彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
(マルコ10:46〜52)
状況説明
イエスの一行は、ペレヤ地方を去ってヨルダン川を東から西に渡り、エリコまで来ました。エリコは、エルサレムには徒歩で一日の距離です。イエスの一行だけでなく、多くの巡礼者がエルサレムに向かっていました。
エリコには、2か所あります。旧約時代からのエリコと、その近く、南に2キロほどのところに新たに造られたエリコです。
新しいエリコは、ヘロデ大王(紀元前4年に死去)が冬の王宮のために建設させた町です。冬はエルサレムよりも温暖なリゾート地になるので、多くの人々が来て賑わったそうです。
イエスの一行が旧約のエリコを出て(マルコ10:46)、新約のエリコに向かっていたとき(ルカ18:35)、バルテマイという盲人の物乞いが道ばたにすわっていました。
当時の盲人は一般的には、職業に就くことはできません。生きるための方法は、物乞いをすることです。ですから通常は、人通りの多い場所にすわりました。
マタイ20:30では、「ふたりの盲人」とあります。マルコが「ふたり」とは書いていないのは、中心人物の方、つまりバルテマイに焦点を当てているからです。
バルテマイは、イエスの評判を知っていました。ナザレのイエスは盲人の目を開いたという評判です。
バルテマイの願い
バルテマイは、イエスに「ダビデの子のイエスさま」と呼びかけました。彼は、イエスをメシアとして信じたのです。イエスを拒否したユダヤ人指導者たちとは対照的です。
バルテマイは、「私をあわれんでください」と叫びました。エルサレムに向けて進む一行にとっては妨害になるので、弟子たちも含め大勢の人たちが、彼を黙らせようとしました。
しかし、彼はますます激しく叫び立てました。
イエスの答え
イエスは立ち止まられました。盲人をたしなめている人たちに、「あの人を呼んで来なさい」と指示しました。
人々は、盲人に励ましの言葉をかけました。「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」
盲人は上着を脱ぎすて、すぐ立ち上がって、イエスのところに来ました。上着は、物ごいにとっては、防寒用であり、寝具であり、そして物乞いで施しを受ける道具でもあります。それを捨てたというところに、もうこれは必要なくなるという確信がうかがえます。
イエスは質問します。「わたしに何をしてほしいのか」、これは盲人の信仰を確認し、信仰を引き出す質問です。
盲人は、「先生」と呼びかけていますが、原語では「ラボニ」=我が主(参考 ヨハネ20:16 マグダラのマリヤから復活のイエスへの呼びかけ)です。「ラボニ。目が見えることです」と答えました。
イエスは、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と宣言しました。
信仰自体には人の病を癒す力はありません。癒すのは神です。信仰は、その神の恵みを受け取る経路、方法というべきものです。
バルテマイはすぐさま癒され、目が見えるようになりました。肉体的癒しは、彼が霊的に救われたことを示しています。
バルテマイのその後
彼は、イエスのあとに従いました。「イエスの行かれる所について行った」とあります。イエスはこの後、エルサレムに入り、十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活します。バルテマイは、その歴史的大事件の目撃者となるのです。
バルテマイという実名が出て来るのは、初代教会で有名な信者になっていたからだと思われます。
私たちの名も、神の書物に書かれています。神の書物の中に、「いのちの書」と「小羊のいのちの書」と呼ばれるものがあります。
誕生した人の名は、すべて「いのちの書」に書かれます(詩139:16)。信じた人の名前は、「いのちの書」に残りますが(黙3:5)、不信者のままで死ぬと、その名は消されます(出32:32〜33、詩69:28)。
ピリピ4:3の「いのちの書に名のしるされているクレメンス」は、信者ですが、この時点で故人であったと推測されます。
他方、「小羊のいのちの書」には、信者の名が世の初めから記されています(黙13:8、17:8)。最終的には、「いのちの書」と「小羊のいのちの書」の記載名は、同一になります。
イエスは言われました。「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20)
(出典:中川健一 講解メッセージ「メシアの生涯 第148回 『バルテマイの癒し』」)