■文脈の確認
イエスは、メシアとしてエルサレムに入城しました。当時のユダヤ暦でいうと、ニサンの月の10日、週の初めの日です。その翌日の月曜日、いちじくの木の呪いと宮清めがありました。きょうの箇所もまた、月曜日、ニサンの月の11日の出来事です。
■アウトライン
幾人かのギリシヤ人の願い(ヨハネ12:20〜22)
イエスの回答(23〜26節)
イエスの祈りと天からの声(27〜30節)
イエスと群衆の対話(31〜36節)
□幾人かのギリシヤ人の願い(ヨハネ12:20〜22)
■祭
20節に、「祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。」とあります。「祭り」とは、ニサンの月の15日から7日間続く「種を入れないパンの祭り」です。14日の夕方に過越のいけにえをささげて、日没とともに15日になり、過越の食事をするということで、「過越(すぎこし)の祭」とも呼ばれます。
過越の祭は、ユダヤ三大巡礼祭のひとつです。ユダヤ国内に限らず、周辺諸国に離散して住んでいるユダヤ人たちもエルサレムの神殿に来て、祭を祝いました。
■幾人かのギリシヤ人
彼らは、礼拝のために来たとあるので、ユダヤ教に改宗したギリシヤ人のことです。私たちはユダヤ教と聞くと、ユダヤ人だけの宗教とイメージしますが、イエスの公生涯の時代には、かなりの数の異邦人も聖書の神を信じていました。
たとえば、使徒の働き13:16には、「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々」という呼びかけのことばが記録されています。また、使徒13:43や17:17には「ユダヤ人と神を敬う改宗者たち」とあります。「神を恐れかしこむ方々」とか「神を敬う改宗者たち」というのは、異邦人のユダヤ教信者です。
この異邦人信者の中でも数が多かったのは、ギリシヤ人であったと推定されます。使徒14:1には、使徒パウロが「ユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人が信仰に入った。」とあるからです。
■ピリポとアンデレ
21〜22節に、「この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、『先生。イエスにお目にかかりたいのですが』と言って頼んだ。ピリポはアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した」とあります。
ピリポとアンデレは、ともに、イスラエル北部のガリラヤ地方の町、ベツサイダの出身で、イエスの初期からの弟子(ヨハネ1:35〜46)です。
■アンデレ、ペテロの弟
アンデレは十二使徒の筆頭ペテロの弟ですが、イエスに会ったのはアンデレが先で、兄のペテロに「私たちはメシアに会った」と伝えて、ペテロをイエスに引き合わせました。
■ピリポ、「来て、そして、見なさい」
一方、ピリポは、アンデレやペテロがイエスに初めて会ったと同じ頃に、イエスの方から彼を見つけて「わたしに従って来なさい」と召されました。そしてピリポは、友人のナタナエルを導きます。ピリポがナタナエルに、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と語ると、ナタナエルが「ナザレから何の良いものが出るだろう」と反論、これに対して、ピリポは「来て、そして、見なさい。」と導きました(ヨハネ1:46)。
ナタナエルは、自分の神学から物を考えていました。これに対してピリポは、イエスについて見た事実を、聖書に書かれている預言と突き合わせて、結論を出しています。ピリポは、事実を客観的かつ的確に認識する能力に長けていたように思います。
しかし、長所は同時に欠点にもなります。自分の目で見て判断することに自信があると、霊的な目が見えなくなることがあります。ピリポが最後の過越の食事の席で、「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」(ヨハネ14:8)と発言しているのは、そういうことかもしれません。
■ピリポとアンデレの関係
そういうピリポを、イエスがためしたことがあります。男だけでも5000人、これに女子供も加えると相当の数の人々がイエスの教えを聞きに集まっていました。人々に何か食べ物を与えようということで、イエスがピリポに対策を問います。ピリポは、即座に群衆を見まわして人数を推計し、調達すべきパンの量とその代金を計算して答えました。その答えは「不可能」と言ったのと同じです。そのとき、アンデレが解決の糸口を引き出しました。群衆の中から、自分の手弁当として大麦のパン5個と小さい魚二匹を持っていた少年を連れてきて、「これで何とかなるのでしょうか。」とイエスに委ねました。イエスがそのわずかなパンと魚をちぎりながら分けて配給したら、群衆が満腹になったうえに、かごにまだ余りが残ったという、有名な5千人の給食の奇跡です(ヨハネ6:4〜13)。
ピリポは、十二人の使徒の中で、ギリシヤ名を持つ唯一の使徒です。おそらく、ギリシヤ人たちは、ピリポなら異邦人の自分たちの願いをかなえてくれるのではないか、と期待してピリポに仲介を頼んだのでしょう。ピリポは、今度は自分一人で結論を出さずに、アンデレに相談します。そして、二人はイエスのもとに来て、ギリシヤ人たちが面会を希望していると告げました。
□イエスの回答(ヨハネ12:23〜26)
■イエスは「死」について語りだす
ピリポとアンデレの報告を受けて、イエスの回答は少しちぐはぐのように感じます。
まず、23節で「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と切り出し、24節で「まことに、まことに、あなたがたに告げます」と前置きして、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」と言ったのです。ギリシヤ人たちの面会希望に直接答えず、「死」について語りだしたのは、なぜでしょうか。
推定ですが、まずこのギリシヤ人たちは、イエスを聖書が預言してきたメシアであると認めていたこと、そしてイエスを危険なエルサレムからお連れして、ギリシヤに迎えようという目的を抱いていたこと、イエスはそれを見抜いて、死を避けることはできないと語る、こういう背景であった、と考えられます。
■一粒の麦が死ねば・・・
イエスが向かうのは、十字架の死です。その死は、メシアが栄光を受ける時です。なぜなら、その死は豊かな実を結ぶことにつながるからです。イエスが死ねば、その死と復活を通して、多くの新しいいのちが生まれます。人がイエスの死と埋葬と復活を信じるなら、その人には信じた瞬間に新しいいのち、永遠のいのちが与えられます。これが、信者の新生です。その信者の中には、ユダヤ人だけではなく、異邦人も多く含まれることになります。イエスは、ギリシヤ人たちの面会希望に対して、死は避けらない、エルサレムから逃れることはできないとお答えになったのです。
■信者に向けられる迫害を甘んじて受けよ
イエスはご自分が死や苦しみを避けることができないように、イエスを信じる者もまたイエスと同じような目に会うことを覚悟するよう、教えます。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」
イエスをメシアとして信じると、まわりの人々から憎まれ、蔑まれ(さげすまれ)、迫害される(参照、マタイ10:22〜23)。それを避けようとする者は、「自分のいのちを愛する者」です。迫害をイエスの名のために甘んじて受ける者が、「この世で自分のいのちを憎む者」(参照、マタイ10:24〜25、37〜38)です。
■それは自分の力や信念でできるものではない
憎まれ、迫害されることを甘んじて受けることは、自分の力や信念でできることではありません。もし自分はそれができるという人がいたら、その人はいざ迫害が起これば真っ先に逃げ出すでしょう。その代表格が、イエスを三度「知らない」と否定した使徒ペテロであり、ペテロと同じくイエスを見捨てて逃げた使徒たち全員です。
私の内側には、何らきよいものも、正しいものも、力強いものもありません。それがわかれば分かるほどに、イエスしか頼るお方は、いません。もし迫害があって、私がそれに耐えることができたとしたら、それはイエスが天で私のためにとりなし、イエスの御霊(聖霊)が私の内で働いてくださった結果でしかないでしょう。
「この世で自分のいのちを憎む者」とは、自分の無力さ、無価値、汚れをいやというほどわきまえて、ただイエスのみに頼る者です。そして迫害者を恐れずに、イエスを人の前で認めるのは、ただ神を信頼しているがゆえです。人の目には最悪や悲劇と見えても、神はご自身のもとに来る者に最善をなしてくださるという信頼です。
■わたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださる
26節で、イエスは弟子たちに、「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」と言われました。
イエスが向かうのは、十字架です。自己犠牲の道(ピリピ2:6〜8)です。そのイエスについて行くとなれば、同じく自己犠牲の道(参照、Ⅱコリ12:10)です。イエスに仕えるというのは、イエスの名のゆえに憎まれ、迫害されることを甘んじて受けていくことです。
イエスは、十字架の死にまでも従われたので、神は、この方を高くあげられました(ピリピ2:9)。復活、昇天、そして父なる神の右の座に着く(=父なる神と同格の神であるということ)という三段階での高揚です。
同様に、イエスの信者もこの世では低くされますが、携挙のとき、栄光の体を受けて(復活)、天に引き上げられます。そして、その後に地上に建てられるメシアの王国に私たち信者も入ります。そこでは、父なる神から信者への報いが用意されています。「豊かな実を結ぶために自我に死ぬ」という原則は、信者にもあてはまるのです。
□イエスの祈りと天からの声(ヨハネ12:27〜29)
■イエスの祈り
ここで、イエスは天の父なる神に祈ります。27節、「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」
ここには、人としてのイエスの心情が見られます。自然な思いとしては、苦難と屈辱の死は避けたい。それは私たちと同じ弱い肉体をお持ちになったイエスが、私たちと同じように感じた思いです。
そのときイエスの胸中に去来したのは、少年の頃から朝毎に、父なる神から教えを受けてきたことだったでしょう。その内容は、イエスがメシアとして、具体的に、何を語り、どう行動すべきか、とくに苦難を受けることとその時どのように対応するべきか、といったことです。イエスがよく、自分は父から聞いたことだけを語り、父から命じられたことだけを行っているとお話しになったのは、このことです。
■天からの声
28節、「父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
「栄光をすでに現わした」というのは、3年半にわたる公生涯の中での、種々のいやしと奇跡、変貌(ヨハネ1:14)、ラザロのよみがえり(ヨハネ11:4、40)などを指しています。
「もう一度栄光を現わそう」というのは、復活(ロマ6:4)・昇天・神の右の座に(ヨハネ17:5)という三段階の高揚を指しています。
■そばにいた群衆の反応
そばにいた群衆からは、29節で、「雷が鳴った」とか、「天使が話した」といった反応が出ました。
□イエスと群衆の対話(ヨハネ12:30〜36)
■天からの声は、あなたがたのため
30節、「この声が聞こえたのは、わたしのためではなくて、あなたがたのためにです。」
天からの声が聞こえたのは、イエスの公生涯では今回で3回目です。天からの声は、それを聞いた者たちが、イエスをメシアとして信じるためです。
■今がこの世のさばきである
31〜33節、「『今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。』イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」
「地上から上げられる」というのは、十字架にかけられて死ぬことです(参照ヨハネ3:14〜15)。
「今がこの世のさばきである」というのは、十字架のイエスの上に、この世のすべての罪が負わされて、神のさばきが下されるからです(ロマ3:25)。
「今、この世を支配する者は追い出される」というのは、サタンが支配者の地位を追われるということです(エペソ2:1〜9、コロ1:13〜14、2:15、3:3〜4、ヘブル2:14〜15)。私たち信者はもはや、サタンの支配の中にありません。
■すべての人を自分のところに引き寄せる
これは、十字架において、人類のすべての罪は処理され、救いがすべての人に提供されていることを意味します。ユダヤ人も異邦人も、区別なく、です。イエスの血によって罪は贖われたと、信仰をもって受け取ると、救いの効力がその人に現われます。かつて荒野で毒蛇にかまれた人々が、神の約束を信じて、さおの上にかけられた青銅の蛇を仰ぎ見ると、死の毒から救われたように、です。
■十字架はメシアにとって終わりではない(この部分は、熊本聖書フォーラムの集会における、ひとつの見解です)
十字架は、メシアにとっては、それで終わりではなく、そこから、三段階の高揚(復活・昇天・神の右の座につく)、教会の携挙、再臨と諸国民のさばき、メシア王国と大きな白い御座のさばき、新しい天と新しい地の永遠の秩序へと、展開していきます。すべての人は、イエスを信じようが信じまいが、必ずどれかの局面で、その人がイエスのもとに出る日が、あります。
そこで、「すべての人を引き寄せる」を、次のように理解することもできるのではないでしょうか。
旧約の聖徒たち・・ハデスの中の「アブラハムのふところ」(別名はパラダイス)から、第三の天へ【イエスの昇天のときに、これは既に起きました。この時点で、パラダイスは天に移ったとも言えます】
新約の聖徒たち・・・携挙のとき、栄光の体を受けて天へ
再臨のときに地上に生き残っている人々
イスラエル民族・・・全員救われ、メシアの王国へ
イスラエル民族以外の諸国民・・・諸国民のさばき
ハデスに残るすべての人々(=神の啓示を受け入れなかった人々)・・・大きな白い御座のさばき
こうして、すべての人は必ずイエスのもとへ引き寄せられることになります。