の二つの預言をイメージしています。ひとつは、イザヤ8:13〜15、これはメシア初臨に関する預言です。もうひとつは、ダニエル2:35、44、これはメシア再臨の預言です。
イエスを拒否したこの世代のイスラエルの指導者たちと民の将来には、国家的な滅びが待っています。それは、紀元70年のエルサレム崩壊です。

■指導者たちの反応

ここまで語られてはじめて、祭司長とパリサイ人たちは、自分たちがたとえ話の中の「主人」ではなく、「農夫」であるとして語られていたことがわかります。そして、自分たちがメシアを拒否し、その結果のさばきを告げられていることを悟りました。彼らはここで考えを変えずに、イエスを捕えようとしましたが、聴衆がますますイエスを支持する情勢になっており、手が出せないのでした。

(続く)

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代表 :清水 誠一

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