□祈りによって、山を動かすことはできるのか
■マルコ11:23は、祈りについての真理を教えている
「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」 このイエスのことばは、祈りの真理について教えるものです。その真理とは、「心の中で疑わず、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになる」という祈りの大原則です。この祈りの大原則がこの箇所の主要テーマなのですが、よく私たちが聞く質問が、「祈りで本当に山を動かすことができるのでしょうか」という疑問です。
■「山を動かす」の「山」は、解決困難な問題
もし、祈りで山を動かすことができれば、私は土木建設の業者になって、コストなしで工事ができます。それはあり得ません。「山」というのは、ユダヤ的慣用句で「解決困難な問題」を意味することばです。ゼカリヤ4:7を見てみましょう。「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう」
ゼルバベルは、紀元前530年頃、バビロン捕囚から帰還したときの民の指導者です。彼のもとで神殿の再建が着手されますが、周辺の異邦人たちから妨害を受けて、神殿の再建は中断していました。紀元前520年頃、預言者ゼカリヤは、「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。」(ゼカ4:9)と預言して、ゼルバベルと民を励ましました。ここでいう「山」は、神殿再建のときの異邦人からの妨害を指しています。
■人にとって解決困難な問題の代表は、「救い」
一般的に人にとって解決困難な問題とは何でしょうか。イエスが「それは人にできないこと」(マルコ10:27)と言ったのは、人の救いという大問題です。それは、どのように解決されるのでしょうか。その答えは、エペソ2:1〜6にあります。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順な子らの中にあって、自分の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
■神の恵みにより、信仰を通して救いを受ける
私たちは霊的には罪の中に死んでいた者です。死んでいるのですから、自分自身ではどうすることもできません。だから、人にはできないことです。神は、このような罪人の私たちを愛し、御子イエス・キリストを十字架につけて、私たちの罪の身代わりとしてくださいました。そのことを信じることで、人は霊的に復活し、救いを受けます。エペソ2:8は、次のように結論づけます。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
■祈りで山を動かすというのは、とりなしの祈り
祈りで山を動かすというのは、言い換えれば、祈りで人の救いを推し進めるということです。家族や友人が救われて神の子とされるように祈る、神の子になったらその人たちがキリストに似た者に変えられていくように祈る、これが、私たちが祈るべき「とりなしの祈り」です。
■とりなしの祈りをするときのポイントは、御霊の助けを求めること
としなしの祈りをするときに大切なことは、人の努力や頑張りを求めるのではなく、神の霊、御霊による助けを求めることです。そのような祈りの例として、エペソ3:16〜19を見てみましょう。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
■信者の成長は、「内なる人」の成長です。古い性質の改善ではありません
人は信じた時に霊的に復活します。それが「内なる人」です。その内なる人の中には、キリストの霊、御霊が住んでくださいます。これが、信者は神の子とされたという実体的な意味です。他方で、信者は生まれながらの古い性質を相変わらず抱えています。何も変わってはいません。そのために、内なる人と生まれながらの古い性質との間で、せめぎ合いが始まります。その葛藤が信仰生活であるとも言えます。信者が自分の力でそれを克服しようとすると、必ず失敗します。信仰で始まったことは、信仰でしか完成されません。御霊によって生まれた者は、御霊によってでしか成長できないのです。私たちの心のうちに住んでくださるキリストの霊、御霊が働いてくださるように、祈ること、これが「とりなしの祈り」の秘訣です。