熊本聖書フォーラム

メシアの生涯 / 祭司長と民の長老による小羊の吟味(1)

2016.05.09

カテゴリー:y メシアの生涯

□文脈の確認

イエスは、メシアとしてエルサレムに入城されました。紀元30年、当時のユダヤ暦でいうとニサンの月の10日、週の初めの日でした。その翌日の月曜日、いちじくの木の呪いと宮清め、ギリシヤ人の面会希望と「一粒の麦」の教えがありました。イエスと弟子たちは、夜になるとエルサレムの町の中では過ごさないで、近郊のベタニヤ村か、その途中にあるオリーブ山で過ごしました。
火曜日の朝、エルサレムに向かう途中で、枯れたいちじくの木を前にして、祈りに関する教えがありました。今回取り上げる出来事は、火曜日にエルサレムに入ってから起きたことです。

 □この箇所の背景

 ■過越の小羊

旧約聖書の出エジプト記に「過越の小羊」が登場します。エジプトで奴隷状態にあったイスラエル民族を解放するために、神は10の災害をエジプトに下しました。その最後の十番目が「死の使い」です。このとき、イスラエルの各家庭では一頭の小羊をほふり、その血を家の出入口に塗っておくと、死の使いがその家の前を過ぎ越していき、その家では死者が出ませんでした。この身代わりの犠牲となる小羊を「過越の小羊」と言います。
この「過越の小羊」は、イエスの型です。イエスは、十字架で血を流してくださり、私たちを永遠の滅び(第二の死)から贖い出してくださいました。過越の小羊はそのことを予表する型であり、本体はイエスであると言えます。

 ■この箇所の背景

イエスの公生涯の最後の一週間は、過越の小羊に予表されていたことと一致します。
過越の小羊の場合、まず、ニサンの月の10日に過越の小羊が取り分けられます。そして、14日までの4日間、しみや傷がないかどうか、吟味を受けます。最後に、14日の夕方に小羊をほふり、15日に人々は過越の食事を食べます。モーセの律法では、15日は聖なる会合の日とされました。
イエスの場合は、どうでしょう。イエスは、ニサンの月の10日にエルサレムに入城し、人々の前に立ちました。次に、イエスは、4つのグループの指導者たちから、神学的論争で挑戦されました。そして、イエスは弟子たちと過越の食事を共にし、新しい契約の杯をかわしました。そして、15日に十字架にかかり、贖いの血を流されました。

 ■指導者たちの挑戦

過越の小羊が4日間にわたり、しみや傷がないかどうか吟味されたように、イエスはユダヤ人の指導者たちから挑戦を受けました。このとき指導者たちは、中立的にイエスがメシアであるかどうかを判定しようとしたのではありません。「イエスはメシアではない」という結論を前提にして、イエスを攻撃してきました。その攻撃の方向は、2点ありました。

第一は、イエスの経歴には何の見るべきものもないことを突くことです。そしてイエスを神学的に論破することで、そばで聴いている群衆がイエスを軽蔑するようにして、イエスの求心力を失わせようとしました。
第二は、ローマ総督に訴えてイエスを死刑に処することができるように、「イエスは群衆を扇動して、ローマに対して反乱を起こそうとしていた」と訴える口実を、イエスの言動から引き出そうとしました。

 ■指導者たちとの議論の特徴

イエスと指導者たちとの論戦には、古代世界における典型的な議論の展開が見られます。どういう点が典型的かと言うと、3つあります。まず、お互いに一方的に意見を述べ合うというのではなく、質疑応答をかわすという流れです。二つ目は、堅い平坦な言い回しで終始するのではなく、機知に富んだ軽妙な言葉を使い、聴衆が興味をもって聞き入ることができます。三つ目は、そのようなやりとりをする中で、論敵の言葉の矛盾を突く論理展開をできた方が勝ちとなります。

 □アウトライン

この箇所は、次の4つの内容に区分できます。今回は、最初の2つを扱います。あとの2つは次回5月22日の集会で扱うこととします。
①イエスの権威に対する挑戦(マタイ21:23〜27)
②ふたりの息子のたとえ話(28〜32節)
③ぶどう園の主人と農夫のたとえ話(33〜46節)
④婚宴のたとえ話(22:1〜14)

 □イエスの権威に対する挑戦(マタイ21:23〜27)

■最初の挑戦は、祭司長と長老たちから(23節)

「祭司長」は、サドカイ派です。ローマから認められる自治権と神殿運営による既得権を守りたい、政治家的な指導層です。これに対して、「長老」はパリサイ派です。自分の職業を持って経済的には自立しています。貧者への施しと敬虔さで、民衆からはサドカイ派より支持を得ていました。普段はあまり仲の良くない両派が、イエスに対しては結束して対抗してきました。

■彼らの質問(23節)

何の権威によって、これらのことをするのか? だれが、おまえにそのような権威を与えたのか?

「これらのこと」とは、旧約聖書のメシア預言に沿って、子ろばに乗ってエルサレムに入城したこと、群衆の賞賛を受けたこと、宮から商人たちを追い出したこと、そして神殿で群衆を教えていることなどです。
「何の権威によって」、「だれが権威を与えたのか」というのは、正式なラビ教育をイエスが受けていないことを突こうとする構えです。ユダヤ教では、ラビの権威は、その人が師事したラビから与えられるものでした。そして、ラビが教えるときには、必ず、自分以前のラビたちの教えを引用しました。それに対して、イエスは公生涯の中で一貫して、ラビたちの教えを引用せず、旧約聖書だけを引用してきました。
祭司長と長老たちは、イエスが師事したラビの名をあげられないはず、もし「天から」(神から)と言えば、そのときは「冒とく罪」で攻撃しよう、と考えての挑戦でした。

■イエスの逆質問(24〜25節a)

ここで、イエスは挑戦者の質問に対して質問で返します。「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものか?天からですか、それとも人からですか」。質問に対して質問で答えるというのは、ラビ的議論の典型的な例です。そして、さらにイエスは、「もしこの質問に答えるなら、私もあなたがたの質問に答えよう」という軽妙なやりとりをします。

■ヨハネのバプテスマは、どこから来たものか?

「ヨハネのバプテスマ」とは、ヨハネの活動の中の代表格「バプテスマ(洗礼)」を取り上げることで、彼の活動全体を指します。「ヨハネは、何の権威によって活動したか」という質問です。「天からですか、それとも人からですか」と質問することで、祭司長や長老たちがイエスを攻撃しようとしていた同じ筋道で、逆に彼らが答えに窮することになりました。

■祭司長と長老たちの応答(25節b〜27節a)

もし「天からの権威」と答えれば、それならば、なぜヨハネを信じなかったか、となります。これは同時に、なぜイエスをメシアとして認めないのか、ということになります。ヨハネは、イエスをメシアであると発表したからです。
もし「人から」と答えると、群衆が黙ってはいません。群衆の多くが、ヨハネを神から遣わされた「預言者」であると信じていたからです。その影響力は、現代の私たちが想像する以上のものです。祭司長たちは、祭の期間中に群衆の暴動が起きることだけは、ローマとの関係上、何としても避けたいと思っていました。そこで彼らは、「わかりません」と答えることにしました。

■イエスの応答(27節b)

祭司長たちは、ヨハネが神からの預言者であることを知っていたのです。しかし、彼らは、ヨハネの証言「イエスはメシアである」を受け入れたくなかったのです。さらに言えば、イエスのわざを見ていると「イエスはメシアである」とわかります。しかし、彼らにとってイエスは不都合なメシアでした。だから、イエスを拒否したのです。
「知っていることを、さらに教える必要はない」、これもラビ的教授法の典型です。そこで、イエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と受け流します。これも軽妙なやりとりです。

 □ふたりの息子のたとえ話(28〜32節)

次にイエスは、「ふたりの息子のたとえ話」によって、彼らの矛盾を突きます。軽妙なやりとりの中に、イエスと祭司長たちの間に緊張感が高まっていきます。

■たとえ話の内容=父の依頼と兄弟の返答

父は、ふたりの息子に、ぶどう園に行って働いてくれと言いました。兄の場合は、「行く」と言いましたが、行きませんでした。弟の場合は、「行きたくない」と言ったのですが、あとから悪かったと思って、行きました。どちらが、父の願ったとおりにしたのか?
祭司長たちは、答えます。「あとの者です。」

■このたとえ話の結論

このたとえ話の中で、兄は祭司長たちを指しています。弟は、取税人や遊女たちです。取税人や遊女たちは、祭司長たちが日頃から「救いがたい罪人たち」として排斥していた者たちです。その者たちの方が、先に神の国に入っているというのです。

■このたとえ話の適用

取税人や遊女たちは、神のことばからは遠い所にいました。しかし、悪かったと思って(自分のありのままの状態を認めて)、イエスを信じました。神が受け入れてくださる行動は、信仰から出ます。信仰は、自分を誇るところではなく、自分の足らなさを自覚するところから出ます。

 □きょうの結論

今回の箇所から教えられることが3つあります。

①キリスト教界における権威の問題です。「神学校に行かなくても牧師になれるのか」、答えは「なれます」です。牧師として召されている人には、神がその賜物を与えてくださいます。神学校ではありません。しかし、一方で、神学校は無用なのか、そうではありません。パウロが初心者たちに聖書を教えたように、信者は神が立てた教師の下で教えを受ける必要があります。そして教師は重い責任を負っています。そのような教師になるためには、人一倍熱心に学ぶ必要があります。神学校は正しい神学的教育をして神のみことばを誤りなく教えることのできる教師を育成するべきところです。

②信仰の成長は、「すでに知っていることを実践する→次の段階を教えられる」という過程を踏みます。知っているだけでとどまっているなら、それ以上のことを神は教えてはくださいません。今、あなたが知っている範囲で、信仰の実践をしていきましょう。すると、次の段階の知識が与えられます。実践なくして成長はありません。

③野球では逆転サヨナラのゲームはそうそうありませんが、人生に逆転はつきものです。取税人や遊女たちが先に神の国に入っていると言われたように、どんな失敗者にも神の国の門は開かれています。「福音は、失敗者へのグッドニュース」です。

熊本聖書フォーラム

代表 :清水 誠一

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