熊本聖書フォーラム

メシアの生涯 / ザアカイの救い

2016.02.21

カテゴリー:y メシアの生涯

それでイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼はイエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしていたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げられて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊ることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:1〜10)

■エリコという町と取税人のザアカイ

イエスの公生涯3年半の活動はいよいよ最終場面に近づいてきました。エルサレムへの最後の旅、きょうはエリコの町を通過するときの出来事です。

エリコは国境の町で、通行税を徴収する収税所がありました。また、ここは、ユダヤの町々の中で最も裕福な町のひとつで、物品税の徴収額も多かったそうです。旧約聖書にも登場する古い町ですが、その町のそばにヘロデ大王が冬の宮殿を建てて以来、当時のリゾート地ともいうべき新しいエリコの町が形成され、冬季には多くの訪問者があったそうです。

ザアカイは、取税人のかしらでした。取税人というのは、役人ではありません。通行税や物品税を徴収する仕事を入札で、支配者のローマから請け負う民間人です。ザアカイはその仕事を手広くするために、他の取税人たちを雇っていたのです。

取税人は、普通にやっていても金持ちになれるはずですが、ごまかして私腹を肥やしていた者も多かったようです。そのため、ユダヤ人社会では、取税人は金のためにローマの手先となり同胞から搾取する裏切者とされ、遊女と並んで罪人と見なされていました。

■ザアカイの行動

ザアカイは背が低かったとあります。当時のユダヤ人男性の平均身長もそれほど高くないので、ザアカイは身長150センチくらいだったのでしょう。彼は通りを行くイエス一行を見物したくても、人垣で見えません。イエスに関心があったので、なんとか見たいと思っていました。

エリコはオアシスの町で、亜熱帯気候の地で、多くの木が育っていました。とくにナツメヤシ、いちじく桑の木は多かったようです。いちじく桑は、枝が幹の低い所から出ているので、登りやすい木です。ザアカイは、いちじく桑の木に登って、イエス一行を眺めました。

■イエスの行動

イエスは、ザアカイを【見上げた】。

イエスは、ザアカイの【名を呼んだ】。

イエスは、ザアカイを【招いた】。

イエスは、【きょうは】彼の家に泊まることに【してある】と言われた。

このイエスの行動は、神が私たちを救いに導いてくださるプロセスそのものです。

神は、私を探し出し、見つけてくださいます。

神は、私を知っておられます。

神は、私を招いてくださいます。

私を招いてくださる神は、私を永遠の昔から救いに選んでくださっていました。

救いを受けるのは神の招きに応答する「きょう」という時です。

■人々の応答とザアカイの応答

イエスの招きは、ザアカイには予想もしていなかったことでしたが、彼は大喜びでイエスを家に迎えました。「喜ぶ」(カイロウ)、名詞「喜び」(カラ)。このギリシヤ語の言葉は、ルカの福音書では9回使われています。どれも、信仰と救いに関連した喜びを表現する言葉として使われていますから、ザアカイもこの時点で、救いを受け、新生したといえます。

しかし、人々は、イエスが罪人である取税人のザアカイの家に客人となったことに批判的でした。

■ザアカイの公の宣言

イエスを家に迎えたザアカイは、おそらく食事の席を設けたことでしょう。高名なラビを家に迎えると、その食事の席は公開講話となり、人々が自由に傍聴できるというのが、当時の習慣です。この席上で、ザアカイはある発表をします。それは、自分の財産の半分を貧しい人たちに施すこと、まただまし取った物は、4倍にして返すという内容です。これは、当時のユダヤ人にとっての社会規範である「モーセの律法」の要求を超えています。モーセの律法では、物をだまし取った場合は、120%の返済(レビ6:5、民5:7)。また、家畜や物を盗んだ場合でも、200%の返済(出22:4、22:7)です。ザアカイは、律法を守らなくては救われないという恐れの心で宣言したのではないことが、よくわかります。彼は、救われた喜びにあふれて、心からこうしたいと思ったのです。このことは、彼が救われて新生したことを証明しています。

■イエスの宣言

ザアカイの救いは、「きょう」起こったことです。「この人もアブラハムの子なのですから」

ユダヤ教の指導者たち、特にパリサイ派は、「アブラハムの子孫、すなわちユダヤ人であれば神の国に入れる。しかし、遊女や取税人はその特権から除外される」と教えていました。

しかし、イエスは宣言します。ザアカイは、アブラハムの子孫であり、アブラハムの信仰にならう者となった。ザアカイは、信仰によって救われたのである、と。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。これが、神が人となってこられたお方、メシアの初臨の目的です。

熊本聖書フォーラム

代表 :清水 誠一

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