「ラザロの復活」(ヨハネ11:1〜44)・「第一のヨナのしるしへの拒否」(ヨハネ45〜54)
本日は、中川先生の東京定例会でのメッセージ、「メシアの生涯」第139回・第140回・第141回、題名は、「ラザロの復活」と「第一のヨナのしるしへの拒否」です。
まず、いつものとおり、文脈の確認をしましょう。
いよいよ十字架の時が迫っている時期です。
まず、「後期ユダヤ伝道」、十字架にかかる前の年の秋から冬にかけての出来事です。
秋、仮庵の祭(ヨハネ7:1〜10:21)。
仮庵の祭の後、宮きよめの祭の前までの間での出来事(ルカ10:1〜13:21)。
そして冬、宮きよめの祭での出来事(ヨハネ10:22〜39)。
次に、「後期ペレヤ伝道」が続きます(ヨハネ10:40〜42、ルカ13:22〜35)。
宮きよめの祭のあと、イエスと弟子たちはエルサレムから離れて、ヨルダン側の向こう岸(東側)、ペレヤ地方に移動しました。そこでは多くの人々がイエスを信じました(ヨハネ10:42)。
そこに、ラザロが病気だという知らせが入ります(ヨハネ11:3)。
イエスは、ペレヤ地方を発って、ラザロが住む村、エルサレム近郊のベタニヤに向かいます(ルカ13:22)。
このエルサレムに向けての途上で、いくつかの教えがありました。
まず、「後の者が先になる」(ルカ13:22〜35)。イエスをメシアとして信じて永遠のいのちを受ける人々が、エルサレムの指導者たちではなく、ペレヤの庶民たちが先になった。やがて、ユダヤ人ではなく、異邦人が先になる。そういう内容の教えです。
パリサイ人の家でも、同じテーマが取り上げられました(ルカ14:1〜24)
イエスは、さらにエルサレムに向けて進みます。多くの群衆がついてきます。イエスは、彼らに、イエスの弟子となるための条件について語られました(ルカ14:25〜35)。
イエスの教えはさらに続きます。『3つのたとえ話』がありました。これも「後の者が先になる」というテーマの続きです(ルカ15:1〜32)。主人公は、たとえ話①「いなくなった羊」では羊飼い、たとえ話②「なくした銀貨」では女、たとえ話③「いなくなった息子」では軟弱な父親です。いずれも当時のユダヤ教指導者たちが軽視するような立場や性格な人たちですが、イエスはあえて神をそのような主人公にあてはめてたとえ話をされています。そして、失われている罪人に対して神はどのような態度をとるかを教えておられます。
その次に学んだのは、管理人についての3つの話でした。これは、イエスの弟子としての歩み方がテーマで、不正な管理人のたとえ(弟子たちに。ただし、パリサイ人たちも聞く)、金持ちとラザロの物語(パリサイ人たちに)、赦しと奉仕に関する教え(弟子たちに)でした。
こうして振り返ると、イエスは「後の者が先になる」という救いに関する教えを語り、次に救われた者がどう生活すべきか、イエスの弟子としての歩み方を教えるというパターンを2回繰り返しておられるとわかります。
さて本日は、ラザロの復活に関する箇所に入りますが、はじめに他の出来事との比較をしておきます。イエスは、これまでにも同様の奇跡を行っていました。もちろん、復活といっても、永遠の体を受けるという意味での復活ではなく、厳密には、「蘇生」というものですが、ラザロ以前にも2例ありました。会堂管理者の娘(マルコ5:21〜24、35〜43)とナインのやもめのひとり息子(ルカ7:11〜17)です。それらの奇跡との違いは、3つあります。
ひとつ、先の2例は死んですぐの復活、ラザロは4日目の復活です。
ふたつ、福音書記事の扱い(数節、44節)です。
みっつ、先の2例では少数の目撃者、ラザロの場合は多数の目撃者です。
ラザロの復活が重要であるのは、イエスがユダヤ人たちに預言された「ヨナのしるし」(ルカ11:29、マタイ12:40)のひとつだからです。これは、イエスのメシア性を証明する最大の奇跡であり、イエスの公生涯で最も重要な奇跡と言ってもよいでしょう。これを目の当たりにした国の指導者たちは、信仰によって、応答しなければならないのです。しかし当時のユダヤ人指導者たちは、それを拒絶したのです。
では、本日のテーマ、ラザロの復活です。話は少し前に戻ります。イエスがまだペレヤ地方にいたとき、ラザロが重病という知らせが入ったところからです。聖書箇所は、ヨハネ11:1〜54です。
イエスと弟子たちの会話です(1〜16節)。彼らがヨルダン川を渡って東側のペレヤ地方に来ているのは、エルサレムでイエスに身の危険が迫ったからでした。弟子たちは、ラザロ重病としてもエルサレムに近づくのは避けた方がよいと進言します。しかし、9〜10節、イエスの認識は、『ベタニヤに行くのは、そんなに危険なことではない。神の御心の内を歩めば、つまずくことはない』。
16節、トマスの言葉は、落胆から出た開き直りの気持ちが読み取れます。
イエスとマルタの会話です(17〜27節)。17節、ラザロは墓の中に入れられて四日も経っていました。当時、パリサイ人たちは、死者の魂は死後3日間漂っていると教えていました。四日経つということは、蘇生の見込みなしという人々の理解が成り立つということです。イエスはその時期を待っていたのです。
当時の埋葬法は、2段階。遺体を麻布にくるんで埋葬し、後に遺骨を石棺に納めました。
25〜26節、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」 肉体の死は、新しい命をもたらします。イエスを信じる者は、肉体的に死んでも、霊的には永遠に生き、その霊的な命は、やがて栄光の体に結びつきます。
イエスとマリヤの会話です(28〜32節)。
イエスとラザロ(33〜44節)です。
ラザロの墓は、洞くつに入り、地下に下るようになっていました。洞くつの入り口には石を立てかけてありました。野獣の侵入を防ぐためです。ちなみに、イエスの墓は、横穴式です。
33節、「彼女が泣き、・・・ユダヤ人たちも泣いている」。この「泣く」というのは、ギリシヤ語の原語ではクライオウ、大声で泣くという意味です。マリヤは、イエスの前で泣きました。彼女についてきたユダヤ人たちは墓の前で泣いていたのでしょう。その一部は、職業的に泣いていたのかもしれません。
33節、「(イエスは)霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」とあります。イエスは、死がもたらす悲劇、苦しみのことを思われたのでしょう。罪は、ひとりの人の不従順によって世に入って来ました。その背後にはサタンがいます。死の恐怖で人々を束縛するサタンに対して、イエスは憤られたのです。
35節、「イエスは涙を流された」。ここの原語はダクルオウ、声をあげずに涙を流すという意味です。イエスの人性の深みに触れる箇所です。イエスは、マルタ・マリヤ姉妹の悲しみに同情されました。ここからは、クリスチャンが葬儀で涙を流すのは、不自然なことではないことがわかります。
41〜42節、イエスは公に祈ります。これは、奇跡が起こった時、自分に栄光が来ないようにするためです。また、この奇跡は、イエスが父から遣わされた使者であることを証明するものという表明です。
信じたユダヤ人たち(45節)
死者の復活は、メシアだけが行うことができる奇跡です。民衆は、パリサイ人からそのように教えられていました。ですから、ラザロの復活を目撃した多くの者が、イエスはメシアであると理解しました。そして、その数は多かったとあります。
パリサイ人に報告したユダヤ人たち(46節)
しかし、幾人かは、メシア的奇跡を目撃しながらも、イエスをメシアと認めず、エルサレムに戻り、パリサイ人たちに報告しました。彼らは、パリサイ人たちの手先であったと考えられますが、信仰への最大の障害は、その人の道徳的状態です。内面にある邪悪な心、反抗心、不信仰な心です。人は、「信じたくない」から信じないのです。心の入り口に「墓石」を置いた状態です。
祭司長とパリサイ人たち(47〜48節)
語順から見て、祭司長たち(サドカイ派)がイエス殺害計画の主導権を握り、パリサイ派はそれを支持する、という構図になったと思われます。イエスがしるしを行っていることは、彼らも認めています。このまま放置すれば、どうなるか。彼らの認識は、次のようなものです。
イエスをメシアと信じる人たちが多く出る
彼らは、イエスを王として擁立する
そうなると、ローマが介入してくる
われわれの土地も国民も滅ぼされてしまう。
「土地」は、原語では定冠詞付きの「場所」。祭司長にとっての、ザ・プレイスとは、神殿です。職場であり、利権です。祭司長たちの優先順位は、国民よりもまず神殿でした。
大祭司カヤパ(49〜53節)
「その年の大祭司」とあります。本来、大祭司は終身職です。しかし、ローマは、ひとりの人が巨大な権力を握るのを嫌いました。時々の情勢に合わせて、都合の良い人物を大祭司に任命しました。カヤパは、紀元18年〜36年に大祭司であった人物です。もちろん、親ローマ。イエスの裁判の席にいました。後年、ペテロとヨハネが議会に連れて来られた時も登場します(使4:6)。
52節「散らされている神の子たち」、これは異邦人信者たちを意味します。イエスの死は新しい時代(教会時代)をもたらすことになったという福音記者ヨハネの説明です。
イエス(54節)
イエスの時(十字架の時)はまだ来ていません。ここではいったんユダヤを去り、エフライムという町に入られました。ベタニヤの北約25キロの町です。ユダの荒野に近い地方ですから、危険が迫れば、逃げることができる位置です。次にイエスがユダヤに入るのは、十字架にかかる時です。
本日の結論として次の2点を見ましょう。
まず、死の聖書的意味です。死は、罪がもたらした悲劇です(ローマ5:12)。肉体の死は、霊的な死に関する実物教育です。肉体の死は、霊と肉体の分離です。霊的な死は、神からの分離です。
イエスは、人々に命を与えるために来られました(ヨハネ10:10)。そのイエスに対して2種類の人たちがいます(ヨハネ3:36)。イエスを信じて命を得る人たち。そして、イエスを拒否する人たちです。彼らの最後は「火の池」、第二の死(黙20:14〜15)です。神からの永遠の分離です。
神の御心に従っている人には、神が定めた時以外に死が襲うことはありません。神の御心の外を歩いている人は、危険な状態にあります。それは、闇の中を歩くことです。イエスがおられる間に信じなければ、やがて闇が襲うようになります。
本日の結論のふたつめ、ラザロの復活と実物教育です。
イエスは、死人に命を与えます。肉体の復活は、いつかというと、大きく分けると2回あります。
まず、携挙の時(Ⅰテサロニケ4:16)です。キリストにある死者の復活です。
次に、イエスの地上再臨の時です。このときには、旧約時代の聖徒たちの復活(ダニエル12:2)と大患難期に殉教した聖徒たちの復活(黙20:4,6)が起きます。
今の時点では、イエスは霊的に死んでいる人を霊的に生かしてくださいます(エペソ2:1〜7)。