神である主の霊が、わたしの上にある。
主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、
心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、(61:1)
主の恵みの年と、(61:2a)
われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむものを慰め(61:2b)
シオンの悲しむ者たちに、
灰のかわりに頭の飾りを、
悲しみの代わりに喜びの油を、
憂いの心の代わりに賛美の外套を
着けさせるためである。
彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。(イザヤ61:3)
「しもべ」という言葉は、イザヤ42章〜66章では、メシアのタイトル、称号として用いられています。ここには、5つのしもべ預言があります。
① 42:1〜6 ヤハウェのしもべ
② 49:1〜13 しもべの落胆
③ 50:4〜9 しもべの訓練
④ 52:13〜53:12 しもべの受難
⑤ 61:1〜3 しもべの使命
本日のテーマは、5番目の「しもべの使命」です。イザヤ61章1節から3節です。
メシア預言には、3つのパターンがあります。
Aパターン=初臨に関する預言
Bパターン=再臨に関する預言
Cパターン=初臨と再臨の両方を扱うが、初臨と再臨との間に時間的間隔があることについては明確に述べていない預言
しもべの使命に関する本日の箇所は、Cパターンになります。1節と2節aは初臨について、2節bと3節は再臨についての預言です。
イエスが宣教活動する中で、この預言を引用して語ったことがあります。ルカの福音書4章14節から21節です。
イエスは御霊の力を帯びてガリラヤ(地方)に帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。
イエスは彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。
それから、イエスはご自分の育ったナザレ(村)に行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主は、貧しい人たちに福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。
主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:14〜21)
イエスが朗読した箇所は、イザヤ61章1節と2節aです。2節bからあとは読まずに、巻物を巻いて閉じました。人々は、「あれ、途中までしか読んでいない」と思ったことでしょう。イエスは座ります。会堂ではラビ(ユダヤ教の先生)は座って教えますから、ここからイエスの教えが始まることがわかります。会堂にいる皆の目がイエスに注がれました。
イエスは、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」ということばで話し始めます。そう言えるのは、メシアの初臨の部分だけで、2節bと3節はイエスが戻って来てから、つまり再臨のときに成就する内容だから、途中までしか読まなかったのです。
3節にある「神の復讐の日」とは、7年間の大患難時代を指します。大患難時代はイエスの再臨で終わり、そのあとでメシアの王国が地上に建てられます。その首都はシオン、すなわちエルサレムです。これらのことは、今でも成就していません。私たちにとっても、将来起こる事です。
では、イザヤの預言、61章1節と2節aを詳しく見てみましょう。
メシアは、その使命と職務を遂行するために、聖霊によって油注がれるであろう
旧約聖書の時代には、祭司や王はその任命の際に頭に油を注ぐという儀式を受けました。油は神の霊の象徴であり、神の霊に満たされ、神の導きのうちにその職務を行うということを示すものです。「油注がれた者」をへブル語では「メシア」、ギリシヤ語では「キリスト」といいます。
イエスに対する聖霊による油注ぎは、イエスがバプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けたときに起こりました。
イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」
ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊は鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13〜17)
この時をもって、イエスの公生涯は開始します。イエスは、このときから公式にご自身をメシアであると宣言するようになりました。
メシアの初臨において、メシアがすることは人々によい知らせ(福音)を伝えること、その内容は次の3つ
① 捕えられている者たちに、自由を宣言する
② 縛られている者たちの牢屋を開く
③ ヤハウェの恩恵を受けることのできる年であると宣言する
① 捕えられている者たちに、自由を宣言する
ユダヤ人たちは、モーセの律法のもとに生きていました。律法は本来良いものですが、613ある戒めのすべてを完全に守るということは誰にもできませんでした。それを守る力を持たない人にとっては、律法は自分の罪を自覚させ、律法の呪いのもとにあることを教えるものです。そこが出発点となって、人は、自分の行いによっては自分を救えないこと、救いは神からのみ来る、と知ることができます。
しかし、ユダヤ人たちは自分の罪を認めて神の前にへりくだるかわりに、逆にモーセの律法を持っていることで異邦人に対して誇り、自分たちは神に選ばれた特別な民だと傲慢になりました。
そして、モーセの律法を守っていると言えるために具体的に何をすればよいのか、何をしてはならないのか、自分たちで事細かな生活指針を作りました。それが「長老たちの言い伝え」(マタイ15:2)と呼ばれるものです。そのうち、モーセの律法は横において、その指針を守ることに熱心になっていきました。そして、律法の精神を見失って、神に喜ばれない状態にますます陥っていきました。この状態を、イエスは次のように警告しました。
こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」(マタイ15:6〜9)
形だけ、外面だけ、言い伝えを守ったとしても、罪を犯す者は、罪の奴隷です。ユダヤ人たちはそのありのままの姿を見ることができず、事細かな言い伝えにがんじがらめに縛られた、規則の奴隷のような生活を送っていました。
メシアは、ユダヤ人たちに律法からの自由と解放を教えるために来る、それがメシアの使命のひとつです。どうやって自由になり解放されるかというと、
まずメシアであるイエスが律法を完全に守りました。そして他の人の罪を身代わりに負って、十字架で死んでくださいました。
そのことを信じる人には、自分の罪はすべて(信じる前の罪も、信じたあとの罪も)十字架で処理され、神の前に義人として認められます。もはや、信者は律法に責められることはないのです。
② 縛られている者たちの牢屋を開く
このことを詳しく説明しているのは、新約聖書へブル人への手紙2章14節から16節です。
子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷になっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かにアブラハムの子孫を助けてくださるのです。(へブル2:14〜16)
ユダヤ人はモーセの律法を守ることができなかったために、また異邦人は良心に刻まれている神の基準を守ることができないために、サタンから来る恐れ、すなわち死の恐怖によって縛られています。
イエスの使命のうち、初臨に関する使命のひとつは、サタンから「死とハデス(よみ)」の鍵を奪い取ることです。
イエスは十字架にかかって私たちの罪の身代わりとなって死んで、墓に葬られましたが、三日目に復活し、40日間にわたって弟子たちに現れたあと、天に昇られました。イエスは死んでハデス(よみ)に下ったのですが、そこから復活して天に上りました。
そのことを信じる者には、イエスと同じ復活の体、永遠のいのちが与えられます。サタンは、もはや「死とハデス」の鍵を持っていません。
イエスを信じる人は、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、もはや死を恐れる必要はありません。恐れという牢屋の中に閉じ込められることはないのです。
③ ヤハウェの恩恵を受けることのできる年であると宣言する
「年」は「1年」という意味ではなく、「期間」とも訳せます。「神の恵みによる恩恵を受けることのできる期間を告げる」という意味になります。
メシアの死をもって、律法の時代は終わり、恵みの時代が始まりました。
神の恵みのもとに、私たちの救いは、どのようにして得られるでしょうか。純粋に、次のことを受け入れるだけです。メシアは、私の身代わりとなって死んで、三日目に復活されたのだ、と。
これは、人がその人生のどこかの時点でしなければならない、ひとりひとりの決断です。生まれながらのクリスチャンなど一人もいません。新約聖書のいうクリスチャンとは、信仰の決断をした人です。
《出典 Dr. Arnold G. Fruchtenbaum “Messianic Christology” ,pg. 53 – 59》
(聖書フォーラム 福岡集会 2016年1月16日)