□はじめに
■文脈の確認
イエスは、メシアとしてエルサレムに入城しました。ニサンの月の10日、週の初めの日のことでした。翌日の月曜日、いちじくの木の呪いと宮清めに続いて、ギリシヤ人の面会希望と「一粒の麦」の教えがありました。今回取り上げる箇所は、月曜日の夕方と火曜日の朝に起こった出来事です。
■アウトライン
①月曜日の夕方(マルコ11:18〜19)
②火曜日の朝(11:20〜21)
③祈りについての教え(11:22〜25)
□月曜日の夕方(マルコ11:18〜19)
■イエス暗殺の計画
18節、「祭司長、律法学者たちは、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」とあります。ユダヤ人指導者たちは、群衆がイエスの方に流れていくのを恐れました。群衆は、イエスの教えに驚嘆していたのです。群衆がイエスに惹かれた理由は3つ考えられます。まず、イエスの教えには、奇跡が伴っていました。盲人や足のなえた人たちが癒されたのです(マタイ21:14)。2つ目は、商売人たちを神殿から追い出すという行動が伴っていました。そして3つ目、その教え方に権威が伴っていたのです(参考、マタイ7:28〜29)。
■夜はエルサレムの町を離れる
19節、「夕方になると(直訳=夕方になるたびに)、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た」とあります。祭りの期間、町の中は世界各地からの巡礼者で混雑しました。多くの者たちが、町の外に出て夜を過ごしました。ですから町の周辺はテント村状態です。イエスとその弟子たちは、昼間はエルサレム、夜はエルサレム近郊の村であるベタニヤ村か、エルサレムとベタニヤとの間にあるオリーブ山で過ごしました。ベタニヤ村では、マルタとマリヤの家に宿泊することが多かったと考えられます。
□火曜日の朝(11:20〜21)
■いちじくの木が枯れていた(20節)
20節、「朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで(直訳=根から)枯れていた」とあります。この木は、前日、月曜日の朝に、イエスによって「おまえの実は、いつまでも、ならないように。」(マタイ21:19)と呪われた木です。マタイ21:19では、「すると、たちまち、いちじくの木は枯れた」とありますが、弟子たちがそれを発見したのは、翌朝、火曜日の朝だったのです。イエスが呪ったときに、その木はすぐに根が枯れました。根が枯れると、やがて葉がしおれます。その葉がしおれた状態を翌朝、弟子たちが見つけた、という経緯です。
根が枯れると、木は枯れます。同じように、ユダヤ人たちの内面(霊的状態)が死んでいるので、神殿も都も滅びるという暗示が、この枯れたいちじくの木には込められています。現実にそのことは、イエスが十字架にかかってから40年後、紀元70年にローマ軍によってエルサレムと神殿が破壊されるという歴史的事実となります。
■ペテロのコメント(21節)
21節に、「ペテロは思い出して、イエスに言った。『先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。』」とあります。ペテロはイエスがいちじくの木に言ったことばを覚えていて、それよりももっと悪い結果になっていることに驚いた様子がうかがえます。ペテロにしてみれば、いちじくの木に春先についているはずの緑色の実がなかったからといって、のろって枯らしてしまうのは、ちょっと行き過ぎ、と思ったのかもしれません。もちろん、いちじくの木が枯れたということには、「霊的いのちがなければ、やがて滅びる」という教訓が込められています。しかし、イエスは、ペテロのコメントには直接答えずに、祈りの教えにつなぎます。
□祈りについての教え(11:22〜25)
■祈りの前提は、神に対する信頼
22節に、「イエスは答えて言われた。『神を信じなさい』」とあります。間もなくイエスは、地上を去ろうとしています。ペテロはじめ弟子たちが自分たちだけで現実に対処することになる、そのための重要な教えが、祈りについてです。祈りが聞かれるための必須条件は、「神を信じなさい」、すなわち「神を信頼する」ことです。
■祈りについての真理
23節に、「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」とあります。「この山」というのは、イエスと弟子たちが今そこで歩いている山、オリーブ山です。「海」というのは、死海、塩分濃度が高いあの湖です。ここでは、祈りについての真理、あるいは大原則というべきことが教えられています。それは、祈って願うことが実現するための条件で、2つで一つの条件です。否定形で言うと「心の中で疑わない」、肯定形で言うと「自分の言ったとおりになると信じる」です。これは一つのことを、裏と表から見ているようなものです。
■祈りについての真理を実践する方法
24節に、「だから、あなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」とあります。前の23節は祈りが実現するための真理、大原則でした。イエスは、「だから」とつなげて、その真理を実践するための実際的な教えを与えてくれます。それは、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」というのです。難しいことではありません。祈ったら、まだ受け取っていなくても、すでに受けたと信じるのです。祈ったら、実際の答えがまだ与えられていなくても、与えられたのと同じだと信じる、これが信仰の祈りです。
■祈りと赦しの関係
祈りは、天の父なる神から祝福を受けとる経路です。そして、この経路を機能しないようにするものが、私たちの内側にあります。それは、私たちの生まれながらの性質であり、そこから日々生じる罪、特に他人を赦さない恨み事です。そこでイエスは、次のように教えます。25節、「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」
■立って祈るのは、ユダヤ人たちの一般的な習慣
「立って祈る」は、ユダヤ人たちの一般的な習慣です。今でも、エルサレムの嘆きの壁の前では、ユダヤ人たちが壁に向かって、立って祈っている姿が見られます。ひざまずいて祈るのは、キリスト教会での後代の習慣だそうです。
■信者には他人を赦すことが期待されている
神を信じる者は、「神以外に救いはない」ことを信じる者です。言いかえれば、自分の行いで救いを得ることはできないこと、自分は一方的に神から赦された者であることを知っています。だから、信者には、自分が赦されたのですから、今度は自分に罪を犯した者を赦すように期待されます。しかし、25節は、読み方によっては、【まず他人を赦すことが先で、それが、自分が赦されるための条件】のように読めてしまいます。これはどう理解するべきでしょうか?
■赦しは、信仰を通して恵みによって、与えられる
まず、赦しは自分の行いによって得られるものではなく、信仰を通して恵みによって与えられるものであるという、聖書の大原則を確認しましょう。イエスの十字架以降、信者がもつべき信仰の内容は、福音の三要素です。イエスが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったこと、墓に葬られたこと、そして三日に復活されたこと、この3つのことを信じることです。信仰の対象は、イエスをこの世に遣わしてくださった父なる神です。この信仰によって、私たちは父なる神からの赦しを無条件でいただき、神の子とされます。
■25節で問題となっているのは、父なる神と信者との「親子関係」
赦しが自分で得られるものではないという大原則が確認できれば、では、25節が命じることはどういうことでしょうか。「天の父があなたがたの罪を赦してくださる」というのは、信者の日常的な罪の赦しに関係しています。ヨハネの手紙第一3:9では、信者が日々の生活の中で自分の言動について神のみこころにそわないと感じたら、すぐにそれを神の前に言い表して赦していただくよう命じられています。これは、信者が日々の生活の中で父なる神からの祝福を受けることができるかどうかにつながります。隣人を赦さない信者は、永遠のいのちを失うことはありませんが、日々の生活の中で神の祝福を受けることができませんし、御国で受ける報いもありません。ですから、私たちは、せっかく神の子とされたのですから、ちっぽけな恨み事を引きずるのはやめて、父なる神からの祝福をいただきましょう。
■赦し合うことの勧め
エペソ4:32で、使徒パウロは次のように勧めています。
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」