さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。
すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」(マルコ10:32〜34)
しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。(ルカ18:34)
イエスは、エルサレムへの最後の旅に出ました。
出発地はエフライム、そこからエルサレムへは南に25キロほどですが、逆に北上して、サマリヤを通り、ガリラヤの境でヨルダン川を東側に渡り、ペレヤ地方を南下して、死海の手前でヨルダン川を西側に渡り、エリコ経由でエルサレムに向かう、という周回コースです。
この記事は、ヨルダン川東側のペレヤ地方を南下しているときのことです。
イエスは先頭を立って歩いて行かれたので、弟子たちは驚き、あとについていく者たちは恐れを覚えた、と記されています。
弟子たちが驚いたのは、それまでの3年余り、危険が迫るとイエスは、いつもそれを避けてきました。それが、今回は一転して、最も危険なエルサレムに向かってイエスが先頭に立って進んでいったからです。
あとについて行く者たちが恐れたのは、エルサレムに行けば、いよいよユダヤ人指導者たちとの正面対決です。騒乱ともなれば、現体制の後ろ盾となっているローマ軍も出動してくるだろう、という緊迫感を誰しもが抱いていたのです。
このような状況の中で、イエスは受難と復活の予告をします。イエスは再び十二弟子を呼んだとありますように、受難と復活の予告としては、これが三度目です。三度目にしても、弟子たちは、その意味を理解することはできませんでした(ルカ18:34)。
なぜ、弟子たちは理解できなかったのでしょうか。
イエスの予告は、あいまいな表現ではありません。ギリシヤ語の文法上、確実に起きることについて語る未来形が用いられています。「かもしれない」ではなく、「必ずこうなる」という意味がこめられた表現です。この未来形で八つの事柄が予告されました。
①メシアは、「祭司長、律法学者たち」(=ユダヤ議会サンヘドリン)に引き渡される
②ユダヤ人たちは、イエスを死刑に定める
③ユダヤ人たちは、イエスを異邦人(ローマ人)に引き渡す
④異邦人たちは、イエスをあざける
⑤つばきをかける
⑥むち打つ
⑦ついに殺す
⑧しかしメシアは、三日後に復活する
ここまで明確に語られていながら、弟子たちが理解できなかったわけは、弟子たちがイエスについてきている動機にあります。前回の「ペテロとの対話とぶどう園の労働者たちのたとえ話」(マルコ10:28〜31)でも、そうでした。弟子たちの心の中には、イエスについて行けば、イエスは王となり、自分たちも高い地位につける、という目算がありました。
そのような期待を強く持っている弟子たちにとって、エルサレムに向かうこの旅は、戴冠式に向かう王の行列のようなものです。他方、イエスは十字架に向かっています。目指すところが違うので、イエスが受難や復活の予告をどんなに語っても、弟子たちには理解することができなかったのです。
弟子たちの動機がはっきりと現れることが起きます。それは、次の記事「ヤコブとヨハネの願い」です。
(出典:中川健一 講解メッセージ「メシアの生涯 第147回 『受難と復活の予告』」)