2015年12月19日
前回までの流れ
旧約聖書は、へブル的には、律法、預言者、諸書の3つに区分されます。私たちは、この区分にそって、メシアの初臨についての預言を学んでいます。「律法」から5つの預言を学び、「預言者」に入って、まずイザヤ書の多くの預言について見ています。その中で、今、私たちは、イザヤ書の42章〜66章、「しもべ」預言と呼ばれる分野に来ています。
「しもべ」は、ここでは、メシアのタイトル称号のひとつです。しもべ預言には、次の5つがあります。
- ヤハウェのしもべ(42:1〜6)
- しもべの落胆(49:1〜13)
- しもべの訓練(50:4〜9)
- しもべの受難(52:13〜53:12)
- しもべの使命(61:1〜3)
前回までに、3番目まで見ました。少し振り返ってみましょう。
まず、ヤハウェのしもべ(42:1〜6)です。これは、しもべの全体的な紹介です。ポイントは4つありました。
- メシアは聖霊によって油注ぎを受ける
- メシアは謙遜で、柔和な方としてふるまう
- メシアの使命は、一見すると失敗したかのように見えるが、実際には完全に成功する。(実は、メシアの使命が成功するためには、その死が必要であったのですが、ここではまだ語られません。)
- メシアの使命には、異邦人に救いをもたらすことも含まれている
次に、しもべの落胆(49:1〜13)。しもべの使命には困難が伴うが、結果的には成功します。
そして、三番目、しもべの訓練(50:4〜9)。 しもべは、子どもの頃から父なる神によって訓練を受けます。聖書の知識理解はもちろんですが、その主な目的は、しもべが受ける苦難に耐えるようにすることです。受難の理由はここでは語られません。
そして、本日のテーマ、四番目のしもべの受難(52:13〜53:12)へとつながります。
しもべの肉体的な苦しみは死にまで至ること、しもべが苦しみを受けることと死ぬことの理由も明らかとされます。
しもべの受難(52:13〜53:12)
まず、この預言の構造について、説明しましょう。
52:13〜15は、受難の総括です。そして、その詳細を 53:1〜12 で語るという形になっています。
受難の総括(52:13〜15)
13節a しもべは栄える、とありますが、別の訳では、「賢くふるまう」です。しもべの訓練で受けたとおり、父なる神から言われたことだけを語り、その通りにおこなう、これが賢くふるまうという意味です。
13節b しもべは、3つのステップで高められます。いわゆる、「メシアの高揚」と呼ばれる出来事です。
- 高められ・・・・・・・・復活
- 上げられ・・・・・・・・昇天
- 非常に高くなる・・・父なる神の右の座に着く
14節 メシアが高揚される前に経験することです。
その顔だちは、そこなわなれて、人のようでなく・・・これは、むち打ちの結果です。
ここで、イザヤ書を少し離れて、ルカの福音書を見ましょう。
ルカ23:22 「懲らしめたうえで釈放する」、イエスの裁判において、裁判官となったローマ総督ピラトは、3度にわたり無罪宣告をしますが、それでもユダヤ人指導者たちに扇動された群衆は、死刑を叫びました。
ピラトは、懲らしめたうえで釈放する、つまり「むち打ち」に処して、その無残で痛々しい姿を見せれば、群衆の怒りもおさまるだろうと考えたのでした。ローマのむちは、釘などの鋭利な突起物を編み込んだ恐ろしいむちでした。単に皮膚を破るだけでなく、肉を骨から引きちぎるほどの威力があります。むちは打つたびに背中だけでなく、顔や胸にもまわります。
イエスの顔も体も、とても人とは思えないほどに痛めつけられ、その姿が群衆の前にさらされました。ピラトは「見よ、この人を」と宣言しました(ヨハネ19:1〜5)。あまりのむごたらしさに、多くの者が驚いたでしょう。しかし、ついに釈放はならず、ピラトは死刑を宣告します。
イザヤ書に戻りましょう。
15節 この受難にもかかわらず、再臨のメシアの前で地上の支配者たち、王たちが口をつぐむことになります。諸国の支配者たちが、メシアの受難の意味(目的)を理解する日が来るのです。
詳細(53:1〜12)
さあ、受難の詳細についての預言です。ここは、3節ずつ、4つの区分に分けられます。
53:1〜3 私たちの聞いたことを、だれが信じたか(=だれも信じなかった)
第一の区分のテーマは、イスラエルの不信仰です。
主の御腕は、だれに現われたのか。「だれが、『ヤハウェの腕』なのか」という意味です。「ヤハウェの腕」、ヤハウェというのは聖書を通してご自身を啓示された神のお名前です。日本語の聖書では「主」と表記されています。ヤハウェの腕とは、これもメシアを指すタイトル称号です。イザヤの預言の中で、次のように使用されています。
- 「ヤハウェの腕」は、神にかわって統治する(40:10)
- 異邦人は、「ヤハウェの腕」に信頼する(51:5)
- 「ヤハウェの腕」が人々を贖う(買い戻す)(51:9〜11)
- 「ヤハウェの腕」が救いを提供する(52:10)
このように、「ヤハウェの腕」について預言されたうえで、ここ53章1節に来て、「ヤハウェの腕」=ヤハウェのしもべであることが明確にされました。
1節以下は、将来、大患難期の最後にイスラエル民族が、イエスをメシアとして受け入れ、民族的な悔い改めをするときの、祈りのことばになります。あとで詳しく触れますが、現代のユダヤ教会堂では、イザヤ書朗読のとき、52〜54章はスキップされてしまうそうです。
2節は、なぜイスラエルが信じなかったか、イエスのメシア性を拒否したか、その理由が語られます。
- メシアの初臨には、特に変わったことは見られない
- メシアは普通に生まれてきた。それも、貧しい家庭環境に。これは、イザヤ11:1の「エッサイの根株」預言の成就です。
- 子ども時代は、見た目では他の子どもと変わりなく、成長した。
- メシアの容貌は、特に人の目を引くものではなかった(ごく普通のユダヤ人男性=ユダヤ風のひげ、茶か黒の目、多分、背は高くない)。ハンサムでもない。
3節では、彼の人生全体を一言で表現すると、拒否され、苦しみを受けることであると、預言されます。
53:4〜6 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった
第二の区分のテーマは、メシアの受難の意味です。ひと言で言えば、メシアの受難は、身代わりで受けるものです。
4節、メシア受難の時点では、イスラエルはその意味を理解せず、むしろ彼は神によって罰せられたのだと考えました。
メシアが罰せられたのは、彼自身の罪の結果であり、他人の罪を負ったとは、イスラエルの人々は考えもしませんでした。
5節、大患難期の最後にイスラエルは、メシアがイスラエル民族の罪のために侮辱され傷つけられ、イスラエル民族の咎のために打たれ痛めつけられたのだ、と理解します。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」ということばの中に、メシアの受難が身代わりであることが明確に語られています。
将来、大患難期の最後、イスラエルは、民族的に悔い改めて、次のように告白することでしょう。
「イスラエルの罪を負って、メシアが身代わりとなり、苦しんでくださった。それによって、私たちは神と和解させられ、霊的な平安をいただくことができる。」
6節、メシアが苦しみを受けたのは彼自身の罪ではない。ヤハウェは、私たちの(=イスラエルの)すべての咎を、彼に負わせた。ここにも、イスラエルの悔い改めの告白が預言されています。
「罪を犯し、さまよっていたのは、私たちです。神は、私たちイスラエルの罪を、ヤハウェのしもべに負わせ、それゆえ彼が苦しみを受けたのです。」
53:7〜9 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない
第三の区分は、メシアの死と葬りです。
7節、しもべは、苦難と不当な扱いを耐え忍び、自己弁護もせず、不平不満を一言も言いません。
8節、しもべは法廷で裁きを受け、死刑の宣告を受けて、刑の執行がされます。
「取り去られた」というのは、原語では、法的な死刑によって死ぬことを意味することばです。
「そむきの罪」とは、律法や法律を破ることを意味することばです。
「わたしの民」とは、イスラエル民族のことです。
ここは、メシアが死ぬことを最初に明確に預言した箇所です。
9節、メシアの葬りです。
死刑で処刑された犯罪者の墓は、本来は「犯罪者の墓」です。
しかし、神が介入して、メシアの墓は、名誉ある場所、「金持ちの墓」となります。
これは、マタイ27:56〜60にその成就を見ました。
このことは、メシアの口に欺きはなかったことの証、彼の死は、まさに身代わりだったのです。
53:10〜12 しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった
最後、第四の区分は、神のみこころに従ったということ、そしてメシア復活の暗示です。
10節、メシアの死について、究極的に責任を負うのは、誰か。
ユダヤ人でも、ローマ人でも、ない。ヤハウェご自身です。
メシアは、神のみこころに従って、「自分のいのち(魂)」を人々の罪のためのいけにえとしました。
この世に救いを提供できる唯一のお方は、神です。
メシアの死は、決して、事の成り行きで偶然そうなったのではなく、神の計画の中の一部です。
「血を流すことなしに、罪の赦しはない」、これが聖書の原則です。
旧約時代ではモーセの律法において、動物の犠牲制度がありました。これは一時的に罪をおおうもの、そのおおう効力も1年間、つぎのヨム・キプール(贖罪の日)まで、でした。
メシアは、罪のための最終的な犠牲になられたのです。それも、単に罪をおおうのではなく、罪を除く力を持った犠牲です。
そして、彼は末永く、(霊的な)子孫を見ることができる、と預言されました。これは、復活の暗示です。
復活については、ここでは明確に語られませんが、死ぬことが預言されたあとで、このように復活が暗示されます。
主のみこころは、彼によって成し遂げられる、とあります。 メシアは使命を達成するのです。
11節、メシアは死ぬけれども、ご自身の苦しみの結果を見て、満足します。その知識によって、多くの人を義とするからです。
「その知識」とは、メシアは罪のために死んだ、という知識です。へブル的には「知識」とは、体験的な知識であって、メシアをそういうお方として信頼することまで含んでいます。これが、信仰です。
この信仰によって、メシアは多くの人を義とすることができます。メシアの死はすべての人のためですが、その効果を受け取るためには、信じることが必要です。
12節、メシアは最終的に、メシアの王国に来られます。彼が自分のいのち(魂)を死に明け渡したからです。
メシアは罪人のひとりに数えられたが、彼はそうではありませんでした。むしろ、彼は他の人たちの罪を負いました。そして、彼の死と復活によって、今は天におられます。そこで今、メシアは多くの人たちのためにとりなしをしています。そして、地上に帰り、メシアの王国を立てるに至るのです。
ユダヤ教の見解の変遷
最後に、このイザヤの預言に対して、ユダヤ教がどのような見解態度をとってきたかを見ましょう。
現代では、ほとんどのラビたちが、この預言を、メシアの受難についてではなく、イスラエル民族が異邦人世界の中で苦しみを受けることを指すと教えます。また、その解釈はユダヤ教の伝統的な解釈であるとさえ教えますが、それは歴史的に誤りです。
古代のユダヤ教の文献・・・ミシュナ、ゲマラ(タルムード)、ミッドラシム、その他の多くの文献では、みなこの箇所をメシアに関連するものとしています。
紀元1050年頃、ラビのラシが初めてこの箇所を、イスラエル民族を指すという見解を発表しましたが、当時ユダヤ教の他のラビたちから激しい反論を受けました。著名なラビであるランバンは、ラシの説はユダヤ教の伝統的な見解に全く反しており、それは完全な誤りであると、明確に述べました。
しかし、1800年代にキリスト教の福音宣教の中でこの預言箇所がよく取り上げられたため、ユダヤ教の中でキリスト教に対する理論的対抗のためにラシの説に関心が高まりました。その結果、現代のユダヤ教ラビたちはラシ説を教えるようになりました。
とはいえ、イザヤ書の52章から54章を文脈のとおり読んでいけば、いくつかの箇所はイスラエル民族にあてはめることは明らかに不可能です。そこで、現代のユダヤ教の会堂シナゴーグでは、この箇所を読みません。イザヤ書を公開朗読するときは、イザヤ書52章から54章はスキップされます。
古代ユダヤ教のラビたちの見解
この箇所は、メシア預言である、としています。
しかし、聖書のメシア預言には、二通りのパターンがあります。ひとつは、メシアが苦難を受けるというパターン。もうひとつは、敵を打ち破り、支配し、そしてエルサレムを王都として統治するというパターンです。この矛盾をどう説明したらよいのでしょうか?
もちろん、現代の私たちは、メシアは二回来る、一回目は受難のしもべとして、二回目は王として、というようにです。しかし、古代ユダヤ教のラビたちは、二人のメシアがいる、という想定をしました。
第一のメシアは、「ヨセフの子」のメシア。ヨセフは、エジプトで苦難を経験した人物です。ヨセフと同様に、第一のメシアは、来て苦難を受けて、しもべ預言を成就して死ぬ。その預言は53章にあるとおりです。
第二のメシアは、「ダビデの子」のメシア。このメシアは来て、第一のメシアをよみがえらせます。それから、メシアの王国を建て、支配し、統治します。
このように、古代ユダヤ教のラビたちは、メシアが二回来るという正しい理解をすることはできませんでしたが、メシア預言の中にメシアが死んで復活するという教えが含まれていることは正確に把握していたと言えます。
きょうのまとめです。イザヤ52:13〜53:12が教えるのは・・・
- メシアは普通の環境の中で生まれ育ち、特に変わった様子は見られない。
- メシアの初臨は、その特徴を一言で言えば、苦しみを受けることである。
- メシアの初臨は、拒否される。
- メシアは法廷の裁きにかけられ、死刑宣告を受ける。
- メシアは処刑死する。
- メシアは金持ちの墓に葬られる。
- メシアは復活する。
- メシアが苦しみを受けることと死ぬことは、身代わりである。このお方が死んだので、私たちは生きることができる。このお方が死んだので、私たちの罪は私たちから取り除かれる。このお方が死んだので、私たちは神との新しい関係に入ることができる。
- メシアは、信じる人すべてを義とする。