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熊本聖書フォーラム

富に関する教え       (2015年12月27日)

2015.12.30

カテゴリー:熊本集会メッセージ

中川健一先生のメッセージ「メシアの生涯」第145・146回、題名は「富に関する教え」、マタイの福音書第19章からの学びです。

では、まず前回までの文脈の確認をしましょう。

イエスは、エルサレムへの最後の旅に出ます。出発地のエフライムからエルサレムへは南に25キロメートルほどですが、逆に北上して、サマリヤを通り、ガリラヤの境でヨルダン川を東側に渡り、ペレヤ地方を南下するコースです。

ヨルダン川を東側に渡る前に大きな出来事がありました。

10人のツァラアト患者の癒しです。これは、すでにイエス殺害計画を決めていた大祭司カヤパへのしるしです。

しかし、癒された10人のうちイエスのもとに戻って感謝したのは、ただひとりだけ、外国人のサマリヤ人でした。残り9人のユダヤ人元患者は戻らなかったのです。大祭司カヤパがイエスをメシアとして認めない態度を取り続けたことが、これでわかります。

こうなると、神の国のプログラムは、イスラエルからいったん退けられ、教会時代という次の段階に向かいます。この教会時代における神の国は、目に見えるものではないという教え、そしてイエスの再臨に関する教え、さらに、再臨までの時代を失望せずに祈り続けるようにという教えがあとに続きました。

今回から、ヨルダン川を東側に渡った後、ペレヤ地方を南下する際の出来事に入っています。今回の前半は離婚に関する教えでした。後半は、富に関する教えです。

アウトラインを見てみましょう。

富に関する教え(マタイ19:13〜20:16)

  1. 幼子を祝福するイエス(13〜15節)
  2. 富める青年との対話(16〜22節)
  3. 弟子たちとの対話(23〜26節)
  4. ペテロとの対話(27〜30節)
  5. ぶどう園の労働者のたとえ話(20章1〜16節)

この教えの中では、5つの場面展開があります。幼子を祝福するイエス、富める青年との対話、弟子たちとの対話、ペテロとの対話、そして、ぶどう園の労働者のたとえ話の5つです。

少し長い箇所になりますが、この5つはつながっています。前の三つは、救いについてです。「救い」は、救いを受ける人の行いによらず、神の恵みによる、ということを教えています。

後の二つは、救いを受けた信者がその働きに応じて神から受ける褒賞、つまり「報い」についてです。「これだけのことをしたから、このぐらいはもらえるはずだ。」というような、神との取引のように考えるものではない。自分がどう評価されるかは神を信頼してゆだね、自分は報いに値しない者だという自覚が大切である、という教えです。

では、この5つの展開を順に見ていきましょう。

幼子を祝福するイエス(13〜15節)

無力な幼子は、親に信頼するしか生きる方法はありません。幼子のような信仰によって神に信頼することが、救いを得る道である、ということが教えられます。

富める青年との対話(16〜22節)

今度は幼子とは対照的な人が登場します。16節で「ひとりの人」とありますが、ここで使われているギリシヤ語の「ネアニスコス」ということばは、20〜40歳くらいまでの成人の意味です。22節では彼は資産家であることがわかりますし、ルカの福音書18:18では「役人」と紹介されています。おそらく、ユダヤ議会の議員かユダヤ教の会堂管理者だと思われます。若いのになかなかの人物です。

しかも、マルコの福音書10:17では、彼はイエスの御前にひざまずいた、とありますから、熱心な探究心の持ち主です。

青年はイエスに質問します。「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」(16節)。

当時のパリサイ派の教えによれば、ユダヤ人であれば必ず救われます。まして、裕福な人は明らかに神の恵みを得ていると考えられていました。しかし、この青年には救いの確信がなかったのです。

マルコの福音書によると、彼はイエスに「尊い先生」と呼びかけました(マルコ10:17)。

ここで、「尊い」とか「良い」と訳されているギリシヤ語は、「アガソス」という言葉が使われています。アガソスは、「本質的に善」という意味です。これに対して、「カロス」と言うと、それは「外面的な善」を意味します。

「尊い」は、通常はラビ(先生)に呼びかける際に使う言葉ではありません。

青年の呼びかけに対してイエスは、「良い方は、ひとりだけです」と答えます。マルコの福音書では、「尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません」(マルコ10:18)とも言っています。

人は罪の中に堕ちており、本質的に善なる者はいません。神だけが尊いお方です。

ただし、ここでイエスは、ご自身の神性を否定しているのではありません。青年から次のような返答がくるのを、一呼吸おいて、待っています。「あなたこそ尊いお方、神です」という返答を。

しかし、青年がそのように答えないので、イエスはモーセの律法を示します、「戒めを守りなさい。」

行いによる救いは不可能であることを教えるために、神が人に与えたものが律法です。律法の役割は、人に罪を認めさせることです。ところが、ユダヤ人たちは律法を持っていることで、それを持たない異邦人を見下し、誇り高ぶってしまいました。罪を認めるのではなく、誤った選民意識に陥ったのです。

この青年も律法の本来の役割に気づいていません。律法を行えといわれるなら、自信があります。今度は青年の反応は早いです。どれを行えばよいのか、すぐに聞きたい。青年は質問します、「どの戒めですか」(18節)。この質問には、おそらくパリサイ派の口伝律法も守るべきなのか、という意図も含まれていたことでしょう。

青年の問いに対して、イエスは、十戒の後半、人間関係に関する律法(出エジプト20:12〜17)を示し、それを総括する意味で「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(レビ19:18)と言われました(18〜19節)。

20節、青年は「それらは、みな守っています」と答えます。しかし、彼は内心それでも何かが欠けていると感じています。彼はイエスに尋ねます。「何がまだ欠けているのでしょうか。」

マルコの福音書では、このときイエスは、この青年をいつくしみ、じっと見つめられたとあります(マルコ10:21)。イエスは、彼を愛されました。彼が神の国に入ることを願われたのです。ここには、神はすべての人が救われることを願っておられること、しかし、神はそれを強制するようなお方ではなく、人が信仰をもって応答するのを待っておられることがよくわかります。

青年が何か欠けていると感じている理由は何でしょうか。21節、イエスは、彼の本当の問題を指摘します。それは、神ではなく、富が彼の人生の支えであったのです。

もし彼が、イエスを神と信じる信仰によって義とされているなら、彼は貧しい人たちに愛を示すはずです。「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そして、わたしについて来なさい」というイエスの招きに対して、青年はどうしたでしょうか。

22節、青年は悲しんで去って行きました。

彼は、隣人を自分自身のように愛していなかったのです。また、イエスからの招きに応じて富を手放すことができませんでした。これは十戒の中、第一の戒めに対する違反です。神以外のものを神としてはなりません。

青年は富を基盤として自分の人生を送り、人から称賛されるような行いに励んでいました。しかし、そのようなことによっては、人は救いを得られません。

弟子たちとの対話(23〜26節)

金持ちが救われるのは、らくだが針の穴を通るよりもむずかしい。

「エルサレムに『針の穴』という門があって、それを指す」というのは、俗説です。その門ができたのは、もっと後の時代になってからです。

ここで語られる針の穴とは、縫い針の穴(ルカでは、手術用の針)です。そのような小さい穴は、糸ならともかく、らくだが通り抜けられるわけはありません。ここは、誇張法の表現です。

弟子たちの反応は、「金持ちでも救われないとしたら、誰が救われることができるのか」という驚きでした。金持ちは神からの祝福を受けている人だ、というパリサイ派の教えの影響を弟子たちも受けていたことがわかります。

イエスは教えます。「それは人にはできない。その不可能なことを、神は、なさる。」 金持ちにも、貧しい人にも、救いの可能性を神が開いてくださるのです。

神がどのように人を救いに導くのか、そのことはここでは語られませんが、イエスのエルサレムへの最後の旅そのものが、人を救うための十字架上の死と葬りと復活に向かう旅です。

ペテロとの対話(27〜30節)

青年とのやりとりをそばで聞いていたペテロがここでイエスに質問します。「私たちは何もかも捨てて、あなたに従ってきました。私たちには何がいただけるのでしょうか」。

たしかにガリラヤ湖の漁師であったペテロたちは、船も網も捨ててイエスについて来ました。取税人であったマタイは、取税所を捨てて来ました。

「私たちは何がいただけるのでしょうか」、ここにはペテロの心の中に、イエスと取引をするかのような思いがあることが表れています。

ペテロの質問に対して、イエスはまず褒賞の約束を与え、次にその約束を受け取るときの心得を教えます。その心得が、ぶどう園の労働者のたとえ話です。

約束は二つ、第一はペテロはじめ十二人の使徒たちが受ける褒賞です。「世が改まって」というのは、千年王国の時代を指します。そのとき、彼らはイスラエル十二部族をそれぞれ支配する立場になるという約束です。

第二は、信者一般が受ける褒賞です。今の時代において、信仰を理由に家族や財産を失うことがあります。しかし、それに代えて、世界に広がる神の家族との交流、犠牲にした地上の富の幾倍もの霊的富を与えられます。そして、永遠の褒賞は、永遠のいのちです。

このように約束を与えたうえで、イエスは、褒賞をあてにして何かを捨てるという姿勢に対して警告します。

「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多い」(30節)と言って、次のたとえ話に向かい、たとえ話の最後(20:16)も同じ言葉で締めくくられます。

ぶどう園の労働者のたとえ話(20章1〜16節)

このたとえ話の中では、神がぶどう園の主人にたとえられています。

作業は午前6時から午後6時までの12時間です。

日雇い労働者になる人たちには、当時、三種類の人たちがいました。

  1. 小作農で、自分の畑の作業がすぐに終わる人
  2. 父の畑をまだ相続していない息子たち
  3. 畑をなくしたため、職を求めて転々としている労働者

日雇いの仕事を求める人たちは、朝早くから市場に集まります。労働者を雇おうとする人がそこに来るからです。

このたとえ話の中では、労働者がいくつかのグループに分かれます。

まず、2節は、午前6時の男たちです。彼らは、ぶどう園の主人と日雇い契約を結び、12午前6時から労働時間12時間、1デナリで雇われます。この賃金は、当時の相場です。

次に、3〜5節、午前9時、午前12時、午後3時の男たちと3つのグループが続きます。彼らは、市場に来たものの仕事にありつけず、何もしていない人たちです。主人は彼らとは日雇い契約を結びません。「相当なものをあげるから」という主人の言葉に信頼して、彼らはぶどう園に行って働きます。

最後に5番目のグループです。6〜7節、午後5時の男たちです。彼らは、仕事がないので、一日中そこに立っていました。主人はこの人たちには、賃金の話は一切していません。とにかく、ぶどう園に行って働くように言います。彼らは1時間しか働いていません。

さあ、夕方になり、その日の賃金を払うときになります。

8〜9節、後から来た者たちから順に主人から賃金が払われました。5番目の最後のグループ、1時間しか働いていない午後5時の男たちはじめ、日雇い契約のない者たち全員が、1デナリをもらいました。

これを見ていた第一のグループ、日雇い契約のもとに12時間働いた午前6時の男たちは、自分たちはもっと多くもらえると思いました。

ところが、10〜12節、同じ1デナリの賃金に、午前6時の男たちの不満が爆発します。

これに対する主人の主張は、次のようなものでした(13〜15節)。

  1. 契約に基づく支払であって、不当なことは何もない。
  2. 午後5時の男たちにも同額を払うのは、そうしてあげたいから。彼らの生活のためには、その金額が必要であることを、知っている。
  3. 自分のものを自分に思うようにしてはいけないという法はない。

言われてみれば、たしかにそのとおりです。

午前6時の男たちの不満の原因は、

他人が祝福されているのを見てねたましく思う心にあるのです。さらに、なぜ、ねたましく思うのかというと、自分はこれだけのことをしているという自負心、なのに評価されないという思い上がり、褒賞をあてにして働く利己心です。自負心、思い上がり、利己心、この三つは、人の行ないを腐らせます。

今日の結論です。

神からの褒賞を利己的な心で求める者は、あとになる。

褒賞に関して神と取引するような思いでいる者は、あとになる。

神の褒賞に関しては、人の目からは驚きがある。

 

熊本聖書フォーラム

代表 :清水 誠一

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