熊本聖書フォーラム

メシアの生涯 / アナニヤとサッピラは救いを受けていたのか

2016.05.11

カテゴリー:y メシアの生涯

■アナニヤ・サッピラ事件とは

新約聖書の「使徒の働き」5:1〜11に記される出来事です。紀元30年にエルサレムで教会が誕生してから間もなくの頃、信者の中に、ある夫婦がいました。夫の名はアナニヤ、妻の名はサッピラといいます。彼らは自分たちの持ち物(地所)を売って、その代金を教会に寄贈しました。そのとき、寄贈したのは代金の全額ではなく、その一部は自分たちの手元に残しておいたのに、教会には「全額です」と申し出ました。そのために、夫も妻も使徒ペテロの前で息が絶えて死んだという事件です。

 ■アナニヤ夫妻は、本物の信者であったのか、偽の信者であったのか

アナニヤとサッピラは、本物の信者であったと考えられます。「主イエスを信じる者が、このように神を欺くような行為ができるはずはない。偽の信者であったのだ。」という意見もありますが、当時のユダヤ社会における信者の立場を考えると、アナニヤ夫妻が信者をよそおっていたとは想像しにくいのです。

 ■当時のユダヤ社会でイエスの信者であることを公言するのは大変なこと

ユダヤの指導者たちは、イエスをメシアとは認めず、ローマの法廷に引き渡して十字架刑で処刑しました。そして、イエスを信じる者が出ると、その者を会堂から追放するという措置をとっていました。会堂からの追放は単に思想信条の弾圧ではなく、ユダヤ社会から締め出され、仕事もできなくなり、経済的にも大変困難な状況に陥ることを意味します。そこでエルサレム教会の信者たちは、各自がそのとき持っている財産を持ち寄って共同生活をするようになりました。
このような困難の中に、わざわざ信者をよそおって入り込む理由はありません。ましてアナニヤ夫妻が自分たちの地所を売って、一部にせよその代金を教会に寄付したとなると、彼らを偽の信者だったと見るには無理があります。

 ■アナニヤ夫妻が本物の信者であると考えられる根拠

では、彼らが信者であることを裏付ける根拠はどうでしょうか。それは、3つあると思います。第一はアナニヤ夫妻に対するペテロの叱責のことば、第二は彼らがその場で神のさばきを受けたこと、第三は教会全体に神への恐れが生じたこと、この3つです。

 ■第一の根拠は、ペテロの叱責のことば

ペテロは、アナニヤとサッピラに対して、「サタンに心を奪われた」、「聖霊を欺いた」と叱責しています。もし、偽の信者であれば、もともとサタンの支配下にあってその心はサタンのものですから(エペソ2:1〜3)、「奪われた」とは言えません。また偽の信者は、聖霊とは何の関係もありません。このようにペテロの言葉遣いからは、アナニヤとサッピラは本物の信者であり、イエスを信じて心の中に聖霊を受けていた人たちであったと考えられます。

 ■第二の根拠は、その場で裁かれていること

アナニヤとサッピラは、ペテロから叱責を受けたその場で死にました。これは本物の信者であることの証拠ではないでしょうか。本物の信者は神の子であるからこそ、父なる神から訓練や懲らしめを受けます(へブル12:7)。もし偽の信者であるなら、神の子ではありませんから、神は放置されます。イエスも毒麦のたとえ話(マタイ13:24〜43)において、教会の中に入り込んだ偽の信者を裁くのは「この世の終わり」のときであると語りました。それに対して、本物の信者が神のみこころに意図的に背き続けるなら、その人には肉体の死がもたらされることがあります(Ⅰコリ5:1〜5)。これは、神がその人の霊を守り、永遠のいのちを失わせないための処置です。従って、アナニヤとサッピラがペテロの前で息絶えて死んだのは、彼らが信者であったことを示していると考えられます。

 ■第三の根拠は、まわりの信者たちに神への恐れが生じたこと

アナニヤ・サッピラ事件の結果、教会全体とこのことを聞いたすべた人たちとに、非常な恐れが生じました(使5:11)。この恐れとは、恐怖心ではなく、神への畏怖であり、信者が神に対して持つべき健全な心の態度です。
信者は、イエスの十字架の贖いによってすべての罪を赦されました。では何をしてもよいのでしょうか。絶対にそうではありません(ロマ6:15)。もし信者が神のみこころに意図的に背き続けるなら、その罪の内容によっては肉体の死がもたらされることがあります(Ⅰコリ5:1〜5)。そのことを教会誕生の時期に事実として明らかに教えたのがアナニヤ・サッピラ事件であり、この事件を通して信者たちの間に神への健全な恐れが生じたのです。

 ■結論

信者であっても、罪を犯すことがあります。そのとき、キリストの律法において信者に命じられているのは、自分でなんとかその罪から離れるよう努力することではありません。気づいたらその場で、神の前に、罪を言い表し、罪からきよめていただくことです(Ⅰヨハネ1:9)。そこから聖霊の働きが始まり、信者を内面から変えてくださいます。
アナニヤとサッピラにも、ペテロは罪を言い表す機会を与えました。彼らがそこで「一部を手元に残しました。全額などと偽って、私は神に罪を犯しました」とありのままを認めていたら、彼らはその場で死ぬことはなく、彼らの信仰もさらに次の段階に成長していたことでしょう。しかし、彼らはそのチャンスを受け取りませんでした。彼らがその場で息絶えたのは、肉体のいのちは失っても、信者として永遠のいのちを保つための神の恵みであったのです。

熊本聖書フォーラム

代表 :清水 誠一

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