熊本聖書フォーラム

メシアの生涯 / ミナのたとえ

2016.02.22

カテゴリー:y メシアの生涯

人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。

それで、イエスはこう言われた。

ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。「私が帰るまで、これで商売しなさい。」しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、「この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません」と言った。

さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現われて言った。「ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。」主人は彼に言った。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい

二番目の者が来て言った。「ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。」主人はこの者にも言った。「あなたも五つの町を治めなさい。」

もうひとりが来て言った。「ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算に細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。」

主人はそのしもべに言った。「悪いしもべだ。私はあなたのことばによってさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。」そして、そばに立っていた者たちに言った。「その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。」

すると彼らは、「ご主人さま。その人は十ミナも持っています」と言った。彼は言った。「あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。」

(ルカ19:11〜27)

 

■たとえ話の目的

人々がこれらのことに耳を傾けているとき、というのは、イエスがザアカイの家で、「きょう、救いがこの家に来ました。」と宣言したときのことです。「救い」とか「贖い」という言葉は、ユダヤ人にとっては先祖たちがエジプトで奴隷であったところから救いだされた建国の大事件を連想させます。それは旧約聖書の出エジプト記に詳しく記録されています。これは、民族的な救い、それも政治的・軍事的解放です。人々は、イエスこそ待望のメシアであり、このお方によってローマはじめ諸外国からの支配を脱することができる、メシアの王国が到来する日は近い、と受けとめたのです。ここでイエスは、メシアの王国はすぐには来ないということを前提に、では王国が来るまで、信者はイエスの弟子としていかに生きるべきか、を教えます。ザアカイの救いがあったあとで、続いて今度は救われた者は地上の残りの生涯をいかに生きるべきか、その結果どのような報いがあるのか、がテーマです。イエスの教えはいつも、まず救いについて、そして次に、救われた者が信者としてどのように行動すべきか、それに基づく報いはどのようなものかについて、と進んで行くパターンです。

■遠い国へ行く主人とは、イエス

ある身分の高い人とは、イエスのことです。メシアの来臨には、初臨と再臨、2回あります。公生涯を十字架の死と復活をもって終えると、イエスは父なる神のもとに行きます。これが遠い国へ行くということです。しかし、イエスはやがて王として戻って来られます。これが再臨です。初臨と再臨との間には相当の時間的間隔がありますから、その間に生きる弟子たちには、忠実さが求められるというのが、このたとえ話での中心ポイントです。

■10人のしもべとは、イエスの弟子たち

再臨までの期間、彼らにはある賜物がゆだねられます。それもひとりひとり、同じ価値の賜物です。1ミナというと労働者100日分の賃金に相当しますので、それほど莫大な富というわけではありません。私たち信者が等しく神様からいただく賜物とは何でしょうか。それは、福音を伝える特権、キリストをこの世に紹介する特権、祈りの特権、献金の特権です。これをしまいこまずに、生かして使う忠実さが信者には求められています。

■イエスが王となって戻って来るのを望まない「その国民たち」

これは、イエスを拒否した当時のユダヤ人指導者たちとそれに従った民衆一般を指します。

帰宅する主人

主人は王位を受けて帰って来ます。これは王として戻ってくるメシアの再臨を指しています。

■しもべたちがどのように商売をしたかの評価

これは、イエスの弟子である信者が、「キリストの御座の裁き」を受けることを指します。裁きの対象は、信者になって以降の行為(Ⅱコリ5:10)です。ただし、この裁きの目的は、罪を暴き、救いを与えるか取り去るかというようなものではありません。いったん救われた信者が罪に定められることは決してないからです(ロマ8:1)。この裁きの目的は、信者に褒賞を与えることです。何が褒賞に価するか、その裁きの基準は、信者の行為が神のみこころに沿った働きであったかどうか(Ⅰコリ3:10〜15)です。表面的な行為ではなく、その人の内側の思い、動機を神はご覧になっています。そして、裁きの結果は、褒賞です。褒賞は何かというと、ボーナスや休暇ではありません。忠実さに比例して、メシア王国で多くの責任が与えられます。神の国では偉い人ほど仕えるのです。

3番目のしもべは、一ミナをふろしきに包んでしまいこんでいた

「ふろしき」と訳されていますが、汗をぬぐう布のことです。ハンカチ、ナプキンなどの類です。主人の財産を扱う方法としては、ふさわしくありません。

主人に対する弁解の言葉

この不忠実なしもべは、それを主人のせいにして弁解しました。主人は、その言葉をそのまま繰り返しました。それを認めたということではなく、彼の欺瞞を指摘するためです。本当にそう思っていたなら、彼は高利貸しに預けておくべきだったからです。

「銀行」と訳されていますが、当時は今のような銀行はありません。ギリシヤ語の(トラベザ)は、両替商の机のことです。両替商は顧客からお金を預かって、それを高い金利を付けて貸して利ざやを稼ぐというようなことをしていました。当時の貸し付け金利は、年率4〜12%、高利の場合は24〜48%にもなったそうです。

神の国の原則「だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです」

イエスをメシアとして信じ受け入れるという信仰によって、この十人のしもべたちは全員救われています。信仰、言い替えると神に対する信頼について言えば、最初は全員が同じように持っているのです。しかし、そのあと、忠実に仕えるかどうかで、十人のしもべが手に持つ物には差が出てきます。忠実に仕えれば仕えるほど、そのしもべの手の中にはあふれるほどに霊的果実が与えられていきます。しかし、忠実に仕えないでいると、最初のスタートラインの神に対する信頼までが薄れていき、神を恐れるようになります。その恐れから逃れるためには、神はきびしいお方だとか、神は愛なりといっても矛盾するじゃないか、と言い訳をするようになります。最後には、神とか信仰って何なの?、とまるで不信者と区別がつかないようになります。そのような信者の手の中には、何の果実もありません。3番目のしもべは、手にしていた一ミナすら失くしました。これが神の国の原則です。3番目のしもべは、褒賞すなわち王国での仕事も責任もないまま、メシアの王国に入ることになります。しかし、救いを失うことはありません。永遠のいのちを得るかどうか、メシアの王国に入れるかどうかは、しもべの行ないに一切関係がないのです。救いは一度受けたら、絶対に失われることがありません。これが神の恵みです。

私が王になるのを望まなかったこの敵ども

これは、イエスをメシアと信じなかった当時のユダヤの人々を指しています。ここは、不信仰なイスラエルが民族としてその後どのような神の裁きを受けるかを予告したものです。紀元70年、ローマ軍によってエルサレムは陥落しました。ユダヤ人の死者110万人、奴隷になった者も97,000人に達しました。このとき、イエスが語った警告を明確に理解していたユダヤ人クリスチャンたち(エルサレムのみならず、イスラエル全土で約10万人くらいと推定されます)はイエスの指示どおりに避難して、誰ひとりとして死んだり、奴隷になった者はいなかったのです。

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代表 :清水 誠一

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