中川健一先生のメッセージ「メシアの生涯」第144回、題名は「離婚に関する教え」、マタイの福音書第19章からの学びです。
では、まず前回までの文脈の確認をしましょう。
イエスは、エルサレムへの最後の旅に出ます。出発地のエフライムからエルサレムへは南に25キロメートルほどですが、逆に北上して、サマリヤを通り、ガリラヤの境でヨルダン川を東側に渡り、ペレヤ地方を南下するコースです。
ヨルダン川を東側に渡る前に大きな出来事がありました。
10人のツァラアト患者の癒しです。これは、すでにイエス殺害計画を決めていた大祭司カヤパへのしるしです。
しかし、癒された10人のうちイエスのもとに戻って感謝したのは、ただひとりだけ、外国人のサマリヤ人でした。残り9人のユダヤ人元患者は戻らなかったのです。大祭司カヤパがイエスをメシアとして認めない態度を取り続けたことが、これでわかります。
こうなると、神の国のプログラムは、イスラエルからいったん退けられ、教会時代という次の段階に向かいます。この教会時代における神の国は、目に見えるものではないという教え、そしてイエスの再臨に関する教え、さらに、再臨までの時代を失望せずに祈り続けるようにという教えがあとに続きました。
今回は、ヨルダン川を東側に渡った後、ペレヤ地方を南下する際の出来事です。
アウトラインを見てみましょう。
離婚に関する教え(マタイ19:1〜12)
- パリサイ人たちの質問(1〜3節)とイエスの答え①(4〜6節)
- パリサイ人たちの反論(7節)とイエスの答え②(8〜9節)
- 弟子たちの感想(10節)とイエスの答え③(11〜12節)
パリサイ人たちの質問(1〜3節)とイエスの答え①(4〜6節)
3節に、「パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みた」とあります。
この出来事が起こっている場所であるペレヤ地方は、ヘロデ・アンティパスの領地です。ヘロデは、自分の離婚と結婚を非難したバプテスマのヨハネを逮捕し、獄中でヨハネを斬首した人物です。
ここでもしイエスが律法を守るように教えれば、パリサイ人はヘロデにそのことを伝えるつもりです。そうすると、イエスはヨハネと同じように捕えられる恐れがあります。
逆にイエスが律法に反することを教えれば、イエスはメシアではないということになります。イエスがどう答えようと、わなにはめようという意図が、この質問にはうかがえます。
3節でパリサイ人たちは「何か理由があれば離婚してもよいのか」と質問しています。この背景には、律法の中に認められている離婚理由「何か恥ずべき事」(申命記24:1)をどう解釈するかという、当時のユダヤ教内部の論争がありました。
「何か恥ずべき事」とは、姦淫の罪ではないことは、律法の中で明らかです。姦淫ならば、離婚では済まずに、石打ちの刑になると別の規定にあるからです。
では、「何か恥ずべき事」とは何でしょうか。ユダヤ教の中のシャマイ学派は、狭い解釈をとって、不道徳の罪に限ると主張しました。
それに対してヒレル学派は広い解釈をとって、どんな些細な理由でもよいと主張しました。たとえば、焦げたスープやパンを作った、より美しい人と出会った、でもよいというのです。
パリサイ人たちの質問に対して、4〜6節で、イエスは、創世記の人類創造の記事(創世記2:24)から、神の元々の意図を示します。「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。だから、神が結び合わせたものを引き離してはいけません。」
離婚は元々神の意図の中にはなかったというのです。イエスの回答の中には触れられていませんが、預言書のマラキには、「神は離婚を憎まれる」ともあります(マラキ2:16)
パリサイ人たちの反論(7節)とイエスの答え②(8〜9節)
イエスの答え①に対して、パリサイ人は、ではなぜ律法は離婚状を書いて妻を離別することを許可したのか、その理由を質問します。
イエスの答え②は、「あなたがたの心がかたくななので」です。つまり、妻に最悪の事態が起こることを避けるための妥協策だと教えました。
「初めからそうだったのではありません」。結婚に関する神の最初の意図は、罪は入りこんだために、妥協策を必要とするようになったというのです。
ここでイエスは、離婚が許可される理由として、「不貞(ポルネイア)」をあげます。このことばは、「姦淫(モイケイア」と同じ意味です。結婚関係にある者が性的罪を犯すことを指します。ただし、誤って一度だけ犯す性的罪ではなく、継続される性的罪のことです。イエスの意図は、おそらく、結婚外の性的行為全般を指すものと考えられます。
参考のため付け加えると、新約聖書において許される離婚理由としては、「不貞」以外に、もう一つだけあります。夫婦のどちらか一方だけが信者であり、信者でない方が信仰を嫌って去っていく場合です(Ⅰコリ7:15〜16)。
ここでイエスが離婚について教えた内容は、夫の側に強い権限を認める当時の社会を念頭におくと、結婚した婦人の立場を守るためのものであったと言えます。
弟子たちの感想(10節)とイエスの答え③(11〜12節)
「離婚ができないのなら、結婚などしない方がましだ」と弟子たちが言いました。ここには、当時のユダヤ人社会の常識がよく表れています。
現代の私たちには、弟子たちがとんでもないことを言っているように感じますが、当時は、本人たちが知りあって結婚するわけではありません。両親が決めた相手と結婚するのが通例です。もし気に入らなかったら、離婚せざるを得ないと容認する風潮がありました。
これに対してイエスは、独身は誰もができることではない、と教えました。「自分から独身者になった者」というのは、情欲を自制できる賜物を聖霊からいただき、福音宣教のために奉仕に専念する人のことをいいます。
これは「独身の賜物」と呼ばれます。使徒パウロはそのような賜物を持った人でした(Ⅰコリ7:7〜8 )。したがって、聖霊の賜物を受けて神の国のために独身生活を選ぶことは、奨励されることです。