前回までの流れ
イエスは、ユダヤ地方エルサレムの近郊、ベタニヤで、ラザロを復活させました。
ラザロの復活は、「ヨナのしるし」です。これは、イエスのメシア性を証明する奇跡です。
しかし、ユダヤ議会サンヘドリンは、イエスを殺すことを決定しました。その中心人物は、大祭司カヤパです。
イエスはユダヤ地方を去り、ベタニヤの北約25キロの町、エフライムへ退きました。
イエスが次にエルサレムに入るのは、十字架にかかる時です。
今回からのあらまし
紀元30年、いよいよエルサレムへの最後の旅に出発します。
経路は、そのまま南下するのではなく、逆に北上して、サマリヤを通り、ガリラヤとの境のところで東へ折れ、ヨルダン川を渡って、東側のペレヤ地方を南下して、再びヨルダン川を渡って、エリコ経由で、エルサレムへ。
これは、ユダヤ人たちがエルサレムに上るときの通常のルート。春の祭り、過越の祭りを前に、エルサレムへの巡礼団やそれをあてこんだ商売人たちの人と物資の動きが活発であったでしょう。
この旅の途中での出来事やイエスが教えたことを見ていきましょう。
きょうのアウトライン ルカの福音書からです。
- 10人のツァラアト患者の癒し(17章11〜19節)
- 神の国に関する教え(20〜21節)
- 再臨に関する教え(22〜37節)
- 祈りに関する教え(18章1〜14節)
では、10人のツァラアト患者の癒し(17章11〜19節)を見ましょう。
11〜13節は、10人のツァラアト患者の懇願です。
当時、ツァラアト患者は、社会から隔離され、孤独な生活に追い込まれました。旧約聖書のレビ13:45〜46が参考になります。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げています。
14節は、イエスの約束です。イエスは彼らに、自分を祭司に見せなさいと命じました。そのことばを信じて行動を開始するなら癒される、という約束です。事実、彼らは全員が癒されました。
このあと、癒されたツァラアト患者たちは、大祭司カヤパに自分自身を見せたはずです。大祭司カヤパは、もうツァラアトではないという証明書を発行します。そうすると、元患者たちは、ユダヤ人共同体に復帰することができます(レビ13〜14章)
15〜16節は、そのうちのひとりの応答です。
彼は、大声で神をほめたたえながら戻って来て、イエスの足元にひれ伏して感謝しました。これは、礼拝の姿勢です。彼はサマリヤ人でした。
17〜19節は、イエスの嘆きです。
ひとりの外国人(サマリヤ人)だけが戻って来たのです。イエスは、その人の信仰を祝福されました。そのことは、その人が霊的救いを受けたことを意味します。しかし、癒された9人のユダヤ人は、戻って来ませんでした。
大祭司カヤパが、10人のツァラアト患者が癒されたのを目の当たりにしても、イエスのメシア性を拒否したからです。
実は、イエスの公生涯3年半の中で、イエスのメシア性を証明する奇跡は、1人のツァラアト患者の癒しで始まり(ルカ5:12〜16)、この10人の癒しで終わります。
ユダヤ人たち全体に向けてのしるしは、「ヨナのしるし」しか与えられません。ラザロの復活、イエスの復活、そして大患難時代における二人の証人の復活です。
この10人のツァラアト患者の癒しは、ユダヤ人の最高指導者である大祭司カヤパへのしるしです。カヤパがこれを拒絶したことは、9人のユダヤ人患者がひとりも戻ってこなかったことで明らかとなりました。
次は、神の国に関する教え(20〜21節)を見ましょう。
20節は、ユダヤ教パリサイ派の人たち、いわゆるパリサイ人たちの質問です。
パリサイ人たちは、世が混乱した時に、神が大いなる奇跡をもって介入される、そのとき救世主メシアが来ると信じていました。メシアが来て立てる王国が、神の国です。パリサイ人たちは、イエスに神の国はいつ来るのか、と質問しました。
イエスは、その伝道活動の中で「神の国」について語っていたので、これは予想される質問です。
イエスの回答(20b〜21節)の前提には、ユダヤ人指導者たちによるイエスのメシア性拒否があります。ここでは特に、先ほど大祭司カヤパが10人のツァラアト患者の癒しを見てもなお、イエスのメシア性を拒否したことが関連しています。ユダヤ人たちが拒否したことで、神の国のプログラムは、いったんユダヤ人たちから取り去られ、教会時代へと歴史は動いていきます。
イエスの回答は、教会時代における神の国は、人の目で認められるようなものではない、ということです。
そして、「神の国は、あなたがたのただ中にある」というのは、神の国が信じる人の心の中にあるという意味ではありません。ここで、イエスが語っている相手のパリサイ人たちは、信者ではないからです。
彼らが取り巻いている中に立っているイエス自身が、神の国の代表であり、象徴である、という意味です。
では、次は、アウトラインの3番目、再臨に関する教え(22〜37節)を見ましょう。
ユダヤ人たちがイエスを拒否したので、イエスは天に戻ります。弟子たちには、辛い日々が待っています(22節)
教会時代が終わると、地上には大患難時代と呼ばれる7年の時期が来ます。その7年の終わりにメシアが地上再臨します。イエスが帰ってくるのです。ここではその再臨について詳しくは述べられていませんが、それは、すべての人が認識できる状況で実現するというのです(23〜24節)
その前に、メシアはこの時代の人たちに苦しめられ、殺されます(25節)
大患難時代の直前まで、世界の人々は普段通りに生活をします(26〜30節)
イスラエルの地に住む者は、大患難時代のある時期にちゅうちょなく行動を起こすべきです。後ろを振り返ってはなりません(31〜35節)
その時期は、マタイ24:9〜28の中の15節にあります。大患難時代のちょうど中間、3年半たったときです。参考箇所は、黙12:6、14です。
荒野に逃げているイスラエルの民に、反キリストの軍勢が迫ります(37節)
「死体」とは、3分の1に激減し、絶対絶命の状態に陥ったイスラエルのことです。
「はげたか」とは、反キリストの軍勢です。
その場所は、ボツラ(現在のヨルダンにあるペトラ)です。その預言は、つぎのような旧約聖書の箇所にあります。
ミカ2:12〜13、エレ49:13〜14、イザヤ34:1〜8、63:1〜6
きょうのアウトライン第四番目は、祈りに関する教え(18章1〜14節)です。
これは再臨のテーマの延長線上にある教えです。ここには、ふたつのたとえ話がでてきます。
まず、やもめと裁判官のたとえ話(1〜8節)です。
いつでも祈るべきであり、失望してはならない(1節)とあります。再臨までの長くて困難な時期を視野に入れて、このたとえ話が語られます。
本来、裁判官(さばき司、長老)は、神を恐れる人です。そして、律法を破る者や弱者を搾取する者を裁き、弱者の権利を擁護する立場の人です。いわば、神の代理人です。
やもめは、社会的弱者の代表ともいえます。
ここでは、不正な裁判官ですが、やもめのしつこい願いに答えます。ましてや、天の父はなおさら、選民の祈りを聞いてくださる、というのが、教えのポイントです。
選民とは、大患難時代の少数のユダヤ人信者です。
人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか、というのは、修辞的質問です。「やもめが発揮したような執拗さで、信じて祈りなさい」という強いすすめです。
次のたとえ話は、パリサイ人と取税人のたとえ話(9〜14節)です。
「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」というのは、明らかにパリサイ人を指しています。
当時のユダヤ人共同体の中では、パリサイ人=最も敬虔な人、取税人=売国奴として最も軽蔑される人、という位置づけです。しかし、イエスの評価は逆転します。
まず、パリサイ人の祈りを見てみましょう。
彼は、ささげ物を持って神殿に行きます。旧約聖書のモーセの律法に忠実です。
しかし、祈りの内容は、「私は」を繰り返す道徳的な自慢、宗教的な自慢。そのうえ、自分の徳や善行を自分の手柄にせずに神に感謝するという完璧なよそおい、です。
また、他の人と比較しています。自分の罪は見えないが、他人の罪は見えるものです。
彼の祈りは、自分が基準の祈り。神に届かない、ひとりごとのような祈りです。
次に、取税人の祈りはどうでしょうか。
「遠く離れて立ち」というのは、神殿と自分の心の距離を表しています。
普通の祈りの姿勢は、両手と目を天に向かって上げるのですが、彼は、目もあげられません。
「自分の胸をたたく」というのは、悲しみの表現です。
「神さま。こんな罪びとの私をあわれんでください。」 彼は、ささげ物は持ってきていません。神の恵みだけに頼ろうとしています。
彼の祈りは、神の基準をわきまえています。どんなに頑張っても神の基準に人は達することはできません。彼の祈りは、自分の罪に焦点を合わせた祈りです。自分に誇れる点は何もないという認識から出た祈り、これが神に届く祈りなのです。
きょうの結論
携挙が近づく終末の時代であるという時代認識をもちましょう。
失望せずに、祈り続けましょう。
ただし、注意。取税人の祈り=「神さま。こんな罪びとの私をあわれんでください。」、これは、今の私たちがする祈りではありません。あわれんでください、というのは、怒りをおさめてください、という意味です。
今の時代、すでにイエスが十字架にかかってくださったので、イエスを信じる信仰を通っていくと、神の怒りはおさめられているからです。
へブル2:17 民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
Ⅰヨハ2:2 私たちの罪だけでなく、世全体のための なだめの供え物です。
メシアの贖いの死によって、すでに「恵みの座」が用意されています。私たちの正しい応答は、「信じます」です。
そして、再臨と御国の到来を待ち望みつつ、日々神に仕えましょう。