熊本聖書フォーラム

メシアの生涯 / 祭司長と民の長老による小羊の吟味(2) その1

2016.05.24

カテゴリー:y メシアの生涯

■はじめに

本日は、中川健一先生の講解メッセージ・シリーズ「メシアの生涯」第157回と第158回、「祭司長と民の長老による小羊の吟味」からの学びです。聖書箇所は、マタイ21:33〜22:14です。
この講解メッセージでは、三年半にわたるイエスの公生涯について、新約聖書の4つの福音書を時系列に追っています。今は、イエスの公生涯の中でも、最後の一週間に入っています。

■文脈の確認

では、前回までの文脈を確認しておきましょう。イエスは、子ろばに乗ってエルサレムに入城しました。これは、「メシアは、ろばの子に乗って来る」という預言を文字通りに成就したもので、ご自身をメシアであると公言したのと同じことです。
そして、そのあとの展開は、旧約聖書の出エジプト記に記された「過越の小羊」の手順どおりです。神のご計画の中では、イエスの十字架こそが本体であり、過越の小羊はそのイエスの型であり、十字架を予表するものです。

■「過越の小羊」の吟味

過越(すぎこし)というのは、神のさばきがその人を過ぎ越すという意味です。羊をほふり、その血を戸口の2本の柱とかもいに塗っておくと、神のさばきを執行する死の使いがその家を通り過ぎた、という出エジプトのときの出来事に由来します。
過越の小羊は、ユダヤ暦のニサンの月(春)の10日に羊の群れの中から取り分けられ、10日から14日まで、小羊にしみや傷がないかどうか、吟味を受けます。
それと同じように、イエスは10日にエルサレムに入城して人々の前に立ち、14日までの間にユダヤ人たちの指導者たち、それも4つのグループの指導者たちから挑戦を受けました。
挑戦の結果、イエスには何の罪も、問題も、欠点もないこと、そしてイエスはまさしくメシアであることが明らかになるのですが、指導者たちはかたくなに拒み、ますますイエス殺害の決意を固めるという方向に向かいます。

■指導者たちの挑戦の目的

指導者たちの本来の役割は、旧約聖書に照らしてのメシア判定です。かつて出エジプトの時に神が立てた人であるモーセのような預言者が現れて、その人が力あるわざ(奇跡)を行うなら、聖書の預言に照らしてその人がメシアかどうかを判定して、民衆をメシアに従うよう導くことが、ユダヤ人の指導者に課せられた責任です。
しかし、イエスが登場した当時の指導者たちは、バプテスマのヨハネの証言を受けても、イエスの力あるわざを3年以上にわたり目撃しても、イエスはメシアではないと否定しました。
彼らは、イエスが貧しい家の生まれであり、正規のユダヤ教ラビ(教師)としての教育も受けていないことを軽蔑していました。
加えて、イエスが神殿から商売人を追い出したことは、神殿運営で富を得ていた祭司階級には目障りなことでした。また、ユダヤ教が積み上げてきた口伝律法を、神のみこころに合わないとイエスが一蹴してきたことは、そのような口伝律法を教えていたパリサイ人たちには到底我慢できないことでした。
イエスに対する嫉妬や憎しみがまずあって、陰でイエス暗殺を計画しながら、指導者たちがイエスに挑戦してきます。こういうわけですから、中立的な判定など期待できるものではありません。
彼らは、「イエスはメシアではない」という結論を前提にして、攻撃的な動機で挑戦してきます。彼らの目的は、イエスの経歴には何の見るべきものもないことを突き、さらにイエスを神学的に論破することで、そばで聴いている群衆をイエスから離すことにあります。その上で、祭りのあとで、誰がしたかわからないようにイエスを暗殺しようとしていたのです。

■イエス殺害方法の転換前

実はこのあと、イエスの側近の一人であるイスカリオテのユダが指導者たちの所に来て、イエスを裏切ると申し出ます。こうなると、指導者たちには暗殺という自分たちで手を下す方法をとる必要はなくなります。ユダが告発者となって、「イエスは、群衆を扇動してローマ帝国に対して反乱を起こし、ユダヤの王になろうとしていた」と訴えさせれば、ローマ総督の手でイエスは処刑されるからです。しかし、本日学ぶ箇所は、まだ、その転換前の出来事です。

■指導者たちとの議論の特徴

指導者たちとの議論の展開には、古代世界における典型的な議論のパターンが見て取れます。またそれは、ユダヤ教のラビがよく用いるラビ的方法でもあります。そのパターンには、3つの特徴があります。
第一は、お互いに単に自分の意見を一方的に言い合うのではなく、質疑応答を受けては返すという質疑応答の流れをとるということです。この手法には、ときには相手の質問には質問で返して、お互いの理解を深めていくということもあります。
第二は、横で聞いている聴衆を飽きさせない、機知に富んだ軽妙な言葉づかいです。
そして第三は、論敵の言葉の矛盾を突いて議論の勝敗を決するという論理展開です。

■祭司長とパリサイ人たちからの挑戦

本日学ぶ箇所でイエスに挑戦するのは、祭司長とパリサイ人たちです。論点はイエスの権威について(マタイ21:23〜27)です。これに対して、イエスはラビ的議論を通して彼らの問題点(ヨハネの証言やイエスのわざを見ながらも、イエスをメシアであるとは認めない頑なさ)を指摘し、3つのたとえ話を語りました。
その第一は「ふたりの息子のたとえ話」(28〜32節)、第二は「ぶどう園の主人と農夫のたとえ話」(33〜46節)、第三は「婚宴のたとえ話」(22:1〜14)です。
前回は、論点と第一のたとえ話を扱いましたので、きょうは、第二と第三のたとえ話を扱い、結論として三つのたとえ話に、イスラエルの歴史を重ねて、その意味するところを学びます。

(続く)

熊本聖書フォーラム

代表 :清水 誠一

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